「あぁ…………行きたくないなぁ……」
「いや、行かなきゃ始まんないだろう?」
四十一区からの手紙を読み、だらしなくテーブルに突っ伏すお嬢様。
まるで、ゴマ風味スライムのような風体です。
外の森に出現する、白い不透明なスライムで、黒い斑点がゴマのように見えることからその名が付いたと言われている魔獣です。
性格は温厚。攻撃性はなく無害。ただし、食欲が旺盛で大量発生すると森が丸裸になってしまう危険があるため、まれに討伐命令が出される。そういう魔獣です。
なるほど……『ゴマちゃん』ですか。言い得て妙ですね。
「分かってるよぉ……行くよぉ……」
お嬢様は四十一区が――特に、現領主のシーゲンターラー卿のことが苦手、いえ、お嫌いですので、面会に難色を示されるお気持ちは分かります。
私とて、到底好きになれる気がいたしません。
お嬢様の沈んだお顔を見るのかと思うと、心苦しいですね。
出来ることなら、極力関わり合いを持たずにいたいものです。
もっとも、そういうわけにもいかないのですが。
「まぁ、俺もついていってやるから。な?」
「ん…………お願い」
幸いにして、今は彼がいます。
突如現れて四十二区を引っ掻き回し、古い慣例を次々にぶち壊して――気が付いた時にはとても住みやすい街に変えてしまっていた、不思議な人物。
まるで奇術を見せられているような気分でした。
ミクロで見れば滅茶苦茶なのに、マクロで見ればすべてが計算され尽くしていたかのように絶妙なバランスで成り立っている。
歪なパーツを適当に量産していると思っていたら、気が付いた時には綺麗な球体が完成していたかのように――まるで、詐欺にでもかけられたような気分です。
この男……オオバヤシロという存在は底が知れません。底など、ないのかもしれないと思えるほどに。
すっかりと変えられてしまいましたね。
この街も、お嬢様も。
好奇心は旺盛なのに臆病な、まるで子猫のようだったお嬢様が、今ではすっかり懐き、頼り、無防備な素顔を見せるまでになっています。
他人に弱みを見せて、素直に甘えるなど、これまでのお嬢様なら絶対にされませんでした。
弱みを見せることを罪だとでも思っておられるかのように、その弱々しく華奢な二本の足だけで懸命に立ってこられたお嬢様が、寄り添い身を預けることが出来る存在を見つけた。それは、お嬢様に仕える者として非常に喜ばしいことです。
主が壮健であられることが、仕える者として最も望むべきことですから。
少なからず、お嬢様の顔を曇らせることしか出来ない隣区の領主などより、よほど好意的な存在です。
「ワザとだよ。焦らして嫌がらせしてるだけさ……」
これまで散々繰り返されてきた隣区からの嫌がらせを思い出されているのか、お嬢様の口からは不満が止まることなく溢れています。
お気持ちは分かります。
まぁ、貴族としては、あまり褒められた態度ではないのですが。
「なんか、お前らしくないな」
「え?」
そう意見できるのは、本当にお嬢様のことを思っているから、なのでしょう。
「決めつけで人を悪く言うなんて、エステラっぽくないなと思ってよ」
柔らかい表情で、決して責めるつもりではなく諭すような口調で、彼は言います。
傍から見ていれば、その言葉がお嬢様のためであることがよく分かります。
他人を悪く言うことで自分の品位を貶めている、そんな行為を止めてくれたのだと。
けれど、言われた本人にとっては――その自覚があるからこそ、突き刺さる言葉でしょうね。
事実、お嬢様は深くショックを受けたような表情で反論をしようとして……
「悪く言うつもりなんて………………っ」
言い切れずに言葉を切られました。
反論など、出来るはずがないのです。お嬢様自身、今のご自分が美しい心持ちでいられていないことをよく理解しているのでしょうから。
それを、彼に指摘されたのは、きついでしょうね。
