「あっ」
と、ジネットが声を上げるのと、ノーマとウクリネスの体が揺らぐのはほぼ同時だった。
「っと! ……危ねぇなぁ」
床へ倒れ込みそうになったノーマをデリアが、同じく倒れそうになったウクリネスをナタリアが抱き留めてくれた。
「きっと、安心されたのでしょうね」
「気が緩んで、睡魔が一気に押し寄せてきたんだね」
ウクリネスの顔を覗き込むナタリアとエステラ。
昨日仮眠を取らせたといっても、新しい仕事に向けて気持ちが昂っていたせいで十分な休養にはならなかったのだろう。
「デリア、ナタリア。悪いがその二人を二階へ運んでくれないか?」
「あぁ、分かった」
「客間でよろしいですか?」
「ノーマは客間に、ウクリネスはジネットの部屋に頼む」
「じゃあ、あたしがお手伝いするです」
「私もお供します」
ロレッタとカンパニュラがデリアたちの前に立って先導する。
ドアを開けるにも、両手が塞がってちゃ出来ないもんな。
……あと、デリアはノーマの扱いが雑そうだから。
「家に連れて行くと、仕事の音や雰囲気で自然と目を覚ましそうだからな、あの二人は」
「ふふ。では、ウチでゆっくりと休んでいただきましょうね」
「……二人の職場に伝言をしてくる」
しゅぱっと、マグダが陽だまり亭を出て行った。
金物ギルドとウクリネスの店へ向かうのだろう。
「マグダ、ちゃっかりとポーチをエプロンに付けて行ったよね、今」
「いの一番に自慢して歩くつもりなのね。もぅ、マグダったら」
パウラとネフェリーが呆れて息をつく。
新商品を自慢するには、街を歩くのが一番か。さすがマグダだな。
「あたしも付けて帰っちゃお~っと」
「私も」
マグダに負けるなとばかりにポーチを身に着けるパウラとネフェリー。
二人は結局バンド型にしたようだ。
「では、私も失礼しますね。今日は子供たちとお野菜を植える日なんです」
「ほな、土いじりした後、手ぇ洗ぅて、ハンドクリームで指先のケアやね」
「そうですね。子供たちにも塗ってあげましょう」
ベルティーナのハンドクリームはすぐなくなりそうだな。
ま、試作品なんで構わないだろう。そのうち本製品が発売される。
「あ、そうだ。ミリィ」
「なぁに、てんとうむしさん?」
「…………」
「……ぇ? な、なに?」
「『もん』は?」
「みゅっ!?」
生花ギルドで相当からかわれたのか、ミリィの顔が赤く染まる。
「も、もう、『もん』とか付けないもん! ……ぁあっ、今のはなし!」
だが、天然なのがミリィクオリティ。
純度100%。混じりっけなしの可愛さでございます。
「わはぁ~」
「も、もぅ! 緩んだ顔、しないでっ」
「ミリィをいじめないように」
バカ、エステラ。
全然イジめてないじゃねぇか。
むしろ可愛い!
「実は、マセレーションオイルが想像以上にいい出来になってな――」
試作用の実験程度のつもりだったマセレーションオイルだが、精油が採りにくいとされるヘリオトロープの甘い香りを存分に抽出してくれた。
その結果をミリィに報告しておく。ついでにレジーナにも。
「ほぇ~。ホンマ、えぇ香りやねぇ」
「これなら、ハンドクリームの香料に十分だね。てんとうむしさん、すごい!」
「すごいのは、この街のヘリオトロープかヒマワリだよ」
俺はサンフラワーオイルにヘリオトロープを浸けただけだからな。
「ぁ、でも、みりぃが試した精油と、香りがちょっと違うかも」
「こっちは、チョコレートっぽい香りやね」
「ぅん。みりぃのはもっとバニラみたいな香りになったょ」
「なら、二種類のハンドクリームが作れるな」
「ぅん! きっとみんな好きな香りだと思う、な」
俺たちの話を黙って聞いていたルシアが、真剣な表情で口を開く。
「ミリィたんをください」
「巣に帰れ」
「おっと、言い間違えた。花園の花でハンドクリームを作ることは可能だろうか?」
「随分と思い切った言い間違いだな、おい」
「なに、本音がちょろっと漏れただけだ」
「やっぱり巣に帰れよ、お前は」
ちょろっと漏れただけで重罪確定だよ。
全部漏れたらどんなことになるのか。
「花園のお花は、みんないい香りだから、喜ばれると思う」
「うむ。しかも美味であるので、舐めても楽しい」
「いや、ハンドクリームは食うな」
「食べられるハンドクリームがあってもよかろう!?」
「手にジャムでも塗ってろ」
いい香りのするものを思わず口に入れて後悔するのは小学生までだ。
いい大人がなんでもかんでも口に入れてんじゃねぇよ。
「みりぃ、ギルドに戻ってハンドクリーム完成させるね!」
「ほな、ウチもあとで行くわ。みんなの感想を聞いて、もうちょこっと改良させたいねんなぁ」
「え、でも、特に改良が必要な気がしないけど? すごく付け心地もいいし」
エステラ的には大満足な付け心地のようだ。
だが、レジーナはまだ納得がいっていない様子だ。
「まだちょっとベタ付いてへん? バオクリエアでは、もっとさらっさらなヤツも売ったぁってんなぁ」
美容関連の研究が盛んなバオクリエアでは、もっといい品があると。
それを知っているレジーナとしては、妥協はしたくないということか。
お前、さてはバオクリエアを超える気だな?
