早朝。
俺の部屋のドアをそっと開く者がいた。
「ヤシロぉ……入るよ……」
そろ~っと室内へ入り、若干上擦った声で呼びかけてくる。
パタン……と、静かにドアが閉まる。
「エステラ……」
ベッドの中から顔を出し、いまだ開ききらないまぶたの隙間からその顔を伺う。
目にも鮮やかな赤い髪が闇の中で揺れている。
「……夜這い?」
「起きる時間だよ!」
はっはっはっ。何をバカな。まだ外は真っ暗じゃないか。
さすがは二十四区の高級宿だ。ガラス窓が採用されており、室内からでも外の様子がよく見える。
カーテンの隙間から覗く空の色は、完全に夜のそれだった。白んですらいない。
「麹職人に会うために早起きをするって言ってただろう? そのために前乗りしたんじゃないか」
それはそうなのだが……
どうやら、麹職人ってヤツは、ジネットよりも早起きらしい。
下手すりゃ、寝る時間じゃねぇか、こんなもん。
「どんなババアなんだろうな……こんな早起きしやがるのは……」
若人にはつらいぜ、早起きなんてのはな。
「シャキッとしなよ。ボクなんか、君よりも早く起きてるじゃないか」
「どうせナタリアに起こしてもらったんだろ?」
「ふふん。甘いね。ボクは自己管理がしっかり出来ている人間なんだ。起きようと思った時間に自然と目が覚めるんだよ」
目覚まし時計もないような世界で、どうやって起きてるんだ、こいつらは?
目覚めの鐘すら鳴ってないってのに。
「俺の寝顔が見たくて、張り切って起きちゃったんじゃないだろうな?」
「バッ、バカなのかい!? だ、誰が君の寝顔なんか……」
などと話している間も、俺の体は倦怠感を訴え続け、なかなか起き上がることが出来ない。
掛け布団の中でずっとごろごろしている。
「君はネコかい?」
「なんだよ、朝っぱらから、『キュートで可愛い』なんて。褒め過ぎだぞ」
「……君の脳は理解しがたい構造をしているようだね」
布団の上でゴロゴロしている猫ほど可愛いものはそうそうないだろうが。
なら、俺の意訳もあながち間違ってはいないはずだ。
「いい加減に起きないと、布団を剥ぎ取るよ?」
「そうされる前に、服を全部脱いでやる」
「ちょっ!? バカなマネはやめなよ!? いいかい、絶対ダメだからね!」
フリに聞こえるぞ、それ。
日本人は「絶対○○するな」と言われると、無性にやりたくなる人種なのだ。
俺が全裸になれば、エステラは布団を剥ぎ取れない。
まさに、『肉を切らせて骨を断つ~ぬくぬくお布団死守大作戦~』だ。
「エステラ様」
足音も立てずに、エステラの背後にナタリアが出現する。
ドアを開ける音すら聞こえなかった。
「ナタリアも来たのかい?」
「はい。夜這いの順番待ちに」
「ボクは夜這いしに来たんじゃないよ!?」
「では、お先に失礼します」
「させないよっ!?」
入り口付近で二人が取っ組み合う…………あぁ、うるせぇ。
「こら、お前ら。静かにしろよ。眠れないだろう」
「起こしに来たんだよ!」
ずかずかと近付いてきて布団に腕を伸ばす。
マズい! 全裸にならなければ!
「待て、エステラ! 今、脱ぐから!」
「脱がせるか!」
そして、無慈悲に剥ぎ取られる掛け布団。……寒い。
まったく、こいつは。以前これをやって、マグダに嫌がられたことをもう忘れたのか。
成長しないヤツだ。
「成長しないヤツだ」
「胸を見ながら失礼なことを言わないでくれるかな?」
「そうですよ、ヤシロ様」
珍しく、こういう流れでナタリアがエステラを庇う。
「エステラ様は、きちんと成長しておられます」
「ナタリア……」
己を庇うように立つナタリアの背中に、感激の視線を向けるエステラ。
赤い瞳が、ちょっとうるっとしてる。
「エステラ様は今日……異性の寝顔が見たい一心で、私に起こされる前に起き出し、私に気付かれないようにこっそりと部屋を抜け出し、私の知らないところで存分に偏った性癖を爆発させておいでだったのです!」
「ちょぉおおおい、こらぁぁああ!」
「オトナになられましたね、エステラ様!」
「人聞きが悪いなんてレベルじゃないレベルで人聞きが悪いよ、ナタリアッ!」
「異性の寝顔に興味津々!」
「その『異性』って表現に悪意を感じるよっ!」
うん。
とりあえず、こういう流れの時に、ナタリアにはエステラを庇うつもりはさらさらないってことだけはよく分かった。
「ナタリア。そう煽ってやるなよ」
朝は静かに過ごすもんだ。
「だから、お前もそんなに怒るなよ、思春期ガール」
「煽るなぁ! ……まったくもう!」
俺とナタリアにさんざんいじり倒されて、エステラが頬をパンパンに膨らませる。
怒りからか照れからか、顔が赤く染まっている。
「前から言おうと思ってたんだけどな。エステラは髪が赤いから、顔を赤くするとまるでタコみたいでおもしろ…………深紅のバラのようで綺麗だよ、エステラ」
夜の闇にきらめく白刃。
エステラがナイフをちらつかせ始めやがった。これ以上煽るのは危険だ。
……つか、なんで真っ暗な部屋の中でナイフがきらめいてんだよ。念か?
華麗な話術で難を逃れた俺は、ほっと胸を撫で下ろしつつ、剥ぎ取られた掛け布団をそっと奪い返し……包まる。
「寝かさないよっ!?」
まるで、麹職人との面会にすべてをかけているかのような勢いで捲し立てるエステラ。
強制的に起こされ、濡れたタオルで顔を拭かれた。
部屋に用意されていた水の張った桶とタオル。こいつは、洗顔に使えと宿が用意したものだ。
……そのタオルは濡れた顔を拭くためのもんだろうが……濡らしてどうするよ。
「さぁ、さっさと着替えて宿の前に集合だよ。もうすぐアッスントが迎えに来るから、合流して麹職人に会いに行こう」
この後の予定をつらつらと述べ、エステラは部屋を出て行った。
着替えろってことなのだろう…………
「……だから、出て行ってくれるかな、ナタリア?」
「いえ、お気になさらず」
「エステラー! 忘れ物ー!」
物凄いスピードで戻ってきたエステラに連行されていくナタリアを見送って、ドアのカギをかける。……そういや、エステラのヤツどうやって鍵を開けたんだ?
……ピッキングか?
そんなことを漠然と考えながら、さっさと着替える。
麹職人に会う時にしわしわの服では失礼だと、わざわざ寝間着に着替えろと言われていたからな。
持参した寝間着をかばんに突っ込み、いつもの服を身にまとう。……冷たい。
学生の頃は、俺が起きる前に女将さんがこたつに服を入れて温めておいてくれたっけなぁ……
そんな懐かしいことを思い出し、俺は身支度を整えた。
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