すべてをさらけ出し、全身を投げ打って、身を委ねていた相手からの厳しい言葉ですから。それが的を射ているのですからなおさら。
そんな私の推測を証明するように、お嬢様はなんだか泣きそうな顔になり、口をアヒルみたいに突き出されました。
まぁ、可愛らしい。
抱きしめて顔をペロペロ舐めたい衝動に駆られます。
我慢しますけれど。
「…………悪かった。気を付ける」
「いや、お前を責めたかったわけじゃないぞ?」
ヤシロ様を迂闊だとは言えません。
おそらく彼自身も、ここまでお嬢様が打たれ弱くなっているとは想定していなかったのでしょう。
というか、表の顔しか知らなければ思いも寄らなかったかもしれませんね。
お嬢様は、本当は泣き虫なのだということなど。
「エステラはさ。本当はもっといいヤツで、もっと優しくて、出来ることならいつも笑顔でいたいと思っている。そういうヤツなんだろうなって、俺は思ってんだ」
ですから、あんなにも焦った顔をされているのでしょう。
……ふふ。
その表情は、なかなか可愛いではないですか。
ヘソを曲げたお嬢様を慰めるためだけに、丁寧に言葉を紡ぐ。
まるで、繊細な壊れ物を扱うように慎重に、優しく。
体ごと心を寄り添わせ、静かに、ゆっくりと語りかける。
お嬢様を宝物のように扱うその様は、なかなかに好感が持てますね。
「けれど、領民のことも考えて、一所懸命で、誰よりも責任感が強くて……そのせいで焦ったり、ちょっと失敗したりしてしまう」
よく分かっているではないですか。
そうなのです。お嬢様は責任感が誰より強く、それ故に危なっかしいのです。
ふふ、ようやくお嬢様のことを理解してくれる人物に巡り会えました。
ご自身の本音をうまく隠してしまわれるお嬢様には、真の理解者は少ない。
ヤシロ様とであれば、私も話が合うかもしれませんね。
一度お嬢様談議をしてみたいものです。
そして、時には悩みなども持ちかけて、一緒に解決への手立てに頭を悩ませるなんてこともしてみたいですね。……ふふ、参謀が増えるのは好ましいことです。
「でも忘れんなよ」
そう言って、お嬢様の頭に手を載せ、赤く細い髪の毛をくしゃりと撫でる様は、絶対的にお嬢様の味方の立ち位置であり、揺るがない信頼と安心感を与えてくれます。
先ほど、お嬢様は「結婚なんて考えてない」とおっしゃっていましたが……
彼ならば。
ヤシロ様であれば、それを考慮してもよいのではないか。と、そう思えるのです。
目つきはともかく、その正義感と慈善活動へ取り組む姿勢を見れば人柄に問題はないように思えます。
顔の怖い領主など掃いて捨てるほどいますので、アノ目つきの悪さも問題はないでしょう。
回転の速い頭と、強者を前にしても怯むことなく立ち向かえる胆力は領主の器に相応しいと言えます。
何より、お嬢様のことをよく理解し、無償で助けようとするその心意気。口では自身の利益を最優先などと謳いながら、実際は知識と利益を分配している。
ヤシロ様を見ていると、どうにも勘繰ってしまうのです。
彼は、お嬢様の笑顔が曇ることを看過できないのではないか、と。
お嬢様の元気がなくなる度に、彼は街中を走り回り、時にはこの四十二区を飛び出してまで奔走し、お嬢様の憂いの元を取り払っているように見えるのです。
今現在、お互いの中に恋愛感情がどの程度介在しているのかは知る由もありませんが、見ている限りではそれも時間の問題であると思われます。
特に、ウチの恋愛初心者様は……なんとも微笑ましい。
もしそうなれば……
私は彼のそばに仕えることになるのですね。
……ふふ。それはそれで、とても楽しそうです。日常が刺激的に変化することでしょう。
彼の後ろに付き従う自分を想像すると、少しくすぐったく、なんとも幸福な気持ちになれました。
ただ……
ほんの些細なわだかまりが……はて、これは一体?
