蕗の下のイレンカ

由良辺みこと
由良辺みこと

(2)

公開日時: 2021年10月28日(木) 11:00
文字数:4,460

 空港に降り立った私を出迎えてくれたのは、父方の親戚であるサチさんと、その旦那さんであるソウジロウさんだった。


「いらっしゃい、チカちゃん。ずいぶんと大きくなって」


 やさしいサチさんの笑顔を見ると、自然と肩から力が抜ける。私はつられるようにして笑い、改めて二人に頭をさげた。


「おひさしぶりです。また、お世話になります」

「ああ、いいともいいとも。さあ、荷物を貸して」


 朗らかに笑うソウジロウさんが、私のキャリーケースを引いてくれる。かと思ったら、彼はとたんにおどろいたような顔をして、


「おやチカちゃん、きみは身体が弱いのに、こんなにも重いものを持ってきたのかい」


 その言葉を聞いた私は、思わず吹き出してしまった。


「いやだな、ソウジロウさん。私の身体が弱かったのは、中学までのことですよ」

「そうですよ、あなた。チカちゃんは中学校にあがってから、とたんに元気になって。裏の畑だけじゃなく、山のほうにまで遊びに行っていたじゃありませんか」


 サチさんにまで言われ、ソウジロウさんは「ああ、ああ、そうだったね」と、すこし恥ずかしそうに笑う。


「けれどもお前、わかるだろう? こうして一人で来てくれたチカちゃんを見ていると、どうにも昔のことを思い出してしまうんだよ」


 初めて会う私たちの前で、産まれたての小鹿みたいにふるえていたあの日のことを――


 それはまだ、私とスマリが出会う前。私の身体が今ほど丈夫ではなく、喘息を患っていたころのことだった。療養のために親もとを離れ、私はたった一人で、この北の大地を訪れた。


 学校は休みがちで友達もおらず、ひどく内気だった私にとって、それがどれだけ心細いことだったか。サチさんとソウジロウさんは、きっと、よくよくわかっているだろう。


 二人が営む民宿の一室に引きこもり、私は朝も夜もなく泣いていた。二人は仕事の合間に私の世話を焼いてくれていたというのに、ろくに口さえ利かなかった記憶がある。今になって思い返してみると、あのころの私は本当に礼を欠いた子どもだった。


 それでも、二人が私を見捨てることなんてなくて。今だって、こうして私のことを気にかけてくれている。死んだスマリのことを口にしないのが、何よりの証拠だ。


 けれど、だからこそ、そこに違和感が生まれる。


 私がスマリと出会ったのは、そもそも、二人がブリーダーさんにかけ合ってくれたおかげで。二人だって、スマリをとても可愛がってくれていて。私がスマリをつれて遊びに来るときは、スマリのためのおやつを用意してくれていたくらいだったのに。なのに、今は誰もスマリのことを口にしない。最初からスマリなんていなかったみたいに、知らないみたいに、彼のことが話題にのぼることはない。


 ああ、本当にスマリは死んでしまったんだな。なんて、今さらになって思った。


「そういえば、いつからだったんでしょう」


 ソウジロウさんが運転する車の後部座席で揺られながら、私はふと呟いた。


「私が、サチさんやソウジロウさんと、こうして話をするようになったのって」


 記憶の中にいる私は、部屋にこもって泣いているか、笑顔で二人の後ろについて回っているかのどちらかで、間を繋ぎ合わせる記憶だけが、すっぽりと抜け落ちている。


 すると、二人はおおらかに笑って言った。


「さあ、どうだったかしら。私も、もう忘れてしまったけれど」

「記憶は薄れていくものだからね。でもきっと何か、ちょっとしたきっかけがあったんだろうさ」

「そうですよね」


 私も笑ってうなずいたものの、どうしてか、なにかが引っかかる。仮に何か、ソウジロウさんの言うような「きっかけ」があったとするのなら、それは一体なんだったのだろう。


 いくら考えてみたところで、答えは出ない。けれど、思い出せないようなことなら、どうせ大した事柄ではないのだろう。私は考えるのを放棄して、空港で手に取った観光パンフレットを広げた。


