信長は向き直り、コンミンとサインの交換を始めた。
まず一球目。内角高めストライクゾーンを外した所へ速球。ランスロットは身じろぎもせずにそれを見送る。
変化球狙いか? コンミンは考えを巡らせる。しかし余りにも打ち気なしで見送ったのが気になる。裏の裏をかいて、二球目の速球狙いという可能性も否定できない。そして何よりランスロットは以前より、露骨な打ち気を見せないのだ。
明鏡止水の例えでは無いが、まさに深山の湖を思わせる佇まい。そんなランスロットを見ていると、彼がメジャーリーグ時代アーサー・キングの甥であったメジャーリーガーに発砲して重傷を負わせ、さらにその弟を殺害したなど到底信じがたい。ランスロットは即座に逮捕されたが、裁判でも黙秘を貫いたという。その上、事件までの経緯が不明で、証拠も不十分であった為、釈放された。証拠不十分で無罪である。だが事件が試合中のクラブハウスで起きた、拳銃を持っていたのがランスロットだけで硝煙反応も有ったとなっては一大スキャンダル。メジャーリーグ機構も動かざる得なかった。
結局ランスロットはメジャーリーグから永久追放。その後、ロシアや中東、アフリカなど野球が余り盛んで無い国を回り、選手兼任指導者として活動していたところ、水戸ロイヤルズのオーナーが口説き落として、今シーズンからヤマト野球リーグでプレイすることになったのだ。
いや、ランスロットの経歴などどうでも良い。コンミンは頭を振る。まずは目の前の一球だ。変化球狙い、あるいはそう見せかけて直球狙いか。双方に対応できる球が一つだけある。
まだ初回。勝負を急ぐ場面では無いが、先程、三塁を狙った志電の激走で場内がいささかざわついている。大ベテランの信長が動揺するはずも無いが、先程、雑なプレーをしたライトの時貞は気になる。早急に次のアウトを取っておくに越したことは無い。
よし、ではこれだ。
コンミンはサインを出し、信長はうなづいた。
二球目。信長のボールは大きく曲がり落ちてくる。そう、三段落ちドロップだ。右バッターの頭に当たるかという高さから急激に曲がり落ち、最後には外角低めのボールになるように要求した。これならストレート狙いであってももちろん、変化球狙いでもそう簡単に打てる代物ではない!
だがランスロットは即座に対応した。膝を折り地面を薙ぎ払うようにバットを出す。
しまった、最初からランスロットの狙いは三段落ちドロップであったか!!
コンミンがそう気付いた時には、快音を残してボールは低い弾道でレフトへと向かった。レフト近藤の前でワンバウンド。レフト前ヒットだ。
ランスロットはすでに一塁を駆け抜けていた。もしも志電が自重して二塁で止まっていれば今頃一点先制されている。今頃実況中継ではそんな話題でもちきりだろう。
「良い良い。たかが単打だ。次を抑えればどうという事もない」
信長は泰然自若として、ボールを受け取りながらそう言った。
誰もがランスロットの打球に目を奪われ、それを打った当の本人への注意をおろそかにしていた時だ。一塁塁上でレガースを外していたランスロットにアーサー・キングが話しかけていた。
「俺の顔が見たくないから、右打席に入ったのか?」
ランスロットは抑揚の無い口調で答えた。
「まさか。貴方の顔が見たくないなら、左打席に入る。背中越しになるからな。右打席の方が否応なしに一塁が目に入る」
そしてランスロットは顔を上げ、しかしアーサー・キングとは顔を合わせないようにして続けた。
「ノブナガのトリプルドロップは、右打席の方が見やすいんじゃないかと思っただけだ」
「それでどうだった?」
「余り変わらなかった。次どうするかは分からない」
「ふん」
アーサーはランスロットの答えを鼻で笑った。そこで信長がにやりと笑いながら、こちらを見ている事に気付いた。口をつぐみ、守備位置に戻る。
「ははは、まぁ良い。せいぜい旧交を温めよ」
信長はさして気にしていないようだが、これで水戸ロイヤルズは四番バッターに打順が回る。そのバッターはすでに打席へ向かっていた。
