「こちらです」
廊下の突き当たりに、他よりも豪奢で堅牢なドアが見える。
その手前のドアが開かれ、そちらへと招き入れられる。そこは、広い応接室で落ち着いた調度品がゆったりとした時間を感じさせてくれる居心地の良さそうな空間だった。
「向こうのドアがおそらく食堂で、こちらはその控え室といったところでしょう」
そっとナタリアが俺に耳打ちする。
向こうが会場で、こっちが控え室。披露宴なんかをやるホテルがこんな感じの造りになっているな。
ここで領主を待てってわけか。
「それでは、しばしお待ちください。すぐに準備を致しますので」
ぺこりと頭を下げてネネが踵を返す。
背筋は伸び、泣きそうだった表情も随分柔らかくなっている。
エステラが思っていたよりもとっつきやすい人物で安心でもしたのだろう。
変な緊張も解れたようだし、こりゃ、食事の席は和やかなムードになりそうだな。
と、出て行くネネの背中を見つめながら思っていたのだが……
「ネネッ! 貴様、今までどこにいた!? 私の呼び鈴が聞こえなかったのかっ!?」
館中に轟くような怒声に思わず肩が跳ねた。
「……今のは?」
エステラが不安げな表情を浮かべる。
今のが、おそらく……
「『癇癪姫』……」
「でしょうね」
俺の意見に、ナタリアも賛同する。
これは……和やかなムードなんてもんじゃない。
一気に緊張が高まり、俺たちは互いに顔を見合わせた。
どういった心持ちでいればいいのかすら考えがまとまらないうちに、廊下が騒がしくなった。
バドァーーン! ……という、大砲のようなドアの開閉音が轟き、ドダバタバタドタッ! ……と、ジンベイザメが体育館でもんどりうっているような足音が近付いてきて、ピタリ…………と、ドアの前で止まった。
……なんだよ、もう。今度は何が起こるんだよ?
奇妙な静寂に、心臓が軋みをあげる。
ごくり……と、誰かが唾を飲み込む音が聞こえた。
俺たち三人が揃って息を殺し見つめる中、ゆっくりとドアが開く。
「ようこそ、我が館へ――」
ドアが開き切る前に、その前に立つ美しい女性が清流のような声音で歓迎の言葉を述べる。
煌びやかなドレスを身に纏い、整った顔に大人びた笑みを湛えている。
こいつが、二十七区の領主、トレーシー・マッカリーか。確かに、『BU』の連中の中にいたヤツだ。
「招きに応じていただき感謝します、エステラ・クレアモナ様。そしてお連れの皆様。歓迎いたします」
落ち着いた物腰に、品のある声としゃべり方。
……なのだが、眉間に物凄くしわが寄っている。
ビックリするくらいのしかめっ面だ。
全然歓迎してねぇじゃねぇか!?
トレーシーは、狩人のような鋭い視線をエステラに向け、すぐさま逸らす。
うわぁ……感じ悪ぃ。あからさまに無視するつもりなんじゃねぇのか。
「え、えっと……」
ありありと醸し出される『非歓迎オーラ』に、エステラの笑顔が強張る。
招待されて来てみればこの対応。
そりゃ困惑もするよな。
しかし、招かれた以上、礼をもって接するのが常識ある人間の態度だ。
エステラはすっと背筋を伸ばし、もう一度笑顔を作り直してから、トレーシーへ挨拶をする。
「こ、この度はお招きいただ……」
「はぁぁぁ…………」
ため息つきやがったぁああ!?
エステラの挨拶を遮って、ものすげぇデカいため息を。
しかも、腕を組んで体を背けた。
組んだ腕に力が入り、眉間には先ほどよりも深いしわが刻まれる。噛み千切りそうなほど唇を噛み締め、『苦渋』という文字が浮かび上がってきそうなほどの苦々しい表情を見せる。
そんなに嫌なのかよ、エステラと話をするのが。
ナタリアの呼吸が変わる。
エステラに対する無礼を、こいつは決して許さない。…………まぁ、こいつ自身が随分と無礼を働いてはいるのだが、それはどれも笑って許される範囲でだ。
ここまであからさまな無礼を見過ごすほど、クレアモナ家の給仕長は優しくない。
……そして、俺も結構気分が悪いなと、感じている。
俺とナタリア。二人が揃って息を吸う。
どっちが先に口を開くかは、その時の空気次第だ。
――と、思っているのを察したのか、エステラが俺たちに目配せをしてくる。
「いいから、大人しくしていろ」とでも言いたげな目で。
全身で『拒絶』を示すトレーシーに対し、エステラはもう一度朗らかな笑顔を浮かべて言葉を向ける。
「お招きいただき、ありがとうございます。お会いできて光栄です、トレーシー・マッカリー様」
瞬間――世界が鳴動した。
……どっくん……どっくん…………
トレーシーの両目が「カッ!」と開き、体がぶるぶると振動を始める。
そして、わなわなと震える手がトレーシーの口元へと運ばれた……その時っ!
「……ごふっ!」
トレーシーが盛大に吐血した。
「ひっ!?」
エステラが短い悲鳴を上げる。
が、次の瞬間にはトレーシーに駆け寄り、心配そうに声をかけていた。
「大丈夫ですか、トレーシー様!?」
「…………む、むり……です」
真っ赤に染まった両手が、トレーシーの口元からゆっくりと離れていく。
口のまわりにもべったりとついた赤い血液…………それは、今も尚流れ続けており……
「エステラ様が素敵過ぎて、私、死んでしまいそうです」
「……………………え?」
両方の瞳をキラッキラに輝かせてエステラを見つめるトレーシーは、恋する乙女のように頬を赤く染め、熱っぽいため息とともに愛おしげにエステラの名を呼んだ。
「エステラ様………………萌え」
エステラの足元からつむじにかけて、寒気が駆け抜けていったのを、俺は視認した。
そして、今も尚、トレーシーを赤く染める血液は流れ続けている…………鼻から…………あれ、鼻血だ。この領主、エステラに名前を呼ばれて、鼻血を噴きやがったのだ。
要するに、アレだ。
二十七区の領主、トレーシー・マッカリーは――エステラが大好きなのだ。病的なほどに。
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