蕗の下のイレンカ

由良辺みこと
由良辺みこと

(3)

公開日時: 2021年10月28日(木) 12:00
文字数:5,797

「荷物は部屋に運んでおいたから、食事ができるまで、チカちゃんは休んでいたらどうかしら」


 民宿の厨房から顔を覗かせたサチさんは私を見て、やさしく微笑んだ。労るような、そんな微笑み方だった。


 私はサチさんの気遣いに感謝しながら、「ありがとうございます」と、お礼を口にする。彼女が着ている服に目が留まったのは、そのときだった。さっきまで、落ち着いた色合いのワンピースを着ていたはずの彼女は、今はどういうわけかアイヌの民族衣装を着ていた。


「サチさん、その服」

「ふふ、素敵でしょう? うちの民宿、今はこの民族衣装が制服みたいになっているの」


 口もとに手を当て、サチさんは上品に微笑む。私の頭に、先ほど出会った男性の姿が浮かんだ。


「もしかして、下宿している彼がアイヌの民族衣装を着ていたのも?」


 あらもう彼に会っていたのね――サチさんに言われ、私は蕗を見にいく途中で偶然会って話をしたのだと伝える。


 でも、会話の途中で彼が急に機嫌を悪くしたことだけは、口にすることができなかった。民宿に戻っただろう彼が、どこで聞いているかもわからなかったし、何よりもこれからお世話になるサチさんやソウジロウさんに心配をかけたくはなかった。


 そして、そんな私の思いを露とも知らず、サチさんは言葉を続ける。彼には民宿の仕事を手伝ってもらっているの、あまり笑わない子だけれどとても良い子なのよ、歳はチカちゃんと同じくらいだと思うから仲良くしてあげて――


 サチさんから渡された部屋の鍵を手に、私は内心で首をかしいだ。


 笑わない? 彼が――アイノネが?


 私は、ほんの数分前に出会った彼のことを思い浮かべる。だけれど、去り際に見せた表情を除けば、アイノネは始終笑っていたように思えた。


 少々怪訝に感じる。でも、今の私にとっては、それも大した問題ではなかった。あてがわれた懐かしい部屋へと足を踏み入れる。部屋の片すみに置かれたキャリーケースの横を素通りし、二階にあるその部屋の窓を開け放つ。東京のそれよりも幾分かからりとして冷たい風が、頬を撫でる。私は、窓のふちに顔を伏せた。


「私、どうしたらいいの」


 ここに来れば、スマリとの思い出に浸ることができると思ったのに。そうすれば、病気が治ったときと同じように、また元気が出て、以前のように生活できると思ったのに。誰にも、迷惑をかけずにすむと思ったのに。


 頭の中で、誰かのささやくような声が聞こえた気がしたけれど、私の思考はまとまらない。あの蕗畑がなくなってしまったことが、よほどショックだったのだろうか。それまでは微塵も感じていなかった疲労感が、どっと押し寄せてくる。


 サチさんは今ごろ、昼食を作っているだろう。半刻もしない内に、食事はできあがる。そんなことはわかっているはずなのに、私の意識は疲労感に蝕まれていく。押し寄せてくるのは、抗いがたいほどの睡魔。


 眠ってはだめ、と。何度も、うわごとのように繰り返した。だのに、その抵抗も虚しく、気がつけば私は深い眠りへと落ちていた。

 そうしてみたのは、まだ私が幼いころの――喘息を患って、この民宿に預けられていたころの夢だった。


 時刻は深夜。月明かりだけが差しこむ部屋の中で、「私」は風邪薬の入った小瓶を握りしめていた。きつく閉まっていた瓶のふたを開け、おもむろにゴミ箱の上でひっくり返す。たちまち、瓶の中にあった錠剤は、ばらばらとゴミ箱の中へと落ちた。けれど、「私」以外に人のいない部屋では、この暴挙を咎める者もいない。「私」は空になった瓶を確認するや否や、今度はこんぺいとうが詰められた袋をポケットから引っぱり出した。そして、その一粒一粒を、丁寧に小瓶へと移す。小さな瓶は、すぐにこんぺいとうでいっぱいになり、「私」はこんぺいとうの詰まった小瓶を満足げに見つめる。高鳴る胸を小さな手で押さえながら、そっと部屋の外へ出た。寝静まった民宿を抜け出して、向かう先は――


「チカ」


 ふと、誰かの呼ぶ声がして、意識が浮上しかける。遠くのほうで、サチさんの声が聞こえた。けれど、続いたのは、それを制するような小さな息の音。


「疲れているんだ。休ませてあげよう」


 そう言ったのは、誰だったのだろう。顔を確認しようとしても、まぶたが重くて持ちあがらない。少し浮きかけた意識とは反対に、私の身体は未だ深いまどろみの底にいる。まるで、ゆりかごに揺られているような気分だった。


 身体が柔らかなものに横たえられて、あたたかなものに包まれる。とても、心地よいと思った。とんとんと、規則正しいリズムで、かすかな振動が伝わってくる。誰かが、子どもをあやすみたいにして、布団を叩いている――


