深い深い水底へと、身体が沈んでいく感覚、急速に奪われていく体温。
何が起こったのかもわからないまま、迫りくる死神の影をがむしゃらに振り払う。
揺れる水面に映る月の光は遥かに遠く、彼女は冷たい水の底ですがるように手を伸ばした。
意識が凍りつきかけた瞬間、不意にその手が強く引かれる。
力強く温かな抱擁とは裏腹に、彼女の意識は暗く冷たい水底へと溶けていった。
「……おい返事をしろ、ソードミナス! 起きろ、目を覚ましてくれ、湊!」
夜空に昇る月が、日本最大級の川面にその光を映していた。
利根川河川敷に謎の飛行物体が墜落したのは、つい20分ほど前の出来事である。
「う、うーん……」
ソードミナスは背中に感じる感触が車のシートではなく、いつの間にか尖った砂利に変わっていることに気づいて目を覚ました。
彼女の目に飛び込んできたのは、今まさに自分の鼻先を引き裂かんとするノコギリのような無数の鋭利な刃であった。
「ひょえアアアアア!!!?」
慌てて顔を背けると、一瞬前まで顔のあったその場所で『ガチィン!』と鋭い音が響く。
よくよく見るとそれはサメ特有の牙であり、牙の持ち主は仰向けに寝かされたソードミナスの腹の上にぺたんとまたがっていた。
「さささ、サメっちィ!?」
「あるぇ? んもーなんで避けるッスか?」
「やめっ……たべっ、食べないでくれぇーーッ!!」
「食べないッスよぅ。これは“ジン・コンコン・キュー”ッス」
「ジンコン……なにそれ……?」
ふたりはしばし見つめ合い、お互いの頭上に大量のクエスチョンマークを浮かべた。
「“人工呼吸”ね。なんだよジン・コンコン・キューって、インドの妖怪じゃないんだから」
声の主はサメっちの両脇を掴んでひょいと持ち上げた。
黒ぶち眼鏡の奥から覗く感情の死んだ目に、濡れた前髪がかかる。
極悪怪人デスグリーンこと、栗山林太郎であった。
血の気が失せた林太郎の横顔を、明るい炎の光が照らす。
ソードミナスは一瞬また火事の現場に戻ってきたのかと思ったが、その火の規模は随分と小さい。
よくよく辺りを見渡すと、『キャンプ禁止』と書かれた看板のすぐ隣で30余名の半裸の男女が焚火を囲んで暖を取っていた。
川へキャンプに訪れた家族、というより雪山で凍死寸前の遭難者たちといった風体であった。
「まだ起きなくていいぞソードミナス、無理はするなよ」
「あ、ああ……」
山道をとんでもない速さで駆け抜けていたところまでは覚えているが、どうやらその後紆余曲折を経て川に落ちたらしい。
そこまで思い出したところでようやく、ソードミナスは自分の身体が上から下までずぶ濡れになっていることに気がついた。
「ズルいッス! サメっちもジンコンコンキューしたいッス!」
「ダメだよ、サメっちがやったら唇がズタズタになっちゃうだろう?」
唇ズタズタどころか顔面を抉り取る勢いだったように思う。
それよりもソードミナスは、サメっちの言葉にある違和感を覚えた。
「あの……サメっち“も”って……」
ソードミナスは自身の唇を指先でなぞりながら、おそるおそる林太郎の顔に目をやった。
人工呼吸といえば、つまるところマウストゥマウスである。
まさかという思いが脳裏をよぎり、林太郎と視線が合うや否や冷え切った身体とは裏腹に頬がカァーッと熱くなる。
「ももも、もしかして林太郎お前……」
「おお! ようやく目を覚ましたか、心配したぞソードミナス衛生兵長。他に救命措置が必要な者はいないようだな」
土手の雑草を踏みしめるブーツの足音が、涙目になりつつあるソードミナスの言葉をさえぎった。
見上げるとそこにいたのは、他のみんなと同じくウサミミの先からブーツのかかとまでぐっしょりと濡れそぼったウサニー大佐ちゃんであった。
車内での取り乱しようが嘘のように、ウサニー大佐ちゃんはしっかりとソードミナスの肩を抱く。
そしてソードミナスの全身をくまなくペタペタと触りながら反応を確認した。
「うむ、瞳孔は開いていない、意識もはっきりしている。む……脈拍が少し速いか? 呼吸も少し乱れているな」
「あの……ウサニー大佐ちゃん……?」
「ああすまない、救命措置後の確認だ。さっきまで心肺停止していたからな。いくら怪人の身体が丈夫だとはいえ、完全回復にはもう少し時間がかかるだろう」
「じゃ、じゃあ人工呼吸って……」
「ん? おこなったが、それがどうかしたか?」
ウサニー大佐ちゃんがきょとんとした顔で応えると、同時にソードミナスの全身からへなへなと緊張が抜けていった。
同時に、思い込みで変に舞い上がっていた自分が恥ずかしいやら居たたまれないやらで、ソードミナスはまだほんのり赤い頬を手で覆った。
「はぁぁぁぁ……そうか、そりゃそうだよな……。わわ、私はてっきり……」
「てっきり……? どうかしたのかソードミナス衛生兵長?」
「いや、何でもない。助けてくれてありがとう、ウサニー大佐ちゃん」
ソードミナスはウサニー大佐ちゃんに肩を借りながらお礼を述べた。
その言葉にウサニー大佐ちゃんは、なんだそんなことかと小さな笑みをこぼす。
「言っておくが、救命措置を施したのは私ではないぞ」
「……へっ?」
「礼ならば林太郎に言ってやれ」
一瞬にして氷の彫像のように固まったソードミナスが、全身をぷるぷると震わせる。
