寒いのは嫌い。
雪が嫌い。
独りぼっちが――
大嫌い。
急に寒くなって、目を開けると、ヤシロがいた。
「……分かりやすいな、お前は」
ベッドのワラの中に潜り込んだマグダを掘り起こし、ヤシロが覗き込んでいる。
寒い……
本当に寒い……
豪雪期は寒い。
それは毎年のこと。
毎年この時期は寒くて、雪が深くて、狩猟ギルドは休業する。
だからマグダは、この時期はずっと布団にこもっていた。
寒いのは、嫌いだから。
「残念だったな。陽だまり亭は年中無休だそうだ」
そうだった。
マグダは今や陽だまり亭の店員なのだ。
自分で望んで、ヤシロにわがままを聞いてもらって、そして今がある。
こんなところで休んでしまっては、マグダの信用に関わる。
けれど、寒い。
どうしようにもなく、寒い……
「……ヤシロ」
「なんだ?」
「…………温めて、人肌で」
「……お前、分かって言ってんのか?」
寒い……
ヤシロが部屋を出て行き、またマグダは一人になる。
鼻がつんとするくらいに空気が冷たい。
室内なのに、吐く息が白い。
指先が、マグダのものじゃないみたいに動かない。
寒い…………
こんな日は、いつも一人で布団にくるまって……寂しくて……雪が溶けるのをずっと待っていた。
あの頃を思い出して……ひたすら耐えて…………あの頃……
思えばマグダは、いつもあの頃のことばかりを考えていた。
陽だまり亭に来てからは、あまり考えなくなったけれど……
あの頃。
ママ親がいて、パパ親がいて、マグダと三人で、小さい家にひっついて住んでいて……
あの頃は、豪雪期を寒いと思ったことなんてなかった。
パパ親が薪を割って暖炉に火を点けて、ママ親が温かいスープを作ってくれて。
マグダはいつもぽかぽかだった。
あの日までは……
「……いけない。マグダはもう陽だまり亭の店員。いつまでも過去に縋りついているわけにはいかない」
重い体を引き摺るように、マグダは着替えを済まし部屋を出た。
それから、いろいろあった。……と、思う。
ヤシロがマグダに声をかけて、店長がマグダを心配して、ロレッタがやって来て……みんなと一緒に、えっと……マグダは…………何をしてたっけ?
かまくら……
うん。かまくら。ヤシロが作ってくれた、温かい場所。
ほんの小さなスペースだけれど、温かい場所……ヤシロがいれば、みんながいれば……マグダは、頑張れる…………
かまくらを出ると、風が冷たくて、目に映るものすべてが真っ白だった。
マグダは、この白い世界が……嫌い。
白い。
世界が色を失っている。
今までそこにあったものを、全部なかったことにするかのように、雪は世界を白く塗りつぶす。
思い出も、温もりも、ママ親と一緒に見た景色も、パパ親を迎えにいった道も、何もかもを白一色に塗りつぶす。
マグダの大切なものを全部……奪って…………
「マグダ。教会に着いたら、いい物作ってやるから。もうちょい頑張れな」
ヤシロがマグダの耳を押さえて言う。
冷たくなって感覚のなくなった耳に、じんわりとした温もりを感じる。
人の、温もり。
ママ……
「マグダ、見てごらん、雪だよ。きれ~ねぇ~」
「きれ~」
「こら、暴れちゃダメだよ。雪の上に落ちたら冷たい冷たいよ?」
「へーき。ママがいるから、あったかい」
「あぁっ! ウチの娘、本当に可愛いっ!」
ママがぎゅっと抱きしめてくれる。
『ぎるど』では、猛虎と恐れられてる強ぉ~いママだけど、マグダにだけは優しい。
マグダは、ママにとっての特別。
世界で、マグダだけが、ママの特別。
えへへ。
マグダが可愛いと、ママは鼻をこすりつけてきて、マグダの耳の付け根をもふもふと揉んで、そして、マグダの鼻をかぷっと噛んでくれる。
ママの匂いがして、ママの温もりを感じて、マグダはその「かぷっ」が大好き。
他の誰にもしない。
マグダだけにしかしない。
……たまにパパにもしてるみたいだけど、断然マグダの方がしてもらっている。
ママの『愛してる』のサイン。
ママとパパがいれば、マグダは幸せだと信じていた。
猛暑期も豪雪期も怖くないと思っていた。
あの日――
あの大雪の夜までは――
「すぐに帰ってくるから、マグダはいい子でお留守番してるんだよ」
マグダを抱きしめ、頬を舐めて、鼻をかぷっと噛んで、ママはそう言った。
パパと一緒に、大切なお仕事に向かうって。
パパは一番強いから、絶対に安心だって言ってた。
本当はママの方が強いのは、知っていたけれど。
パパとママが一緒なら、何があっても大丈夫だって思っていた。みんなもそう言っていた。
「雪が降るまでには戻ってくるよ」
最後にマグダの頬にキスをして、ママたちは出かけていった。
それからしばらくして、豪雪期になっても、パパとママは帰ってこなかった。
ママはマグダが大好きだから、マグダには嘘を吐かないって言っていた。
パパはマグダが大好きだから、約束は絶対に守るって言っていた。
パパもママも、マグダのことが嫌いになったの?
雪、降ってるよ。
なのにどうして、帰ってこないの?
支部長の息子、ウッセ・ダマレが沈痛な表情で言った。
「護衛隊が、消息を絶った――」
意味が分からなかった。
マグダはまだ小さかったから、難しい言葉は分からなかった。
だから、それ以上聞きたくなかった。
街門まで行けば、ママに会える。
きっと、今頃門のところまで来て、早くマグダに会いたいな~って思ってる。
一度、パパに連れられて行ったことがある街門を目指して、我武者羅に走った。
勘と、微かに嗅いだ記憶のある街の匂いを頼りに、全力で走り回った。
迷子になって、空がどんどん暗くなって、お腹が減って、涙で前が見えなくなって……それでも、マグダは走った。
街門で、ママが待ってる。
パパがマグダに会いたがっている。
マグダが行ってあげなきゃ!