「方向性を決めて研究していけばいい。ベタ付かないのとか、保湿に優れたもの、価格を抑えたもの、口に入れても害のないものって具合にな」
「口にって……さっき自分で『食うな』言ぅてたやん」
「ママさんが使うと、ガキが口に入れる可能性が高くなるだろうが」
「それは確かにそうですね。あぁ、シスターに言ってあげればよかったです」
一足先に帰ったベルティーナを思い、教会の方へ視線を向けるジネット。
「特に有害な物は入ってないよな?」
「そらもちろんやけど……あんまり口に入れんほうがえぇんは確かやね」
「ちょっと、シスターに伝えてきます!」
ばっと陽だまり亭を飛び出していくジネット。
ジネットのエプロンにも、ちゃんとハンドクリームのポーチが付いていた。
自慢したいってわけじゃないとは思うが、ガキどもに取り囲まれるだろうなぁ。
「ほな、最優先は、子供が間違ぅて口に入れても大丈夫なハンドクリームやね」
「めっちゃ苦くしてやれば、ガキは自分から避けるようになるぞ」
「なるほど。それも一つの手ぇやね」
ガキは「やるな」と言ったことを率先してやりたがる。
だから、自分の意思で「口に入れたくない」と思わせるのが効果的だ。
「ということは~☆」
ハンドクリームを塗った手を頭上に持ち上げひらひらさせていたマーシャが、嬉しそうな顔で俺を指さす。
「胸元にメドラママの顔を描いた服を売れば、ヤシロ君の視線は自然と逃げていくかもね~☆」
「いや、それならリカルドやウッセの方が効果的かもしれないよ、マーシャ」
いいのか、エステラ?
四十二区に、リカルドTシャツが蔓延っても?
俺より先にお前が音を上げる未来しか見えんぞ。
「えーゆーしゃ、おばけ、ちぁい!」
「じゃあ、お化け柄の服をウクリネスに作ってもらおうか」
「おっぱいお化けか……アリだな!」
「ざんね~ん☆ テレサちゃんの案は却下されちゃったよ~☆」
「あぅ~!」っと残念がるテレサ。
お、珍しくマーシャが子供の頭を撫でた。
テレサは頭がいいから、マーシャ的にも可愛い範疇に入るのか。
まぁ、その気持ちは分かる。
ガキも、頭さえよければ可愛く見えなくもない。
で、そんなテレサが俺の前に歩いてくる。
「ぁのね、えーゆーしゃ……」
言い出しにくそうに俯いて、両手でハンドクリームを握りしめる。
「これ、ね。おねーしゃに、ね、あげても、ぃい?」
「バルバラに? あいつ、食うぞ、たぶん」
「たべる、ない、もん」
そうか?
あいつなら「うっは、甘い香り! 美味そう! ……マッズ!?」とかやりそうだけどな。
「おねーしゃ、ね、まいにち、ね、はたけでね、おしごと、がばってるから、ね……」
毎日畑仕事を頑張る姉に、ハンドクリームをプレゼントしたいと。
しかし、それは俺からもらった贈り物だから、無断で譲渡するのは気が引けると。
……五歳児が考えることか、それ?
まったく、しょうがねぇなぁ。
「ほれ。バルバラにはこれをやっとけ」
用意したハンドクリームはニ十個。
今手渡したのは十九人。
つまり一個余っている。
あいつは特に今回なんの貢献もしていないが……テレサのおねだりならしょうがない。
文句を言うヤツもいないだろう。
「ぃぃ、の?」
そんな、文節区切りでいちいち俺の顔色を窺いながら尋ねてきて、「いいの」も何もな
いだろうが。
怖かったろうな。怒られるかもって。
ガキの「あのね」が増えるのは、そういう感情の表れだ。
「ま、一個残ってたしな」
「それ、えーゆーしゃの?」
「俺はハンドクリームなんか使わねぇよ」
「ボクはてっきりウーマロにあげるのかと」
「あいつからは金を取る。当然取る。毟り取る」
なぜプレゼントなどしなければいけないのか。
「じゃあ、余らせるのもったいないね。テレサ、君が持って帰るといいよ」
俺の手からハンドクリームを受け取ると、テレサに渡してやるエステラ。
なにいいところ持ってってんだよ。お前がプレゼントしたみたいに。
「ぅん! ぁりがと、えーゆーしゃ! りょーしゅしゃ!」
ほら、感謝に割り込んできやがった。
ずるいなぁ、領主様は。
「にんにょしゃーも、ありぁと!」
「『にんぎょ』だよ~☆」
「ほれ、渡しに行ってやれ。早く見せたいだろ?」
「ぅん! すぐもどぅからね!」
ばっと陽だまり亭を飛び出していくテレサ。
締まるドアを見て、マーシャが肩をすくめる。
「なんで私もお礼言われたんだろうね~?」
「嬉しかったんだろ、撫でてもらったのが」
「へ~んなの~☆」
くるっと体をひねって水へもぐるマーシャ。
照れているらしい。
子供に感謝されるの、慣れてないもんな。
水槽の底に沈んでぷくぷくと気泡を立てるマーシャを見て、俺とエステラは顔を見合わせて笑った。
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