それから、陽だまり亭で起こったあんなことやこんなこと、くだらない話をとりとめもなく話した。
ジネットが仕掛けた数々のしょーもないいたずらを暴露したら、妙にジネットがそわそわし始めたりして、少し新鮮な気持ちになった。
ジネットも、怒られるのは怖いらしい。
どんなに話しても話は尽きない。
ジネットもたくさんしゃべっていた。
爺さんはそれを黙って聞いていた。時には、大声を出して笑ったりして。
気が付けば、コーヒーはすっかり冷めていた。
「あ~、腹が痛い。一年分笑った気分だ」
緩む口元を隠すように、コーヒーを口に運ぶ爺さん。
カップの向こう側を持って、手首を捻るようにして傾ける独特の飲み方。
なるほど。確かに似てる。
「一年分ですか? それじゃあ全然足りませんね」
「ん?」
顔の筋肉が崩壊するような笑みから、いつもの穏やかな笑顔に変えて、ジネットが澄んだ声で言う。
「五年分は笑っていただかないと」
ジネットが陽だまり亭の店長になってからの時間が、大体それくらい、かな。
「あぁ…………美味しいなぁ。本当に、美味しいコーヒーだ」
「ありがとうございます」
カップを置いて、爺さんが席を立つ。
音もなく。
「また来るよ」
一歩足を踏み出し、仮面を押さえて俯く。
「足りない分を、笑いにね」
仮面を外しながらこちらを振り返った爺さん。
……けれど、その顔を見ることは敵わなかった。
忽然と姿が消え、香ばしいコーヒーの香りがその場に残っていた。
「……笑ってたな。最後」
「はい。わたしにも、そう見えました」
泣くでもなく、寂しがるでもなく、いつものように落ち着いてカップを下げるジネット。
「もっと話したいことがあったんじゃないのか?」
「そうですね……けど、元気そうでしたので、それで十分です」
元気、って言っていいのかな。
まぁ、元気そうではあったけど。
「本当は謝りたかったんです。買い物に行っていて、気付くのが遅くなったことを……」
たぶん、向こうも謝りたかったろうぜ。
お前を遺して逝ってしまったことを。
「けど……。折角の楽しい夜ですから、笑っていたかったんです」
「お互い様、だろうな」
「はい。そう思います」
仮面の爺さんが残していった食べかけのたい焼きに齧り付くジネット。
昔、祖父さんとやっていたのかもな、はんぶんこ。
「ありがとうございます」
「ん? なにが?」
「ゼルマルさんたちのお話。聞けて嬉しかったと思います」
「ほとんど悪口だったんだけど、意外と食いつきがよくてなぁ。……性格悪いんじゃねぇの、実は?」
「たぶん、ヤシロさんと同じくらいだと思いますよ」
「へぇ、聖人君子なんだな」
「そうかもしれませんね」
嬉しそうだ。
そりゃそうか。
そりゃそうだよな。
俺も、嬉しかったもんな。
「ヤシロさん。何が食べたいですか? 今日はわたし、なんだって作っちゃいますよ」
お前がなんでも作ってくれるのはいつものことだろうが。
そんなツッコミは飲み込んで、折角なのでリクエストをしておく。
「クズ野菜の炒め物を頼む」
「はい」
空になった食器をお盆に載せて、ジネットが厨房へと振り返る。
その時。
「たーだいまですよー、陽だまり亭ー!」
「……陽だまり亭、ただいま」
「わ~い、陽だまり亭だぁ~! ただいま~!」
ロレッタにマグダ、死にかけのエステラが入ってきた。
口々に「ただいま」と言いながら。
「あの、みなさん……」
ジネットが呆けたような、きょとんとした表情を見せる。
「あ、店長さん、お兄ちゃん! ただいまです!」
「……みんなのマグダ、参上」
「ジネットちゃ~ん! 疲れたよぉ~!」
この店の関係者がどやどやっと、陽だまり亭になだれ込んでくる。
その後ろからも、ぞくぞくと。
「お~、陽だまり亭の匂いだ! やっぱ落ち着くなぁ」
「な~んか、ほっとするさねぇ、陽だまり亭は」
「夜でも温かいんだねぇ~☆」
「ワタクシ、ここの子になっても構わないと思うことがしばしばありますのよ?」
「戦場兼、憩いの空間やー!」
デリアにノーマにマーシャにイメルダにハム摩呂。
その後ろからはへべれけに酔っ払ったルシアと、ルシアを両側から支えるナタリアとギルベルタ。
「私もここの子になる!」
「いえ、すっげー迷惑ですのでお帰りください、ルシア様」
「自重を願う、ルシア様の。こぼれ落ちている、さらりと、ナタリアさんの本音が」
「代わりと言ってはなんですが――ここの子には、私がなります」
「ズルい思う、ナタリアさん、私は! 便乗したい思う、私も!」
銘々テーブルを出したり、勝手に座ったり、壁に頬ずりしたりして、陽だまり亭の中でくつろぎ始める。
「やっぱり陽だまり亭が一番です! カンタルチカは見栄えにばっかり意識がいっていて、こういう……、うん、そうです! こういう! こういう、この安らぎに欠けているです!」
「……陽だまり亭は、帰ってくる者を包み込んでくれる」
「そうさねぇ。向こうはホント、ず~っと戦いっぱなしだからねぇ」
「甘い物も少ないしなぁ」
「私も、陽だまり亭大好き~☆」
カンタルチカが相当忙しかったのか、全員が陽だまり亭に縋りつくようにだらだらし始める。
陽だまり亭に包み込まれたいとでも言うように。
俺とジネットは目を見合わせる。
「……みなさんも……?」
「みたいだな」
陽だまり亭は結構自己主張が強いようだ。
きっと、いろんなヤツにその存在を感じさせているのだろう。
でなきゃ、なかなか出てこないよな、『ただいま』なんて言葉は。
「俺さ、陽だまり亭で感じる視線は祖父さんのものかと思ってたんだが……」
「それはないですよ。だって、お祖父さんが元気な時から、わたし感じていましたもの。陽だまり亭の存在を」
「みたいだな」
さっきの祖父さんは陽だまり亭で起こった出来事を初めて聞くような顔で聞いていた。笑っていた。
つまり、ここでの出来事のすべてを見ているわけではないということだ。
けれど、俺たちは毎日陽だまり亭を感じている。
これは一つの仮定でしかないが――
陽だまり亭って意識の中に祖父さんの意識が混在しているのかもしれない。
思い入れの強い場所に、意識の一部が残りいつまでもその場所を見守っている。
けれどそれは一人だけではなくて、遙か昔から連綿と続く歴史の中の一部のような……ま、分っかんねぇけどな。
「そんじゃ、まぁ。丸一日放ったらかされて寂しがっていた陽だまり亭のために、もう一盛り上がり、二次会といくか?」
「それは、素敵な提案ですね! わたし、美味しいご飯を作ってきます! みなさん、お腹は空いてますか?」
「「「「ぺこぺこー!」」」」
よく働いた者たちの胃は、またもや空っぽになっていたようだ。
「少しだけ待っていてください。特別なご馳走をご用意しますから!」
弾ける笑顔を残して、ジネットが厨房へと駆け込んでいった。
そうして思う。
やっぱ、あいつは今日も働くんだなぁ、と。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!