広い敷地にところ狭しと並ぶアトラクション、遠くに見える観覧車。
そして目の前で次々と繰りひろげられるド派手なパフォーマンス。
ファントムマスクのマジシャンが、少年の目の前にカードをひろげる。
「さあ林太郎くん、好きなカードを一枚選ぶんだ」
目つきの悪いメガネの少年は、差し出された中からおそるおそる一枚のカードを選ぶ。
マジシャンは白い仮面の眉間に手のひらをあてがうと、パチンと指を鳴らした。
「むむむ、わかったぞ。林太郎くんが選んだカードは、スペードのエースに間違いない」
「わあ、すごいやSHIVA! なんでわかったの!?」
林太郎少年は目を輝かせながら、自分の手の中にあるカードとマジシャンを見比べる。
「それはね、ボクが最高位の魔術師だからさーーーっ!」
SHIVAがステッキをトンと鳴らすと、周囲のアトラクションが一斉に動き始める。
鳴り響く軽快な音楽、天から降り注ぐ無数のトランプ、飛び交う白いハト。
「わあああーーーッ!」
「林太郎くん、ボクの手を取って。さあ行こう、飛ぶよ!」
感激する少年の手をSHIVAが優しく握ると、身体が重力に逆らってふわりと浮かぶ。
まるでおとぎ話のように、ふたりは手を繋いだまま空へと舞い上がった。
「わあ、飛んでる! 飛んでるよSHIVA!」
「ふふっ、どうだい林太郎くん、楽しいかい?」
「うん! とっても楽しいよ!」
林太郎少年が満面の笑みを見せると、SHIVAも仮面の下でにっこりと微笑んだ。
「そうかい、それはよかった。歓喜に咽ぶ無垢なる魂は黒き闇に抱かれコキュートスへと至らん」
「……え? なに? いったいどうしたの?」
「傀儡は弦を引き、聖者を穿つ紅き矢を放たんとす。連理はわかたれ、銀の如雨露は新たなる悪の芽吹きを呪うであろう。神々は嘆き、人々は怯え、空は落ち海は枯れ、大地は黒く染まる。かの者に未来永劫の祝福と滅亡を祈らん」
「こ、怖いよSHIVA! いったいどうしちゃったの!?」
林太郎少年は怯えながらも、SHIVAの顔を覗き込む。
しかし、そこにいたのはSHIVAではなかった。
蝶を模したマスクの下で、毒々しい色の薄い唇が怪しい笑みを浮かべる。
「ひっ……うわああああああああッ!!!」
繋いでいた手が不意にはなされ、林太郎少年は高い空の上から真っ逆さまに落ちていく。
地上にひろがっていた手品の楽園は、紫色に染め上げられていた。
それらがドロドロと溶けて混ざり合い、巨大な化け物へと姿を変える。
大ばさみのような顎、巨大なふた振りの大鎌、蛇のようにのたうつサソリのような尻尾。
蟲毒の沼から顔を出したのは、醜悪を煮詰めたような化け物であった。
「黒キ祝宴ノ刻ハ来タレリ。ギシャアアアアアア!!!」
「たっ、助けてビクトレンジャーーーーーッ!!!」
…………。
「ッんハァッッッ!! ……はぁ……はっ……」
林太郎は息も絶え絶えに跳ね起きると、勢い余ってベッドから転がり落ちた。
後頭部をベッドの足にしたたかに打ちつけると、今度はその衝撃に悶絶する。
「っぁーーーぃ!!! ぁーーーーーぅ!!!」
ほとんど声として機能していないような、蚊の鳴くような細い悲鳴が部屋の隅で静かに響く。
ひと通り痛みが過ぎると、林太郎は絨毯の上で仰向けに手足を放り出した。
薄暗い部屋の中、ぼんやりと天井が見える。
もうすっかり見慣れた自分の部屋の天井だ。
「夢……なんか、すごく怖い夢を見たような……」
起き抜けにダメージを受けたせいか、夢の内容はすっぽりと記憶から抜け落ちていた。
ちなみに林太郎がマジックに興味を持ったのはヒーロー学校に入ってからなので、この夢の記憶は明らかな捏造である。
痛む頭を抱えながらゆっくりと身体を起こすと、林太郎は自分の身体に異常がないか手でまさぐった。
ぴちゃり、という水っぽい感触が指先に伝わる。
パンツも身体に巻かれた包帯も、汗でぐっしょりと濡れていた。
寝汗を自覚するのと同時に、全身を寒気が襲う。
しかしシーツもびっしょり濡れているため、ベッドに戻る気にもなれない。
「うぅ……さむさむ……へぶしぃッ!」
林太郎はぶるると身体を震わせると、部屋の中で唯一明かりが漏れている扉に目を向けた。
「……はやく、しゃ、シャワーを……」
扉を開くと脱衣所は温かい湯気で充たされていた。
風呂場に足を踏み入れると、湯船には既に少し熱めのお湯が張られているではないか。
「サメっちが気を利かせて入れておいてくれたのか? ……へ、へっぷし! いいや、さっさと汗を流さないと本当に風邪ひいちまう」