「おやすみ、チカ」


 ひどくやさしい、ささやくような声を最後に、私の意識は再びまどろみへと沈んでいった。



 目が覚めたとき、私は民宿の布団で横になっていた。壁の時計に目をやると、午後四時を示している――私はぎょっとして飛び起きた。どうやら三時間以上も眠ってしまっていたらしい。あわてて布団から抜け出そうとして、そこではたと気がついた。枕もとに、何かが置かれている。


 それは、古びた小瓶だった。ふたの塗装ははがれかけていて、すっかり変色したラベルには風邪薬の文字。そして、そんな瓶いっぱいに詰められているのは、


「こんぺいとう……?」


 夢でみた遠い日のできごとが、私の頭によみがえる。気づけば、私は民宿の裏手へと足を運んでいた。



 茜色に染まる畑の中を歩く。山のふもとに残った小さな蕗の群生地には、先客がいた。アイノネだった。けれど、彼は私に一瞥を寄こしただけで、すぐにまた土いじりを始める。


 少しの間、私はその背中をながめていた。スマリと出会うよりも前の――今の今まで、すっかり忘れていた遠い記憶が、陽炎のように揺らいでいる。私は、アイノネの近くに腰をおろして、口を開いた。


「ねえ、コロポックルって知ってる?」


 アイノネは、答えない。私は、かまわずに続けた。


「昔、サチさんからもらった本に書いてあったんだけど、彼らは蕗の下に住んでいて、心を許した人にしか姿を見せなかったんだって。だから、アイヌの人たちは、彼らに贈りものをするとき、いつも夜にこっそりと置いていたって」


 相変わらず、アイノネは黙っている。無視をされているのか、それほどまでに嫌われてしまったのか、私にはわからない。ただ、不思議とこわいとは思わなかった。


「私ね、それを読んでから、コロポックルに会ってみたくてしかたなかったんだ。だから、まだここが蕗畑だったころ、瓶にこんぺいとうを詰めて、蕗の葉の下に置いたことがあった」


 そう言って、私は枕もとにあった小瓶をアイノネの前に置く。休むことなく土をいじっていた手が、ようやく止まった。


「思い出したの?」


 静かな声で問われて、私はうなずく。


「うん、思い出したよ。コロポックルさん」


 ――あなた、コロポックルなの?


 遠く過ぎ去った、あの日。小瓶のようすを見に、再び蕗畑を訪れた私は、小瓶を手にたたずむ彼を見て、そう問いかけていた。


 当時、私よりも少し背の高い少年だった彼は、肯定もしなければ、否定もしなかった。ただ黙ったまま、小瓶を持ちあげて見せるので、私は言った。


「あげる。全部、あなたにあげる」


 彼は一言、「ありがとう」としか言わなかった。蕗畑に座りこんで、こんぺいとうを食べながら、ずっとそっぽを向いていた。


 けれど、そのようすをながめる私を追い払おうとはしなかったし、ぽつりぽつりと不思議な物語を口ずさむように語って聞かせてくれた。今になって思えば、あれはきっと「ユーカラ」という、アイヌに伝わる叙事詩だったのだろう。


 ともあれ、その日から、私は蕗畑に入りびたるようになった。物知りで、やさしい「コロポックル」に――彼に会って、話をしたい。ただ、それだけだった。彼の迷惑なんて少しも考えないで、勝手な思いこみをしたまま、無邪気に笑っていた。彼はコロポックルでもなんでもない、普通の子どもだったのに。


「あのときは、ごめんなさい。帰り際には、必ずまた会う約束までつけて」


 アイノネは首を横に振った。


「謝ることなんてない。ぼくは、それでよかったんだ」


 彼は言った。あの日、民宿裏の蕗畑で出会うよりも前から、彼は私のことを知っていたのだ、と。


 いわく、もともと彼の家はソウジロウさんやサチさんと頻繁に交流があって、私が民宿に来たばかりのときも、姿を見かけていたらしい。当時、サチさんがくれたアイヌ伝承の本は、もとをたどるとアイノネからの贈りものであって、スマリを譲ってくれたブリーダーも、彼が紹介してくれたのだという。


「どうして、そこまでしてくれたの?」

「一目惚れだよ」


 アイノネは、そっぽを向いたまま言った。


「放っておけないと思ったんだ。ずっと暗い顔をしてるから、笑った顔が見たかった」


 思ってもみなかった言葉に、私は瞬きも忘れて彼の横顔を見る。彼も、私を振り返った。びっくりするくらいに、まっすぐな目だった。


「きみは、自分を疎かにしすぎだ。ぼくが、どんなに大事にしたって、きみはきみ自身をぞんざいに扱う。今だって、そうだろう? きみが考えているのは、自分の心を癒やすことじゃない。周りの人間に迷惑をかけないことだけだ」


