「回転があれば、球が伸びるのは、マグナス力という奴ですか。コンミンさん。でも、遅い球なのに回転がいいというのはあり得るんですか?」
歓声が少し収まってから近藤は尋ね直した。
「あり得ます。今まで投球の回転は、投球の早さを追求した副産物でした。しかし仮に彼が、光国投手が最初から速度を棄て、投球の回転だけに着目してトレーニングを重ねたとすれば……」
その頃、実況席でも同じ結論に達していた。
「見てくださいよ、この投球の回転! 詳しい数値は分かりませんが、普通の投手の倍近いんじゃないですか? これは簡単に打てんわけだわ」
実況席で解説者の野々原は感嘆していた。対して実況アナウンサーは合点がいかぬようで、首を傾げて尋ねた。
「回転数が多いとどうなんですか? いや、私も私も回転数が多いと球が伸びるという話は知ってますが。マグヌスでしたっけ? マグナス力?」
「発音の揺らぎはまぁどうでもいいんですが、マグナス力としましょう」
理論家らしく野々原はそう前置してから続けた。
「回転する球体が、空気などの流体の中に置かれた時、流れに対して垂直の力が働くんです。これがマグナス効果、マグナス力というものです」
野々原はテレビカメラに繋がった自分のタブレットに資料を表示した。
「つまり上向きの力がかかるから、落ちにくくなる。回転の良い球が『伸びる』『ホップする』というのは、こういうわけですわ」
「なるほど、なるほど。でも伸びたり、ホップするのは、普通は速球。それもかなり早い球では? 光国投手の投球はそれほど早いわけではありませんよね」
分かっているのかいないのか。一応、相づちを打ってから、アナウンサーは重ねてそう尋ねた。
「それがこの子の不思議な所なんですわ」
野々原は腕組みをして考え込んだ。
「普通、球を速くしようとしてボールの回転も良くなるはず……、なんですがね。この子は球を速くするよりも、回転の方を重視してきたんじゃないですかね」
「はぁ……。それにどんなメリットが?」
「遅くても伸びる球。ホップする球。ですかね」
「しかしどんなに伸びても、遅くては意味が無い。簡単に打てるんじゃないですか?」
アナウンサーは実況中継を聞いてるファンなら、誰しも思い浮かべる疑問を口にした。
「いやぁ、そんな球。この私も見た事が……。おお、そうか!」
野々原はそこまで言いかけて膝を打った。
「そうや、それや!! 誰も見たことがないんや!! 遅くて伸びる球なんて、誰も見た事が無い。それやから、初見では誰も打てんのや!!」
野々原の推測は当たっている!!
現実でも元メジャーリーガーの上原浩治投手の球が、この『遅くて伸びる球』だったという。もともと回転力の高い伸びのあるストレートを投げていた上原投手だが、日本はさておきメジャーリーグではそれほどの速球派投手とは言えなかった。それでもリリーフ投手として成功できたのは『遅くて伸びる球』を投げられたからだと言う。
遅い球は言うまでもなく、打者に届くまでの時間が長い。もちろんコンマ何秒の世界ではあるが、体感的に剛速球よりも長い事には間違いない。その分よく見極める事が出来るため、遅い球は打ちやすいのだが、その球が逆に思いも寄らぬ軌道を辿ると、長く見ている分、打者は混乱しやすい。上原投手がメジャーリーグで成功できたのは、これが要因だと指摘する人が居るのは事実なのである!!
遅くて伸びのある球。他の投手が投げない球の為、打者は見れば見るほどタイミングが取りにくくなるわけだ!
この理論が正しければ、光国は上原投手と同じようなタイプだという事になるのだ!
但し!! 今のところはである。そう、今のところはだ!!
徳川家康の孫……! いや、織田信長にとっては、松平元康、あるいは竹千代といった方がいいかも知れない。その男の孫、その転生者が目の前にいる。
そう、光国彰考は、徳川光圀の転生なのである。織田信長から見れば半世紀近くも後世の人間。当然、光圀本人など知る由もない。
だが現世では違う。信長吉法と光国彰考には、本人の力ではどうにもならぬ運命という名の因縁が出来ていたのだ。
彼らを野球という舞台で対戦させている、有る者の手によって!