湿った包帯を解き、濡れたパンツを脱ぎ捨てて洗濯機に放り込む。
かけ湯もそこそこに、林太郎は何故か用意されていた登別温泉の入浴剤を湯舟に投入した。
すぐに湯舟は深い乳白色に染まる。
林太郎はつま先からゆっくりと、広い浴槽に身体を沈めた。
「ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……ぁぁ……」
冷え切った身体が、熱いお湯でほぐされていく。
地下に落下した際にできた打ち身に、骨がくっつきはじめた脇腹に、じんわりと血がいきわたる。
しかし一番しみるのは、心だ。
傷を負った心に、登別の湯がしみる。
「…………………………………………」
気づくと林太郎の頬には涙が伝っていた。
心の氷が溶けた水か、それとも心の傷が流した血か。
林太郎は涙がこれ以上流れないよう、静かに白い湯の中へと沈んでいった。
………………。
…………。
……。
「なあキリカ、なんでわざわざお風呂に入らなきゃいけないんだ!?」
「身体を清めるために決まっているでしょう。あがったら歯も磨くんですよ。わざわざコンビニで新しい歯ブラシも買ってきたんですから」
林太郎が乳白色の湯舟の下でクラゲのように漂っていたそのとき、脱衣所がやおら騒がしくなる。
しかし心に傷を負い、無と化した林太郎にその声は届かない。
「血を抜くのに私がいちいち歯を磨く必要があるのか?」
「当然です。常識ですよミナトさん」
「常識なのか!? ううむ、医大にいたころには習わなかったな……? 人間と怪人だと勝手が違うのかな……?」
「いいからさっさと脱いじゃってください。お先に失礼しますよ」
浴室の扉がガララッと開かれる。
その音がかすかに耳朶を打ち、林太郎は意識を取り戻した。
同時に呼吸という生命の基本動作を思い出す。
「あれっ? ミナトさん、もう入浴剤入れました?」
「ンプハアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!!!」
白い湯舟の底から、まるで怪獣のようにひとりの男が浮上した。
そして呆然とする桐華の眼前で仁王立つ。
「ハァ……ハァ……死ぬかと思った……」
「…………………………………………え?」
「……………………あ?」
林太郎は浴室を満たす湯気の中、目の周りの水気を手でぬぐい目を凝らす。
メガネがなくとも、はっきりと見える距離に彼女はいた。
さらりと流れる美しい白銀の髪、見開かれたスカイブルーの目。
なびやかなラインを描く肩から腰にかけてのライン、すらりと伸びた白く細い脚。
一糸さえもまとわぬその御姿は、信心深い者が目にすれば女神の降誕と見紛うであろう。
「……………………あれ?」
「~~~~~~~~~~ッ!」
状況をいち早く呑み込み、しずしずと湯船に戻ろうとする林太郎。
そしてこの場を穏便に済まそうとする林太郎とは裏腹に、まったく穏やかではない林太郎少年。
かたや積極的な攻勢に定評があるものの、イレギュラーに弱い黛桐華。
女同士水入らずと、完全に油断しきった顔がアッという間に耳まで真っ赤に染まる。
「…………その、今日はいい天気だな、黛」
「キャアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」
浴室のみならず、アークドミニオン地下秘密基地全体が震えた。
絹を裂く悲鳴に続き、鞭のような脚が空を切り裂く。
ヒュゴォッ!!!
咄嗟に繰り出された桐華の後ろ回し蹴りが、林太郎の顎を打ち抜いた。
コキョッという小気味良い音とともに、脳を高速でシェイクされた林太郎の身体から力が抜け落ちる。
まるで白いマットに倒れ伏すボクサーのように、林太郎と林太郎少年は登別の白い湯舟に沈んだ。
「どどどどど、どうしたキリカぁ! なっ……りりり、林太郎!?」
「ハッ……しまった! 私としたことがついうっかり転身脚を! センパイしっかりしてください、センパイ!」
10カウントを数えるレフェリーは、いなかった。
…………。
「…………ぅ……」
林太郎はベッドの上で目を覚ました。
薄暗い部屋の中、ぼんやりと天井が見える。
もうすっかり見慣れた自分の部屋の天井だ。
「夢……なんか、すごく良い夢を見たような……」
「おはようございますセンパイ、よく眠れましたか?」
大きなベッドの傍らでは、後輩が椅子に座って微笑んでいる。
しかしその笑顔はどこか、ぎこちないようにも思えた。
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