 彼の言うとおりだった。返す言葉なんてなかった。そのはずなのに、私の口は必死に逃げ道をさがす。


「でも、だって私なんて」

「そういうの、いい加減にしてくれないかい。きみは何度、ぼくの気持ちを踏みにじれば気がすむのさ」


 容赦ない言葉が突き刺さるようだった。胸が、痛くて、たまらない。耳をふさいで逃げだしたいのに、アイノネの真剣な目が、私をとらえて放さない。


「きみがそんなだから、ぼくはいつまでも、コロポックルのふりをしていなくちゃならないんだ。唯一、きみが自分自身をさらけ出せる相手でいられるように、物知りでやさしい妖精でいなくちゃならない」


 アイノネは言った。


「ねえ、チカ。俺はそろそろコロポックルから、人間になってもいいかい? アイノネという名前のとおりに、一人の人間になっても、かまわないかい? 俺という人間に、本当のきみを見せてよ。それとも、きみ一人も支えられないくらい、俺は頼りなく見えるのかい?」


 言葉は、出なかった。代わりに、あふれ出した大きな感情が、涙になってこぼれ落ちる。うれしいのか、かなしいのか、もうしわけないのか、それすらもわからない。ただ声もなく泣く私の涙を、アイノネはそっと服の袖で拭ってくれた。


   ※


 本州へと帰る日、アイノネは空港まで見送りに来てくれた。


「もう、大丈夫かい?」


 問われて、私は笑顔でうなずく。


「もう大丈夫だよ」


 けれど、アイノネの表情は変わらない。心配性なのか、はたまた私の信用がないのか、彼は質問を繰り返す。


「スマリがいなくても?」

「うん」

「コロポックルがいなくても?」

「うん」

「俺が、いなくても?」

「それは、大丈夫じゃないかなあ」


 私が苦笑いになると、ようやくアイノネは満足そうに笑った。


「そう、それならよかった」


 私よりも二つは年上であるらしいのに、その顔は屈託ない子どものそれそのものだと、そう思う。なんとなく、私もつられるようにして笑ってから、ふと呟いた。


「そういえば、ソウジロウさんもサチさんも、遅いね。トイレ混んでるのかな」


 空港まで車で送ってくれたのは、迎えのときと同じく、ソウジロウさんとサチさんだ。アイノネは車が苦手だそうで、そもそも免許を取っていないらしい。都会に住んでいるならまだしも、広大な北海道の片田舎で、車なしに生活するなんて大変なのではないか。そう思ったのだけれど、当の本人はけろりとして「遠くへ行くときは近所の人に送ってもらうから」などと言っていた。


「あの二人なら、帰ったよ」


 唐突に、アイノネが言った。「は?」なんて、間の抜けた声が出た。


「なにそれ、それどういう」

「あとはお若いお二人で、だってさ」


 ひょいと肩をすくめてみせるアイノネに、私の顔は一気に熱を持った。


「か、からかわないでよ」

「からかってないよ」


 と、アイノネは至極まじめな顔をする。


「でも、そうだな。せっかく二人がくれた機会だから」


 にこりとして、アイノネが唇を寄せた。かすかにふれた熱だったのに、私の顔は、発火直前である。酸欠の金魚よろしく口をぱくぱくとさせるしかない私を見て、アイノネは喉を鳴らして笑っている。


 乙女の純情をもてあそぶなんて、ひどい男だ。内心で憤慨していれば、ふいに彼のいたずらっこがなりを潜めた。


「俺、手紙書くから」

「うん、私も書くよ。必ず」


 このご時世に手紙なんて、少々古風じゃないかと思わなくもないけれど、彼の機械音痴っぷりを目の当たりにした今となっては、もはや何も言うつもりはない。


「アイノネの蕗畑、楽しみにしてるからね」

「足寄の蕗には負けるだろうけど、がんばるさ。チカとスマリだけじゃない、俺にとっても大切な思い出の場所だからね」

「うん、それじゃあ――また、夏に」

「また、夏に。あの蕗の下で」


 さびしさを胸に笑いかければ、まるで鏡でも見ているかのように、さびしげな笑みが返ってくる。それがなんだかおかしくて、でも、少しだけ安心する。今回の旅行では、スマリを亡くしたさびしさを癒やすどころか、大切な人と離れるさびしさまで増えたというのに、おかしな話だ。


 でも、きっと、こうして人は生きていくのだろう。良いことも、悪いことも、少しずつ積み重ねて、人生という地層をつくっていく。そして、その上にまた、新しい時代を生きる人たちの地層が重なっていくのだ。私が今、「彼」のつくりあげた地層の上に立とうとしているように。


 閉じたまぶたに、小さな影が浮かんで見える。影は心配そうに、何度も何度もこちらを振り返っていた。どこかへ行こうとしているはずなのに、私を見ては足を止めている。


 ――もう大丈夫だよ。


 胸の内で、私は影に語りかける。


 ――私はもう、大丈夫だよ。


 投げかける言葉には、抱えきれないほどの感謝をこめた。すると、それまでためらっていた「彼」の足が、動く。一歩、また一歩と、前へと進む。


 やがて、一目散に駆けだした「彼」の向こうに、よく似た影がいくつか見えた。そうか、と思う。「彼」には、待たせている相手がいたのだ。


 ――お前も飼い主に似て気にしいだね。


 私が笑えば、「彼」は高く鳴いて応えた。あなたほどじゃないよと、そう言われたような気がした。

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