「どんなにつらくてもお前は一人じゃない。これまではどうだったか知らんが、今は俺がいる」
「……ヤシロ」
そんな、ともすればプロポーズにも聞こえる言葉を囁いて、恋人同士がするように見つめ合う。
二人の周りには、他の何者も存在しないかのように。静かに、二人きりで……
……私がここにいるのですが?
なんでしょう。
一体どうしたというのでしょう。
この、湧き上がってくるような……不快感は。
確かに、ヤシロ様がお嬢様の隣に立ち、その手練手管を遺憾なく発揮されれば、四十二区は飛躍的に発展し、民は富み、同時にお嬢様の憂いはなくなるでしょう。
現在、実質的に一人で背負っている身の丈に合わない重過ぎる責任を半減どころか解消してしまうかもしれません。
お嬢様の負担はなくなると言っても過言ではないでしょう。
それは非常に喜ばしいことです。
ですが……
もしそうなった時、私は――まだ必要とされるのでしょうか?
彼の後ろに付き従うイメージは、確かに幸福なように思えたのですが、今は……
お嬢様のそばに、私が立てなくなるのではないかという、猛烈な寂しさが押し寄せてきています。
私の前で、私の存在を忘れて、私を必要としない二人が微笑み合っている。
そんな光景を、私は一人で見守り続けて――それで、「あぁ、よかったな」と思えるのでしょうか?
オオバヤシロは、四十二区に現れた規格外の超人です。
そんな彼が、全力で、生涯のすべてを賭けてお嬢様をサポートすると決めたら…………私など、足元にも及ばないかもしれません。
ただの給仕として、館のまとめ役として、相応の仕事と責任を与えられ、それを無難にこなし、褒められることも叱責されることもなく、ただそこにあるだけの存在として、忘れ去られてしまうのではないか……
いえ。
それこそがメイドの務め。
決して出しゃばらず、目立たず、影に徹して最善を尽くし、そしてそのことを悟らせない。
それでいい。そうあるべき。
ですが……
世界中の誰よりも、お嬢様のおそばにお仕えできる人間は私であってほしい。
そんな欲が、顔を覗かせているのです。
取られたく……ない、などと。
それなのに、この男は、オオバヤシロは、すんなりとお嬢様の心に寄り添い、隙間に滑り込み、足りない部分を補ってしまう。
「背負った荷物がどうしようにもなく重かった時は、そこら辺に捨てていけ。金目の物なら俺が持って帰って保管しといてやるからよ」
「……励ましの言葉すら素直に言えないのかい、君は?」
「素直だろうが、俺は、いつだって。金になることなら手伝うぜ、ってな」
「じゃあ、これからは金の匂いをぷんぷんさせるようにしようかな」
そんなことを言って、冗談を交わし合って、あっという間に、お嬢様の顔から憂いを取り去ってしまう。
……敵わない。
私には、到底真似できない。
オオバヤシロこそが、お嬢様の特別――に、なりかけている。
「……ありがと」
「いや……すまん」
「ん……」
「おぅ」
短い音の連鎖で、優しい空気を醸し出し、温かい空間でお互いを包み合う。
……夫婦か!?
チューだってまだのくせに!
なんと腹立たしい。
これは、紛れもない八つ当たりです。決して人に向けてはいけない感情です。口外するなど許されないことです。
それでも――
「お嬢様、ヤシロ様……爆発しろ」
言わずにはいられませんでした。
「「そういうんじゃないから!」」
なんて、そういう風にしか見えない二人が声を揃えます。
まったく……看過できかねます。
しかし、ヤシロ様がお嬢様にとって有益なこともまた事実。
遠ざけるのは悪手……では、どうすれば…………
「……そうか」
ふと、妙案が浮かび、すぐさま首を振ってそれを否定しました。
だって、思い浮かんだ妙案というのが――
私がヤシロ様と結婚して、二人でお嬢様を支えればすべてが丸く収まるじゃないか。
――そんな、突拍子もないものでしたので。
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