ソードミナスは言葉の意味を理解するや否や再び気を失い、バターナイフをまき散らしながら利根川の土手に倒れ伏した。
「おいどうした! しっかりしろソードミナス衛生兵長! 誰か、衛生兵! 衛生兵ーーーッ!!」
…………。
そんなことはいざ知らず、林太郎とサメっちは並んで焚火にあたっていた。
ふたりの身体は芯から冷え切っており、唇は青を通り越して紫色になりつつあった。
「さむさむさむ、さむいッスぅ、へくちっ!」
「ほら手だけじゃなくてお腹や太腿も温めるんだよ。しかし全員無事で何よりだ、お手柄だったなサメっち」
「えへへッス。けどアニキもすごい手際だったッスよ」
「まあね、昔取った杵柄ってやつだよ」
林太郎は照れ隠しのように、サメっちの濡れた頭をくしゃくしゃとなでた。
寒中水泳と救命措置はヒーロー学校時代の訓練で叩き込まれたものであったが、もちろん詳細を話すことなどできようはずもない。
だが訓練と実践はやはり勝手が違うもので、冷たく暗い川面に着衣のまま投げ出されたときはさすがの林太郎も死を覚悟したものだ。
それでも全員が生還できたのは、ひとえにサメっちの活躍によるところが大きい。
2月の利根川の水温は摂氏6度を下回っており、水棲生物怪人である彼女がいなければひとり残らず利根川水系の藻屑と化していたであろう。
そのサメっちが不安そうに口を開く。
「……キリカも無事ッスよね?」
林太郎はその名を聞いて目を細めた。
彼女は今、百獣軍団30余名と引き換えに囚われの身となっているはずだ。
「大丈夫だよ、アニキがまたすぐに助け出すから」
「アニキ……サメっちも頑張るッス……」
もちろん無事であるという保証などどこにもありはしない。
ヒーロー本部の“やり方”は林太郎が誰よりも熟知している。
ひょっとすると、筆舌に尽くしがたいほどの厳しい責め苦を受けているかもしれない。
相手の行方も知れぬ以上、こちらからは動きようがないというもどかしさと、ヒーロー本部に対する怒りがふつふつとこみ上げてくる。
しかし心配そうに目を伏せるサメっちに、ありのまま可能性を伝えるのははばかられた。
林太郎は苦々しく握りしめた拳を隠し、少しでも身体が温まるよう頼れる少女の小さな肩に腕を回す。
すると安心感から急に疲れが出たのか、サメっちは林太郎の腕の中でスヤスヤと寝息を立て始めた。
サメっちの寝顔を見て、林太郎は改めて思う。
林太郎がサメっちを大切な娘のように感じているのと同じく。
彼女もまた極悪軍団という組織を、大切な家族のように感じているのだと。
…………。
暗い部屋の真ん中に、ひとつの結晶体が置かれていた。
硬い表面には電極のコードが何本も接続されている。
「もっとですわ! もっといためつけるのですわ!」
「OKウタコ! そらッ! もっと電圧を上げてやるッ!」
「ウアアアアアアアアッ!!!」
ヒーロー本部の群馬支部、その地下室でうら若き乙女の嬌声が響き渡る。
いち早くアークドミニオンの前橋支部を脱した小諸戸歌子は、極悪怪人デスグリーンの情報を引き出すべく、部下ふたりと共に捕らえた怪人・黛桐華を拷問にかけていた。
「なんて強情なGIRLだ! だがこれならどうかな、電圧マックスだァ!」
「ウグゥゥゥゥゥゥゥゥゥ!!!」
部下のひとり、ウィルが赤いダイヤルをひねると電圧メーターが大きく振り切れる。
あまりの強烈な放電量に、結晶の全体が青白く輝いた。
対怪人用に調整された電撃拷問装置は、電圧量・電流量共に既存の電気椅子の約50倍もの出力を有している。
結晶体の内部には高圧電流が駆け巡り、内部に囚われた少女はたまらず身体を仰け反らせた。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛……ぎも゛ぢい゛い゛い゛い゛い゛……!」
「なんでぜんぜん効きませんの!? ナンデェ!? あれぇぇぇぇぇ!!??」
歌子が何度も装置のメーターを確認しても、値はマックスを振り切っている。
しかし桐華はまるでマッサージチェアにでも座っているかのように、リラックス全開の表情を浮かべていた。
「ちょっとウィルさん! これ壊れてるんじゃありませんの!?」
「そんなバカなことがあるか! チクショウ、動けってんだこのポンコツめえ!」
ウィルが装置をゴツンと殴ると、暴走した電流が地下室内に拡散し歌子たちを襲った。
「「「あばばばばばばばばばばばば!!!!!」」」
3人は真っ黒こげになり、口から煙を吐きながら倒れた。
別室でモニターしていたヒーロー本部職員たちが、慌てて救助に駆けつける。
「あばば……なん、でぇ……?」
「センパイの“特訓”に比べればこんなものただの虫刺されです。私を辱めたかったらセンパイを連れてきてください」
「その先輩……ほんとに人間ですの……? ぐふっ……」
電流だけではない、オーブンで焼こうが液体窒素をかけようが、桐華はまるで意に介さないのであった。
黛桐華の“特訓”で鍛え上げられた耐久性能は既存の怪人を遥かに上回っており、ヒーロー本部の計画は早くも頓挫しつつあった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!