家康の孫か……。こうして後世まで儂につきまとうとはな。やはりあの男の血縁は根絶やしにしておくべきだったか……。
今さらそんな事を考えても意味が無いと分かりつつも、信長吉法は右バッターボックスに入った。
前世の事を抜きにしても、信長吉法は球界を代表する選手。大ベテランである。その信長を前にしても、光国はまったく物怖じする所がなかった。
「さぁて、勝負と行きましょうか。信長さん!」
手にしたボールをグローブにパンと叩き付けて光国は言った。
「その心意気や良し!」
信長も応えてそう言い放つと、改めてバッターボックスで構え直した。
徳川光圀! それが光国彰考の前世である。
言わずと知れた水戸黄門である。天下の副将軍として諸国を巡り世直し旅をした事は日本人ならば誰でも知ってる逸話。そしてそれがフィクションである事も、日本人ならば誰でも知っている事であろう!!
だがしかし!
その知名度の一方で、実際の徳川光圀がどんな人物だったのかは意外と知られていないのだ!
若い頃は、後の名君というイメージはほど遠い、奇矯な格好をして町をうろつき回る、いわゆる歌舞伎者で、悪所にもたびたび顔を出していたとも言う。しかし一八歳の頃、中国の古典に触れて心を改め、以後熱心に勉学に励んだのである。
水戸藩主になってからも、中国から学者を招いたり、有名な大日本史の編纂や、領内の孝行者を表彰するなど後の水戸黄門伝説の下地となるような行いをしている。また当時としては希有壮大な蝦夷地探検を計画、実行する等、フィクションとしての水戸黄門さえかすむ程の実行力をしめてしている。
また晩年には水戸家の重臣藤井紋太夫を手討ちにするという事件も起こしている。それも能を舞った直後、能装束のまま藤井紋太夫を呼び出し、わずかばかりのやり取りの後、紋太夫を刺殺したのだ。
しかもわずか一刀のもと! 藤井紋太夫はほぼ即死! 胸を一突きにした為か、出血すらもほとんど無かったと言う! ここまでくれば、むしろ見事とさえ言えるだろう!
その上、この事件。理由がよく分からない。幕府への光圀の申し開きによれば、藤井紋太夫は増長してしまい、他の家臣にも不安と不満が広がっていたので、手討ちにしたというが確たる証拠が残っておらず、光圀の逆恨み説もあるくらいだ。
歴史の中で時々出てくる『フィクションよりも実像の方が面白い人物』の一人なのである!!
その転生故か、光国彰考も初の甲子園大会で、時貞天使郞一人に滅多打ちを食らった後、自暴自棄になり野球にも身が入らなかったが、ある人物から『投球の極意とは回転。投手の投げる球の威力とは速度でもコントロールでもない! 回転こそ球威!』という回転至上主義を授けられたのだ。
この回転至上主義は中納言高校の野球部監督、コーチからは一切認められなかった。彼らは球速と制球、そして変化球の種類を求め光国と対立した。そんな野球部の中で、唯一、関田だけが光国の回転至上主義に理解を示したのである。
「回転は運動エネルギーに他ならない! 球速が運動エネルギーなら回転と同じ。ピッチング技術は改良されて球速は上がってきているが、人体にも限界がある以上いずれ頭打ちになる。ならば回転力をあげればいい!」
それが関田の理解の仕方であった。だがしかし! 理論家肌の関田の理屈は、典型的な体育会系の監督、コーチ陣からは理解されず、ますます光国と首脳陣との対立は激化。結局の所、光国、関田は野球部に籍を置いていたものの、試合への出場機会には恵まれず、高校時代の残り二年間、ただ『回転こそ球威!』という理論を実現する為の練習だけに費やしたのである。中納言高校の練習施設を自由に使えたのが、不幸中の幸いだろうか。
三年生の時、光国、関田共にプロ志望届けを出したが、二年間高校の公式戦に出場していない二人が、プロ野球からお呼びが掛かるはずもなく、ドラフトでは指名されなかった。
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