その昔、この世界が海に侵食される昔の話。森と呼ばれる緑の葉を身につけた木々が大地を覆っていたらしい。酸素も十分にあり、生き物も多く、とても豊かな世界だったらしい。
「我々はデボン紀のような世界を目指す。緑化の研究は順調に進んでいる。だが、人類がこの枯れた地に住むのには限界がある。一部の者は海で生きる新人類……『人魚』になってもらう」
黒い酸素マスクをつけ、役に立たない勲章を輝かした肥満の男が語る。生き残りの少ないこの人類。一部を人魚にしたところで環境には逆らえない。あのデボン紀ですら八割の海洋生物は絶滅したのだ。人間もまた絶滅する運命なのかもしれない。だが、研究者の雑用をする下っ端の俺にはそんな発言できるわけもなく、酸素残量の少ない粗悪品をつけたまま時は進んでいく。
あと数日もすれば俺も実験体の仲間入りだろうな。それまでどう過ごそ─────
「おい、雑用」
突然、立派な酸素マスクをつけた女性研究者に話しかけられた。女性はこの世界での生存競争には欠かせない人種であるため、蝶よ花よと育てられた者が多い。何を言っても自分が傷つく事も、地位が無くなることもないと知っているからの言動なのだろう。
「はい、なんでしょうか」
「お前、この化物の世話をしとけ。どうせお前もああなる身なんだ。見ておいて損はないだろ?」
見せられたのは生き物とは呼べない禍々しい生き物だった。青白い鱗肌に、細長い白い瞳孔が目立つ黒い瞳、鼻はとても平坦でごまが二つあるように見える。水かきでできた手に青い魚の尾。こちらを見てはキュルルという奇怪な声を上げて呼ぶ。
「あれは人魚。遺伝子を組み換え、体外受精をした後、私が産んだ化物。愛情よりも先に憎悪が生まれたわ……いずれはああなる。私もああなる」
「あれは、雄ですか? 雌ですか?」
「あれは雌、雄は隣の培養槽にいるわ。雌は私が産んだけど雄は違う女が産んだから二匹はいずれは番《つがい》になるわね。試験管の中でできた人魚……試験管マーメイドよ」
あれが、化物。こんな奴らの世話をしなくちゃならないのか? いずれ、ああなるのに? 呆れて笑えもしない。実験段階なのだろうな。成熟すれば海に放ち、食物連鎖の位置を調べるだけでなく人魚が食物連鎖の位置を決めるその時まで観察するつもりだ。
女性は何も言わずその場から立ち去り、逃げられないように自動扉を閉めた。部屋は培養槽があること以外は普通の部屋だった。ドライフルーツや栄養価の高い保存食材が冷蔵庫に入っている。トイレもついている。酸素残量も多いのか、マスクをしなくとも呼吸が楽に行える場所だった。だが、この化物の世話をしないといけないだなんて……
「かわいそうな奴らだな。俺と同じ邪険にされる存在。試験管ベビーである俺と試験管マーメイドのお前ら……共通点はあるもんだな」
無論、言葉も文字も知らない二匹は首を傾げるばかりだ。
「そうだ、どうせ奴らのデボン紀の復活なんて叶うはずがないんだ。旧人類の俺達は酸素もなくなり、食い物がなくなり、環境の変化によって死ぬ。人魚は新人類だ。なんの縛りもない人生を送りたいよなぁ……文字、歴史、言語、すべてをこいつらに注ぎ込めば海で文明を造るよなぁ」
だったら、教えて損はない。まだ子供だが、牙も爪も狩りに必要なすべてがこいつらには揃っている。二度とこんな過ちを犯さぬように、自然を壊さぬように教えよう。人魚になる前に、俺を食うように命じよう。どうせ死ぬなら人として死にたい。
「まずは名前だ、雌がイブで雄がアダムにしよう。俺の名前は……いや、なくていい。俺はお前たちの父親だ」
水中でも声を届かせる為、マイクのボタンを押しながら二匹に名をつけた。すると、予想していなかった事が起きた。二匹の人魚はガバッとノコギリのような歯を見せるように開け、何かを話し始める。
「い……う」
「あ、あ、む」
そんな事を何回も繰り返している。あぁ、自分の名前を呼んでいるのか。知能は十分、体の器官に異常は見られない。ただ、人の形はしていないだけの生き物。俺はあと少しでこうなるのか……あと一年、いや数カ月後かもしれない。こいつらにありったけの知識を詰め込んでこの世界を一度リセットさせる。
