向かった先は大通りの向こう、養鶏場のある方向だ。
肥溜めと溜め池が溢れて一つになってしまったようで、溜め池の拡張をしてほしい場所だそうだ。
汚染された池の水は、もう使うことは出来ない。だが、放置すればその汚水が溢れ出して住宅や道路に被害が出てしまう。それを防ぐのだ。
現場は住宅のそばにあった。
溜め池は道よりも低い位置に作られていたようで、道はまだ無事だった。すぐそこにまで汚水は迫っているが、まだ溢れてきてはいない。
そんな道の真ん中に、一組の親子が立ち尽くしていた。
五歳くらいの女の子と、その母親らしい。
大泣きをする女の子に、母親は困り果てた表情を浮かべている。
「ぼーしー!」
「もう諦めなさい。あんな遠くに行っちゃったら取れないわよ」
「いーーーーーーーやぁーーーーーーーーーーー!」
ギャン泣きだ。
鼓膜がどうにかなりそうだ。
近付きたくねぇなぁ……なんて思ってると、妹の一人がとととっと、泣き喚く少女に駆け寄っていった。
妹を見た母親は「ひっ!」と、身を引く。……失礼極まりねぇな。
「どうしたの? なんで泣いてるの?」
突然現れたハムっ子に、ギャン泣き少女は最初キョトンとした表情を見せたが、次第に涙が溢れ出しまた泣き出した。
「な、なんなのよ、あんた! ウチの娘に近寄らないで!」
「あーすいません。領主から話がきてないですかねぇ?」
妹に暴言を浴びせる母親の前に体を割り込ませ、妹を背に庇う。
大人げねぇババアだ。美人じゃなきゃ汚水池に叩き込んでるところだぞ。
「領主様……? ……あ、そういえば朝、領主様の使いの方がお見えになって、困ってることはないかって……」
「で、派遣されてきたのが俺たちです。働き手に攻撃するのはやめてもらえますかねぇ?」
あ、いかん。
俺、イラついてる。
母親を威嚇してどうする。ハムっ子たちのイメージアップが目的なのに……
「……その子たちが? ……でも、その子たちって……」
「じゃ、あんたがなんとかするか?」
「………………」
笑顔で汚水池を指さすと、母親は視線を逸らして口を閉じた。
『でも、その子たちって』の続きを口にしていたらここを放置して帰っていたところだ。
「ぼうし……」
俺の背後でギャン泣きしていた少女は、泣き疲れたのか少し声のトーンを落としてそう呟き、汚水池に向かって指を差した。
池の中央付近に真っ白な帽子がぷかぷかと浮かんでいる。
風に飛ばされでもしたのだろう。
早く引き上げないと、汚れが染み込んで落ちなくなりそうだ。
「もう諦めなさい」
「やぁー! ぼーしー!」
よほど大事な物なのか、少女はまた烈火の如く泣き始めた。
つか、このオバサン、母親としてのスキル低過ぎないか?
あからさまに、『自分がこの場所に居たくないから』娘に我慢を強いているようにしか見えない。……そんなにスラムの人間が嫌いか?
「あたしが取ってきたげる! 待ってて!」
言うが早いか、妹は汚水池の中に飛び込んだ。
迷いのない行動だった。……これ、俺がやるべきことだったよな?
すいすいと器用に泳ぎ、妹は帽子を掴み、自分の頭に載せると、またすいすいと器用に泳いで引き返してきた。
水から上がった妹の服は、黒く汚れた水でドロドロになっていた。
「はい。ちゃんと洗えばまた使えるよ」
自分の頭に載せていた帽子を泣き止んだ少女に手渡す。
少女は帽子を受け取ると、強張っていた顔を徐々に和らげていく。
「あ、…………ありが」
「さぁ、もういいでしょ。帰りましょう」
少女が笑顔を作る前に、母親が乱暴に少女の腕を引き連れて行ってしまう。
礼を言わないばかりか、礼を言わせることすらさせなかった。
「よく洗ってから使いなさいね。汚いから」
それは……汚水池に落ちたから、だよな? だよな?
さすがにキレそうになり、追いかけて一言物申して、その澄ました面に一発ビンタをくれてやって、「テメェは最低だ!」と事実を伝えて、汚水池に突き落とし、「ちゃんと洗えよ、汚ぇから」と言い放ってやろうかと、足を一歩踏み出したところで、妹が俺の袖を掴んだ。
小さな手が、キュッと。
「帽子……可愛かったねぇ」
そう言って、弱々しい笑みを俺に向けた。
こいつ……気にしてないわけないんだよな。でも、何も言わない。
自分が汚れることを厭わず、誰かのために何かをしても報われず、でも、それでも何も言わない。
……そんなことに慣れんなよ、バカが。
だが、俺がこいつらの我慢を踏みにじるわけにはいかない。
チキショウ。モヤモヤする。
「よぉし、ヤロウども! 溜め池拡張工事を開始するぞー!」
「「「「おぉー!」」」」
弟妹たちが一斉に土の上へと飛び降りていく。
増水している汚水池の隣に大きな穴を掘っていく。
汚水池との間に50センチ程度の幅で土を残して、最終的にその土を壊して池を一つに繋げるのだ。
急ピッチで作業は進み、見る見るうちに大地が抉られていく。
今思えば、スラムの入り口にあった巨大な落とし穴。アレもこうやって短時間で掘られた簡易的なものだったんだろうな。……こいつらを敵に回すのはやめよう。負けはしないだろうが絶対厄介なことになる。
そうだな、友好の印に――
今度、帽子でも作ってやろうかな。
「よぉし、お前ら! 頑張ったヤツには俺からご褒美をやろう!」
「「「「ぅおぉおおおおおおおおおっ!」」」」
ハムっ子たちのやる気に火がついた。
……火がついてしまった。
…………いや、おい……火、つき過ぎだから! そこまで深くする予定ないから! そんな勢いで掘ったら貫通しちゃうから!
本当に、マントルにまで到達するつもりなんじゃないだろうかと思うような勢いでハムっ子たちは穴を掘り進める。
呆れるやら頼もしいやら……
……と、その時。
ハムっ子の働きぶりを見守っていると、視線を感じた。
振り向くと、いつの間に集まっていたのか、十数人もの住人が遠巻きにこちらを窺っていた。
どいつもこいつも辛気臭い表情をして、一言も口を開かず、俺と目も合わさず、ただ遠巻きに見つめているだけだ。
こいつらが余計なことをしないように見張ってでもいるつもりか?
だったらよく見ておきやがれ。
誰が、誰のために、どれだけ頑張っているのかをな。
そして、テメェらが今現在、何をしているのか、何が出来ているのかを顧みやがれ。
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