「あ。おはようございます」
そんな声が店の外から聞こえてくる。
ジネットがあぁいう明るい声を出すのは顔見知りに会った時で、開店前の陽だまり亭にやって来る人間というのは限られているわけで……要するに、トレーシーたちがやって来たのだろう。
エステラと同時に館を出たのだろうし、エステラが一人ではしゃいで俺に襲いかかってきたと考えると、これくらいのズレで来店するだろう。
「おはようございます、オオバヤシロさん」
「本日もお世話になります、オオバ様、皆様」
予想通り、トレーシーとネネが入り口でぺこりと頭を下げてから店へと入ってくる。
心なしか、肌ツヤがいい気がする。昨夜はよく眠れたのだろうか?
「ヤシロさん! 聞いてください! あのですね、あのですねっ!」
エステラの館はどうだったとか聞こうかと思ったのだが、それより早くジネットが俺に飛びかかってきた。出張から帰ってきた家主を出迎える大型犬のような勢いだ。
「足つぼが認められました! やっぱりすごいです、足つぼ!」
「…………は?」
さっきまでのしょんぼりした表情はどこへやら。ジネットの顔には初日の出のような神々しいまでの眩い笑みが浮かんでいた。
俺、マグダ、ロレッタの視線がトレーシー&ネネに集中する。
お前ら……ジネットに何言った?
「え、あの……実は、ですね」
俺たちに視線を向けられて、言い難そうに口ごもるトレーシー。
そんな主に代わって、ネネが説明を寄越してくる。
「私たちは昨晩、翌朝の筋肉痛を覚悟していました。こちらでの仕事はとても楽しく充実感もあって素晴らしいものではあったのですが、肉体的にはハードで、トレーシー様はもちろん、私ですら腕と足がぱんぱんに張ってしまっていました。ですが…………今朝の目覚めは、これまで経験もしたことがないくらいに爽やかで、筋肉痛どころか、昨日の疲労が一切残っていなかったのです。それはつまり、店長さんに施していただいた足つぼが……えっと、『でとっくす』でしたか? ……その効果が表れたためだとしか考えられなかったのです」
「……で、その旨をジネットに伝えたら……こうなったと」
「嬉しいですね、ヤシロさん! 足つぼの効果をこうして耳にするのはそうそうないですからね」
いや、喜んでるのはお前だけだ、俺も含めるな。
これまで足つぼといえば、「痛くて悶絶するもの」というところで止まっていたのだが、その後の好調を伝えてきたのは、確かにこいつらが初めてかもしれないな。俺は気持ちいいと表明していたんだが……まぁ、発案者の意見だったからな。話半分程度に聞き流されていたのだろう。
「わたし、もう一度足つぼの練習を始めてみようかと思います!」
そんなジネットの宣言を聞き――食堂内の空気が張り詰めた。
マグダ、ロレッタ、そしてエステラまでもが目を吊り上げて、トレーシー&ネネに「責任とれよ?」みたいな視線を向けている。
トレーシーとネネは己が招いた状況を肌で感じ取ったのか、飢えた獣に睨まれた草食動物のようにすくみ上がっている。
「では、ネネさん。早速ですけれど、厨房へ来ていただけますか?」
「は、はい。下ごしらえのお手伝いですね。承ります」
「いいえ、違いますよ」
ジネットが満面の笑みでネネの腕をがっしりと掴む。
ネネの額から飴玉サイズの汗がしたたり落ちていく。
「先ほど、一度『トレーシー様』っておっしゃいましたので」
「えっ!? ……い、いつですか!?」
「『会話記録』の申請をいたします」
ジネットがネネの退路を確実に潰しにかかる。
『会話記録』持ち出すとか……お前、えげつないな。
「以前、ヤシロさんに教えていただいた『目が覚めるツボ』を押してあげますね」
「オオバ様! それって痛いツボですか!? どれくらい痛いんですか!? ねぇ、オオバ様!?」
縋りつくような瞳を俺に向けながら、ネネは厨房へと連行されていった。……南無三。
「おはようございます」
トレーシーたちから遅れること数分。最後にナタリアが陽だまり亭へとやって来た。
「一人で先に行かないでくださいませんか、チジョテラ様」
「誰がチジョテラか!?」
「朝っぱらから男性に飛びついて下腹部をまさぐるなんて……年に数回しか許されない行為ですよ!」