 ここ北海道には、たくさんの観光地がある。富良野にはラベンダー畑があり、美瑛にはパッチワークの丘や青い池があり、世界遺産にも認定された知床には知床五湖やカムイワッカ湯の滝がある。少し趣を変えるなら、函館も世界三大夜景として有名だ。


 けれど、今回の旅行で、私がそういった場所へ足を運ぶことはない。


「ごめんなさいね。今、うちには下宿に来ている子がいるものだから」


 本当は観光地に連れていってあげたいのだけれど。と、申しわけなさそうに言うサチさんに、私は「そんなことないですよ」と、かぶりを振った。


「民宿がある白金温泉だって美瑛の立派な観光地ですし……それに、私は別に観光が目的じゃないですから」


 その言葉だけで、サチさんもソウジロウさんも、私の思いを察してくれたのだろう。二人は一瞬だけ口をつぐんで、それならゆっくりしていきなさいと、そう言ってくれた。


 北海道へ行くことを勧めてくれた兄が何を意図していたのかなんて、私は知らない。それでも、私はスマリとの思い出をたどりたいと思ったのだ。



 かくして、私たちの乗る車が民宿に着いたのは、ちょうどお昼時。車を降りれば、懐かしい木造二階建ての建物が、すこしも昔と変わらない姿で、そこにあった。


「今も、蕗畑はあるんですか?」


 車のトランクからキャリーケースを出すソウジロウさんを手伝いながら、私は落ち着かない気持ちで問いかける。すると、ソウジロウさんはきょとんと目を丸くした。


「蕗畑?」

「ほら。民宿の裏手にある畑ですよ。以前は、大きな蕗がいっぱいあったじゃないですか」

「ああ、あの蕗か」


 得心したようすを見せたソウジロウさんは、けれども、どこか困ったように笑った。


「あれは畑ではないんだよ。昔から自生していた蕗でね、私たちで育てていたわけではないんだ」

「じゃあ、今は」

「数は減ってしまったけれど、まだいくらか自生しているよ」


 気になるなら先に見てくるかい、と聞かれて、私はとっさにうなずいていた。


 無言でキャリーケースを預かってくれたサチさんの厚意に甘え、私は駆け足で車から離れる。そうして、私が民宿の裏手へと回った瞬間、反対から歩いてきていたらしい人と鉢合わせになった。


 勢いあまってぶつかりそうになる私を、相手は軽く半身をそらして避けた。数歩ほど、私はたたらを踏んだ。あわてて、ぶつかりそうになった相手を振り返る。すみません――ただ、そう謝るつもりだった。


 だのに、喉もとまで出かかっていた謝罪の言葉は、相手の姿を目にしたとたん、泡のように消えてしまった。


 そこにいたのは、一人の若い男性だった。不思議な幾何学模様が描かれたアイヌの民族衣装をまとい、葉柄が一メートルほどはあるだろう蕗を、まるで傘のようにして手に持っている――


