「よくお似合いですよ、お二人とも」
ウェイトレスの格好に着替えたトレーシーとネネを、満面の笑みで見つめるジネット。
なるほど、確かにトレーシーもよく似合っている。
ネネは給仕長なので、エプロンが似合うってのは当然といえば当然なのかもしれないが、やはり給仕長のエプロンとウェイトレスのエプロンは違う。普段よりも可愛らしさを強調させた衣装に照れる姿がなんだか微笑ましい。
トレーシーもなかなか様になっている。こうしていれば『癇癪姫』なんて名で呼ばれている人物にはとても見えない。
「……マグダが教育をする。しっかり言うことを聞くように、新人たち」
「はい。マグダ先輩」
「よろしくお願いします、マグダ先輩」
「……うむ」
マグダは、この二人が領主と給仕長だと知った上でこの態度である。……お前の肝は据わり過ぎてるよな。マグダ先輩って……まぁ、トレーシーたちが楽しそうにしているからいいけども。
「……接客業の基本は笑顔。常ににっこり微笑んでいるように」
「「はい」」
「いや、今のは突っ込むところだぞ、二人とも」
お前が言うか、ってな。
「うふふ。なんだかわくわくします。私、こうしてお仕事をするのは初めてなんです」
トレーシーのテンションが上がっている。
エプロンを摘まんでみたり、回ってみたり、食堂内をキョロキョロしたりしている。
「ネネさん。頑張りましょうね」
「はい。微力ながら、サポートさせていただきます」
「あら、ダメよ。ここでは私たちは対等。同じ『新人アルバイト』なんですから。仕事も平等に、切磋琢磨するつもりで……ううん、いっそ蹴落とし合うくらいでないと!」
「いや、蹴落とすなよ! 協力してやってくれ」
初めて体験するアルバイトに、トレーシーは気合い十分だ。というか、楽しんでやがる。
お金持ちが庶民の生活を体験して喜ぶなんてのは、よく聞く話だしな。トレーシーもご多聞に漏れずそのタイプなのだろう。
「で、ですが……もし万が一のことがあったら……」
「ネネっ…………さん」
一瞬、『癇癪癖』が発動しかけたが、なんとか「さん付け」によってブレーキがかかる。
「私たちのために場所と機会をくださった皆様にご迷惑をかけないよう、精一杯与えられた仕事を遂行する。それが、今考えるべきことなのではないですか?」
「そ、そうですね……おっしゃる通りです。トレーシー様……………………あっ!?」
口にした後で、己の失態に気付き、ネネが青い顔をする。
だが、もう遅い。ペナルティはきちんと受けてもらわないと……
「ジネット。よろしく」
「えっ!? わたしでいいんですかっ!?」
おぉっと、なんだかすげぇ嬉しそうだ。
何気に、やりたいのをずっと我慢してたんじゃないのか? …………溜まりに溜まった足つぼ欲が爆発するかもしれん…………ネネ、ご愁傷様です。
「では、ネネさん。ここではなんですので厨房の方へ」
「あ、あのっ、店長さん……っ、なんだか、お顔が、物凄く輝いているのですが…………お、お手柔らかに……あの……っ!」
「さぁ、行きましょう」
るんるんと、ネネの手を引いて厨房へと入っていくジネット。
その姿を見送るトレーシー。
その表情は「うふふ。ネネさんったら、おっちょこちょいさんなんだから」的な微笑ましさと、自分はミスしなかったという優越に満ちていた。
……だが、そんな余裕をかましていられるのは今のうちだぞ。
ロレッタとマグダは厨房への入り口からすすすと遠ざかり、背を向けて、耳を塞いだ。
その瞬間――
「ふにゃぁぁぁあああああああああああっ!?」
天に突き刺さるような悲鳴が轟いた。
食事中の客たちがギョッとした表情を見せ、食堂内が一時騒然となる。
トレーシーはというと、先ほど浮かべた余裕の表情のまま固まって、冷や汗をダラダラと垂れ流していた。
「ジネットちゃん、張り切ってるみたいだね……」
ジネットの足つぼを食らったことがあるエステラが、懸命に笑みを作ろうとして見事に失敗している。ジネット絶対擁護派のエステラをしても、足つぼモードのジネットは庇いきれないらしい。……バーサーカーだもんな、アレは。
「それにしても、大したものだよね」
「何がだ?」
「トレーシーさん、ここに来てから一度も『癇癪』を起こしてないよね」
「ほっほぅ……『大したもの』とは、また随分上から目線だな」
「そ、そんなつもりはないよ!? 君の方策が功を奏していることに対して『大したものだ』と言ったんだよ!」
ってことは何か? 俺には上から目線で構わないって認識か? 生意気な。
まぁ、実際「さん付け」の効果は大したものだといえるだろう。
エステラの言うように、トレーシーは陽だまり亭に着いてから一度もネネを怒鳴っていない。自身の館にいる時より、会話が増えているにもかかわらず、だ。
「環境が変わって、『癇癪癖』が悪化するんじゃないかと危惧していたんだけど」
環境の変化によるストレス。トレーシーにとっては、呼べば駆けつける給仕がいなくなり、ネネしか心を許せる相手がいない状況だ。かなり心細いだろう。
そんな中、過度のストレスによって『癇癪癖』が悪化する可能性は十分にあった。
「なんで、『さん付け』をするだけで怒鳴れなくなるんだろう?」
「馬車の中で説明してやったろう?」
「あれでしょ? 脳がブレーキをかけるとか、違和感がどうとか」
ざっくりとした覚え方しやがって……
「例えばだ、エステラ。お前がナタリアのつまみ食いを発見したとする。叱るか?」
「そりゃもちろん」
「しかし、お前がつまみ食いの現場を目撃できたのは、お前自身もつまみ食いをしていたからだった……って場合は、どうだ?」
「う……それは、叱り難い……というか、気まずくて叱れないね……」
他人を怒鳴るヤツは、己の中の自尊心を満たそうという思考がどこかしらに働いているものなのだ。そうでなければ「怒鳴る」なんてカロリー消費の激しい方法ではなく、「注意」すればいいだけだからな。
それをわざわざ「怒鳴る」なんて選択をするには、それなりの理由がある。
ぐうの音も出ないほど相手を打ち負かしたいとか、自分の正当性を証明してみせたいとか……要するに、さっき言った「自尊心を満たしたい」という思いが働いているわけだ。
では、他人を怒鳴ることでその自尊心が逆に損なわれるような状況に追い込まれるとすればどうなるか……
事前にそうなると分かっていれば、人は他人を怒鳴ったりはしない。わざわざ恥をかいたりはしたくないからな。
「自分のことを棚に上げて相手を怒鳴るヤツがいたら、周りの人間は例外なく怒鳴ってるヤツを生温かい目で見るだろう?」
「まぁ、そうだろうね」
「それが分かるから、そういう場面では脳がブレーキをかけてくれるのさ」
「自分が『さん付けをする』というルールを破ってしまっては、相手を怒鳴れない……ってことだね」
「そう。で、そうならないためにルールを守ろうとすれば『さん付け』をしなければいけなくなって……」
「今、なぜ自分が『さん付け』っていうルールを課せられているかを思い出せば、感情任せに怒鳴ったりはしなくなる……というわけか。なるほどねぇ」
癖ってのは無意識にやってしまうから厄介なわけであって、意識がそちらに向けば抑えることも可能になる。
それに……万が一ルールを破れば、地獄の足つぼが待っているからな……トレーシーはそうそう容易にルールを破れはしないだろう。
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