「年に数回も許されねぇよ!」
なに「機会があれば自分も」みたいな余白を残してんだ、お前は。
ねぇよ。
ナタリアに睨みを利かせていると、厨房からジネットが顔を覗かせる。
「トレーシーさ~ん。準備が出来ましたら厨房へお願いしますね~」
「はぅっ!? わ、わた、私は、ネネさんを呼び捨てになんかしてままま、ませんよ!? か、かか、『会話記録』で確認してください!」
「あ、いえ。下ごしらえのお手伝いをしていただきたくて」
「………………よかったぁ」
どんだけトラウマになってんだよ。
朝一から魂が抜け出てしまったような顔で、トレーシーのアルバイト二日目がスタートする。
ネネは……もう少し後になるかな。さっき、凄まじい悲鳴が聞こえてきてたし……スルーしたけども。
「それで、トレーシーの『癇癪癖』はどうだ?」
「一度も出てないよ」
俺たちと別れた後、エステラの館の中でもトレーシーの『癇癪癖』は出なかったらしい。
「さん付け」の効果……というより、それだけトレーシーが流されやすいということなのだろうが。
同じ職場で同じ風景を見て、同じことを経験し、同じものに恐怖する。
初対面でも、これだけのことをすれば仲間意識が芽生えるだろう。ましてトレーシーとネネは幼馴染だ。一瞬であの頃の二人に立ち戻ったことだろう。
まだ領主と給仕長になる前の、叱る必要も叱られることもなかった、あの頃の二人に。
「これで、トレーシーさんはボクたちに力を貸してくれるだろうね」
「まぁ、それを渋ったら『精霊の審判』で脅しをかければいいさ。あいつは協力すると言ったんだからな」
自分の悪癖を治す見返りに、こちらに協力する。
それが今回の条件だ。
悪癖が治った以上、抗いがたい同調現象が起こったとしても、こちらに一票を投じてもらう。
でなければ、カエルだ。
「おそらく、そんな脅しは必要ないと思うよ。トレーシーさんにはね」
「そう願う」
もともと、『BU』の考え方にピタリと寄り添うような思考をしているわけではなかった。
自区を守るための、領主としての判断で『BU』のやり方を踏襲していたに過ぎないのだ。
こちらがあからさまな不利益をもたらすような提案でもしない限り、こちらに乗ってくれるだろう。
今回は『BU』を騙す立場じゃない。吹っかけられた火の粉を回避するための戦いだ。
たかが一票といえど、「聞く耳」を持たせることが出来たのは大きい。
こちらがどんな提案を持ちかけても、全会一致で否決されたのでは話にならない。
その鉄壁にくさびを打ち込めたのだ。この一票は大きいぞ。
ただ……次は『こちらの提案』なんてものが認められるかどうかがカギになってくるな。
前回みたいに、一方的に話をされておしまいという形にされると口を挟む隙すらない。
もう一手二手打っておかないとな……
「……それでは、マグダたちは着替えてくる」
「今日も一日頑張るです!」
ジネットによる足つぼタイムが終わったのを見計らって、マグダとロレッタが二階へと着替えに向かう。
食堂には、俺とエステラ、そしてナタリアが残された。
エステラとナタリアは、ここで朝食を食べるつもりのようだ。……ってことは、トレーシーたちも食ってないのか?
ジネットに言って何か賄いを食わせてやるかな。客が来る前に。
「それで、どうだった? トレーシーたちは。格下の区に宿泊することに難色は示してなかったか?」
「全然。楽しんでくれていたよ。…………ところどころに血だまりを作るくらいにね」
「また鼻血吹いたのか、あいつは……」
「でも、ネネさんがキレイにしてくれてたから、こっちの負担にはならなかったけどね」
「へぇ。ネネも自分で動けるようになったのか」
「みたいだね。ナタリアに言わせれば、まだまだ甘いみたいだけど」
「私でしたら、血が落ちる前に鼻の穴に指を突っ込んで防ぎます」
「いや、そこまでは求めないよ、ボクは……っていうか、やめてね」
鼻を押さえてエステラがナタリアから離れていく。
と、その背後でドアが開いた。
まだ開店時間には早いのだが、気の早い客がやって来たようだ。
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