──────────……
押し付けられた人魚達の世話は意外にも上手くいった。元が人間だからか、高い知能を持っているため五歳ほどの言語能力と知識はついた。もちろん、身長……いや全長は平均的な五歳児に比べて少し長いが、順調だ。
子供の成長は早いというが、これは早すぎる。
「俺がここに軟禁されて三ヶ月、出会ったときは赤ん坊同然のサイズだったのに……成長スピードが桁違いだ」
改造した巨大な水槽を泳ぎ回る二匹を見て、思わず頬が緩む。怪物、というにはあまりに無邪気で脆い。酸素マスクの必要のないこの部屋で旧人類と水棲生物である新人類がここまでの信頼関係を作れるだなんて誰が予想しただろうか。
「イヨ! イヨ! 泳ごう!」
アダムが水槽から顔を出してこちらに来るよう、水かきのついた小さな手で俺の手に触れる。
「馬鹿ッ!」
「あちっ!」
アダムはすぐに手を引っ込めて大粒の涙を流し、キュルルと小さく泣き声あげる。イブはそれに驚いて、まるで人間のように背ビレのついたアダムの背中を擦る。
「アダム、俺の体温はお前達にとっては熱湯同然なんだ。いいか、冷やしていない俺の手に触れたら駄目だ。何度も言ってるんだ、分かってくれ」
「うぅ、ごめんなさい」
アダムの手には火傷跡は無く、思わず安堵のため息が出てしまった。いくらリアリストぶっても結局は情に流されてしまう弱い人間なんだな、俺は。
「イヨ、あのね? 海ってなぁに?」
イブが突然そんな質問を投げかける。キュルル、クルルと甘えたような音がイブの喉から聞こえた。アダムも水槽からまた顔を出し、二匹して首を傾げている。
「海はな……お前達の住む場所だ。その水槽よりも広く、色んな生き物がいる。自由で無秩序な世界だよ」
「大きな水槽ってこと?」
「あー、大体は合ってるが違うな。まぁ、そのうち見る事ができるさ」
「じゃあさ! イヨも一緒に行こうぜ!」
アダムは人とは違う牙を見せながら笑う。一緒に行けない、なんてこといえる訳もなくただ「行けたらな」と曖昧な返事をする。こいつらが海に放たれる頃には俺は死んでいるか、人魚にされているかの二択。人魚になったとしても、もう114番……いや、あいつらの呼ぶイヨでは無くなっているんだろうな。
「じゃあ、前に聞かしてくれたご本で出てきた死んだお姫様はどこに行くの?」
「イブは知りたがりだなぁ。さぁ、死んだ後のことなんて誰も知らねぇが、空に行くんじゃねぇか? まぁ、俺も見たことが────」
その時、今まで開くことがなかった扉が開く音がした。ガシャガシャという久しく聞いていない武器や酸素マスクの音に目が覚めた。
「114番、出ろ」
情もなにもない深海の声に汗が止まらなかった。ただ、従わなければ死ぬという躾がされた俺にはあまりにも十分な言葉だった。消え入りそうな声で返事をし、屈強な男相手に連行された。聞こえた二匹の声は親離れのできない小鳥のようでやかましく、離れがたいものだった。扉が閉まる直前まで俺は二匹を見ていた。
二ヶ月ぶりの暗い廊下、肌に張り付く粗悪品の酸素マスク。生きる意味を失った仲間たちの暗い瞳と重い足取り、武器を持った奴らの顔はまるで人形のように変わることはなかった。こんなにも色がなかっただろうか、この息もできぬ水槽に俺はいたのか。
「こいつか? あの怪物を世話していたというのは」
久しぶりに見る肥満の長官殿が汚物を見る目を向ける。怪物もなにも、お前達が作ったのだろとは言えず、なにも答えなかった。銃を持つ男は業務連絡のように俺が二匹を育てていた事を話す。
「自分の未来を見るには良い機会になっただろう。あの怪物を育ててくれたこと感謝するぞ。遺伝子操作は成功したが、未だに解剖はしていなかったからな。あそこまでの大きさなら臓器もしっかりしているだろう」
「え? あの、あれは海に放つんじゃ……」
しまった。何を俺は意見しているんだ? そんな反骨心はとうの昔に捨てたはずだ。俺は聞き分けのある一般人になると決めたのに、なんで……
「それじゃああんまりですよ、あいつらだって生きてるんです。これじゃまるで"食う為に育てられた豚"みたいじゃないですか!」
やめろ。もう喋るな。長官の顔を見れば分かるだろ? 怒りと呆れの混ざった下民を見る目をしている。