 そのとき、私の脳裏に浮かんだのは、アイヌのコロポックル伝説だった。その伝説に登場するのは、アイヌ語で「蕗の下に住む人」という意味を持つ、妖精のような小さな人々。


 目の前にいる男性の姿が、見たこともないはずのそれと重なった気がした。


「ぼくの顔に、何かついてるかい?」


 知らず、まじまじと男性の顔を見つめてしまっていたのだろう。小さな笑みを浮かべて問われ、私ははっと我に返った。


「あ、いえ、すみません」

「いいよ、気にしてない。ぼくの服装も、珍しいだろうからね」


 男性は大きな蕗の葉柄を肩に乗せて、からからと笑った。


「それよりきみ、今日この民宿に来るっていう本州の人だろう? 名前は、チカだったね?」

「私のこと、知ってるんですか」


 私が目を丸くして瞬きをすると、彼は軽く首をかたむける。


「あれ、ソウジロウさんたちから聞いていないかい? 民宿に下宿しているヤツがいるって」


 たちまち、私は合点がいった。そうか、サチさんの言っていた「下宿している子」というのは、彼のことだったのか。


 そして、そんな私の思いは表情に出ていたのだろう。下宿をしているという民族衣装の男性は、にこにことして言った。


「ぼくは、アイノネ。会えてうれしいよ、チカ」


 ――アイノネ。

 聞き慣れない響きの名前だった。でも、その名前が持つ独特な響きは、どことなく覚えがある。


「もしかして、あなたはアイヌの?」

「うん、まあそんなところかな」


 私の問いかけに対して、アイノネは軽くうなずいてみせた。

 どうりで聞かない名前だと思ったと、正直に私が言えば、彼は「アイヌの言葉だからね」と、機嫌よさそうに答える。


「人からはよく珍しがられるよ。でも、ぼくはこの名前が気に入っているんだ」

「何か特別な意味でもあるんですか?」


 私が首をかしげて問うと、アイノネは「さあ、どうだろう」と、意味深に笑った。


「それより、この先には畑と山しかないはずだけど、何か用でもあったのかい」

「まあ、すこし。蕗を確認しに行こうと思って」


 今度は、アイノネが首をかしげる番だった。「蕗を?」


 彼の反応は当然なのだろう。遥々、本州からやってきておいて、いの一番に蕗を見に来るだなんて、そんな観光客はそうそういない。だけど、


「私がここに来たのは、蕗を見るためだから」


 目を伏せて、私は苦笑を返す。アイノネはしばし沈黙して、息を吐くような相づちを打った。


「はあ、変わっているね。蕗が見たいなら、足寄のラワンブキでも見に行ったほうがいいだろうに。あそこの蕗は日本一大きいって、聞いたことないかい?」

「ううん、ここじゃないと、だめなの。スマリと一緒に遊んだここじゃないと」


 かぶりを振った私に、アイノネは再び首をかしぐ。


「スマリ? キツネのこと?」

「あ、違――いや、違わないんだけど、私が飼っていたフェネックの名前で」

「フェネック」

「北アフリカとか、砂漠地帯に住んでいるキツネの仲間なの」


 私はアイノネに軽く説明をして、かつて、この先に広がっていた景色を思った。トウモロコシやトマトが植えられた畑の一角。そこを埋め尽くしていた丸い大きな葉っぱ――


「もう死んでしまったけど、スマリとはよくここの蕗畑で一緒に遊んでいたから」


 だから、ここにはスマリとの思い出が、たくさん残っているはずなのだ。私はそれを探して、拾い集めて、このぽっかりと穴が空いてしまった胸を埋めなくてはいけない。だって、そうしなくては、きっと私は動けない。仕事だって手に付かないままで、また、みんなに迷惑をかけてしまう。


 小さいころと同じ。身体が弱くて、いつも両親や兄に心配をかけていたあのころと、何も変わらない。


 そんなことを思って、私は密かに自嘲する。顔をあげると、アイノネは憮然としたようすで、こちらを見ていた。


「何も、変わらないんだね」


 かすれたような声で、呟く。かと思えば、アイノネは私の横をすり抜けて、民宿の正面へと歩き去る。


 突然、一人取り残されるかたちになってしまった私は、わけもわからず、呆然とした。しばらくの間、その場に立ちつくしていることしかできなかった。



 何年かぶりに私が訪れた民宿裏の畑は、ずいぶんと様変わりしてしていた。きれいに整えられた畑に育つ野菜は日の光の下で瑞々しい青葉を広げる一方で、あのころ、たくさん茂っていた蕗は、山のふもとの日陰に、ひそりと残るだけとなっていた。

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