雪が降り積もり、景色を白一色に塗り替えていく。
迷いたくないマグダを苛めるかのように、景色を消していく。
パパと歩いた思い出を、消していく。
街門にたどり着いた時、空は真っ暗だった。
途中すれ違った人が、「一日中雪が降るなんて、珍しいな」なんて話をしていた。
涙と鼻水が凍って、顔に張りついている。
いつ脱げたのか、手袋と靴が片方どこかへ行っていた。
指先が真っ赤になっていた。
でも、門に着いた。
あそこに、ママと、パパが…………
……いなかった。
「ままぁぁぁあぁぁぁぁあああああああっ! ぱぱぁぁぁぁあああああああっ!」
声の限りに呼んだ。
外壁の向こうにまで届くように、何度も何度もママとパパを呼んだ。
なのに、降り続く雪が――マグダの声をかき消した。
雪さえ降っていなければ、ママとパパはマグダの声を聞き逃したりはしないのに。
その日から、マグダはずっと独りぼっちだった。
「マグダっ!?」
マグダを呼ぶ声がして、体が抱き起こされる。
マグダを心配してくれるのは誰?
ママ?
「どうした? 限界か?」
それは、ヤシロだった。
そうだ……マグダは今、陽だまり亭の店員で、ヤシロたちと一緒に……
ぞくぞくっと、寒気が背筋を駆け抜けていく。
あの日、雪に埋もれて泣いていた時のように、酷く、寒い……
「……は、はな……」
寒い……
「……鼻を、かぷって……してほしい」
心が、寒い……
独りぼっちは、嫌い……いや……寒い……
「…………は?」
「………………して、ほしい……」
「……鼻を、かぷってすればいいのか?」
「………………そう」
「………………臭いぞ?」
「……平気」
もう、寂しいのは、いや……
「…………ヤシロ……」
ぎゅっと、掴まりたいのに、指に力が入らない。
ヤシロ……
ヤシロも、マグダを置いて、行っちゃうの?
マグダのこと、好きじゃなくなる、の……?
「分かった。じゃ、じゃあ……行くぞ」
「…………」
今、ここにある温もりも、何かの拍子になくなってしまう。
雪が塗りつぶして、かき消してしまう。
そんな不安に押しつぶされそうになって……また声が出なくなる。
雪が、かき消してしまう。
いやだよぅ。
いなくなっちゃ……やだ……
マグダを、独りぼっちに、しないで…………
今まさに涙が零れそうになったその時――
かぷっ。
――って、鼻を噛まれた。
温かくて、ママとは違う匂い……ヤシロの匂いがした。
そうしたら、今まで目を逸らしていたことが――思い出せば悲しくなるし、求めれば空しくなるし、どうやっても手に入らないと諦めていた、考えることすらやめてしまっていた感情が、情景が、記憶が、ぶわっと蘇ってきてマグダの体を震わせた。
ママの匂い。
パパの力強さ。
ヤシロの声。
店長の料理の美味しさ。
ロレッタに抱きつかれた時の温もり。
過去と現在がごちゃ混ぜになって、マグダを飲み込んでいく。
あぁ、そうか。
分かっていたのに、分かってなかった。
マグダは、もう独りぼっちじゃない。
どんなに雪が降ろうとも、どんなに冷たい風が吹きつけようとも、マグダのことを守ってくれる人が、ここにいる。ここに、たくさんいる。
『マグダ』
ママの声が、聞こえた気がした。
そして、優しく髪を撫でられた、気がした。
『よかったね、いい人に巡り会えて』
「…………ママ」
『離れていても、いつでもマグダのことを思っているよ。愛おしい我が子。愛しているよ、マグダ』
「…………にゃあ」
ママの匂いがした、気がした……ううん、した。絶対にした。
それはほんの微かな気配だったけれど、あれは間違いなくママの気配だった。
ママがマグダを思っていてくれたから、だから、きっと、マグダはそれを感じ取れた。
離れていても、ちゃんとマグダのことを愛してくれている。
今、そう確信できた。
だから、マグダはもう大丈夫。
これから、どんなに雪が降ろうとも、積もろうとも、もう、マグダは独りぼっちじゃない。
マグダはもう泣かない。
だからね、ママ。
帰ってきたら、いっぱい褒めてね。
マグダ、すごく頑張るからね。
そう思った時、微かにママの笑い声が聞こえた、気がした。
微かに感じたママの気配は、次第にヤシロの匂いに変わっていく。
懐かしい匂いではなくなるけれど、今のマグダにとって、一番落ち着く匂い。
マグダは、この匂いが、大好き。
ヤシロがいる。
近くには店長もロレッタもいる。
今はここがマグダの居場所…………って、ちょっと、待ってほしい。
今、マグダがひっついているのがヤシロなのだとしたら…………
「……はぅっ」
マグダは、今、とんでもなく甘えた行動を…………ヤシロに!?
「……マグダ?」
「……ちょっと………………待って」
それからしばらく。
それはもうかなり長い時間……マグダはヤシロの顔を見ることが出来なかった。
ヤシロが、からかうでなく、心配し過ぎるでなく、いつも通りに、いつもよりほんのちょっとだけ優しく、マグダのことを抱きしめていてくれたから、なんとか復活できたけれど……
少々、甘え過ぎた。
明日からは、もっとしっかりするし、もっと頑張る。
マグダは、やればできる子だから。
マグダはもう、独りぼっちじゃないから。
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