「試験の中で産まれたのは俺も、他の奴らだって同じだ。境遇者は俺だけじゃないはずだ! あいつらはあの狭い水槽の中で生き、見たことも知りもしない海に夢を抱いてる!」
酸素供給量が足りない。でも、出した声も出る声も抑えられない。
「あの子達から海という世界を奪わないでくれ! 俺はどうなってもいい! あの子達を……アダムとイブを、海に返してやってくれ……頼む!」
酸素マスクを外し、正常な判断のできない頭を冷たい床に押し付けて叫ぶ。ここで気付いた。何も叶えられずただ暗い海を見ていたガキの頃の俺とあの子達を重ねていたんだ。試験管の中で生まれ、捨てられ、死ぬことも出来ずにただ素知らぬ顔して波を産む海に憧れた。義理でも子は親に似るもんだな。
頭上から酸素を無駄にする大きなため息が降ってきた。
「やはり消耗品だな。進歩には犠牲は必要なもんだ。おい、あれを持ってこい」
長官が指示した側近の二人は歯切れの良い返事をした。しばらくしてやってきた二人の光景に絶句した。
奇妙な声で叫び、水から引き揚げられた魚のように反り返る体。細長く白い瞳孔が目立つ黒い瞳からはビー玉のような涙。
「熱い! 熱いよイヨ!」
俺の名前を呼ぶイブの声が耳に届く頃にはもう体は動いていた。
非力ながらもアダムとイブの手を持つ男に体当たりをし、銃を奪い取る。不慣れな銃を男の太ももに当たるように引き金を引いた。
一度撃てばもう戻れない気がして、アダムとイブの体を抱きかかえて見境なく弾切れになるまで撃ちまくった。反撃を食らって赤く染まる俺の腹も、激痛に喘ぐ奴等の声もすべてを無視して海の見える船首へと走った。
酸素マスクは途中まで奪ったものをつけていたが、気付けばそれも外れて目の前がチカチカと光っていた。ただ、握られた水かきのついた二つの小さな手がこんな俺にしがみついているのだけが分かった。
船首に着いたはいいものの、波の音すら聞こえない分厚くて透明な壁が道を遮っていた。銃も弾切れ、頭も働かない。二人の声も小さくなるのが分かった。
「見つけたぞ! 射殺命令がでている! やれ!」
そんな声と共に銃を構える音が聞こえた。
壁に手を触れ、声を出そうとするがもはや酸素が足りず過呼吸を起こしていた。肺が、心臓が、全身が酸素を欲しているのにそれは手に入らず命がすり減っていくのが感じた。
せめて、この子達だけでも──────!!
「行きなよ! 雑用!」
聞き覚えのある声と同時に遮っていた壁は無くなり、海風の感じる夜の海がぼやけた視界に写った。何故壁がないのか、あの声の正体が誰なのか確認するよりも先にふらつく足で二人を抱えて海へと走っていた。
あと少し、あと少しなんだ! 何故か息ができる、肺に空気が入る!
いや、そんなことはどうでもいい……アダムとイブを!
パァンッ!!!
右足に力が入らなくなり、二人を抱えて視界が揺れる。倒れる? 今ここで?
「っ、倒れるわけにはいかねぇ! アダム! イブ! これが海だっ!」
力の入らない右足をなんとか動かして暗い海へと身を投げた。風を切る音と波の音に包まれながら落ちていると、視界にはこちらを悲しげに見つめるあの女性研究者が立っていた。
お礼の言葉も言えず、冷たくてさす光が揺れる海に俺達は沈んでいた。次第に力が入らなくなり、冷たくなった手から二人が離れていく。二人はクルル、キュルルと喉を鳴らしながら何かを話し、冷たくなる俺の体を海上へと出そうとする。
血が出て動けない俺が意識のあるうちに見たその景色は無数にある白い星と黄色の月が浮かぶ黒い空だった。二人の鱗肌は水に濡れて月明かりに照らされていた。
「アダム、イブ……このデケェ水が海だ。そんで、あの白い点を星、黄色の丸が月だ。あぁ、最期に本物が見れて良かった」
───────────……
その後、一人と二匹がどうなったのか誰も知らない。また、外界に触れた旧人類がどうなったのかも新人類は知らない。
船乗り曰く、冬の寒い海には人魚が「イヨ」と呼びながら空に向かって歌を歌う様子を見たと言う。
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