「四番ファースト、若田。背番号21」
場内アナウンスが告げた。
若田威[わかた たける]。日本人にしては大柄で、またベテラン日本人選手にしては珍しく豊かな顎髭を蓄えていた。
「よぉ、信長。久々だのう」
若田はそう声を掛ける。
「ふん、今シーズンは初めてか。お互い歳は取りたくないものよ」
若田と信長は同期。高卒でプロ野球入りしたのも同じ。当然、同い年である。しかし信長が安土ウロボロスとその前身球団一筋であったのに対して、若田は十球団以上を渡り歩き、首脳部との衝突が原因で体調は万全ながらもシーズン中二軍暮らしという年もあった。それもこれも若い頃の若田はけんかっ早く、乱闘や舌禍騒動が日常茶飯事だったからだ。信長とも一度ならず乱闘を演じ、双方退場処分になった事もある。
しかしながら30歳代に入ってからは、粗野な行動は影を潜め、プレイにも円熟味が増し、若手への指導も熱心に行うようになった。その為、若い選手が多いチームから手本を見せて欲しいと懇願されて移籍する事が多くなったのである。もっとも信長のように若い頃の若田を知ってるベテラン選手からは、当時の印象で語られる事が少なくない。
大悪選手と。
若田は悠然と右打席で構える。年齢による衰えは隠せなくなり、今シーズンは怪我や不調のため、四番をランスロットや次の天海左馬乃介に譲る事が多かったが、やはり節目の試合、ここぞという時にはベテランの力が必要となるのだ。
ワカタケル。それが若田威の前世である。またの名を雄略天皇。一説に寄れば倭王武とも推測される。
長打力こそ衰えたが、当てる能力、そして当てたら外野までなら飛ばす力はまだ充分にある。一塁走者のランスロットは、それほど足の速い走者では無いが、長打を警戒にするに越した事は無い。だからといってランナーも溜めたくない。
ベテランには力のある速球がセオリー。しかしマウンドの信長もベテラン。まだ150キロオーバーの速球は投げられるが、そうそう連投も出来ない。
見送られるとまずい。ならば……。
コンミンのサインに信長は肯き、一塁のランスロットを視線で制してからモーションに入った。
スローボール。
うつけ球と見せかけた単なるスローカーブだ。それも外角ボールコースに逃げる。ぴくりと動きかけた若田だが、残念ながら手を出してくれなかった。
これでワンボールナッシング。コンミンは次に内角高めのストライクゾーン外、やはり打っても飛ばないであろうコースに要求する。若田はこれも少し仰け反って避け、ツーボールナッシング。
これでバッティングカウントだ。次にはストライクが来る。打者はそう予測するだろう。
餌は撒いた。あとは仕上げだ。
コンミンのサインに信長は投げた。渾身の覇王球!! 無回転剛速球だ。
若田もそれは充分に予想していた。ゆらりと揺れながら突進してくる150キロの剛球を振り抜いた。
カキーンと小気味よい金属音が響いた。ここは安土ウロボロスのホーム球場。金属音と共に打球がレフト方向に高く上がった途端、観客席からは悲鳴が響いた。
しかしマウンドの信長と打席の若田は対照的な態度を取っていた。
「まったく、年は取りたくないものだな」
異口同音に同じぼやきを口にしながら、信長は一塁側ベンチに、若田はバットを投げ捨て、一塁方向では無く三塁側ベンチに歩み出していたのだ。
空高く上がった打球は、途中で失速。グローブを構える左翼手近藤の所に落ちてくる。上がった時は良い角度に思えたが、実際終わってみるとフェンスまではかなり余裕があった。
「若い頃の若田なら持って行かれたぞ」
駆け寄るコンミンに信長の方からそう声を掛けた。
「でも若い頃の信長サンなら、やっぱり抑えられましたね」
コンミンのその言葉に信長は大笑する。
「それはそうだ。儂は信長だぞ。わはははははは」
一回の表0点。スコアボードにそう表示されていた。
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