東京の地下には、秘密裏に整備された地下道網が存在する。
太平洋戦争の終結後まもなく、そんな噂がまことしやかにひろまった。
もっともそれは出どころもわからぬ噂話のたぐいである。
技術的な問題もさることながら、実際に使用された記録もなければ施工に携わったという人間も存在しない。
一行が入り込んだ“存在しないはずの空間”は、どこまでも暗く深く続いていた。
「さささ、寒いウィーーーッ!」
「ずいぶん降りたから当然だワン……。地下80メートル……地下鉄よりずっと深いワン……」
深度でいえばアークドミニオン地下秘密基地のほうがずっと深いのだが、封鎖された秘密の地下道にはとうぜん空調など存在しない。
剥き出しのコンクリートの床や壁からは、身を刺すような冷気がにじみ出している。
地上はもう梅雨にさしかかろうというのに、ここでは息が白くなるほどであった。
「はぁ……ッス」
サメっちは指をもみもみしながらネガドッグたちのあとを追う。
細い指先に何度も息を吹きかけているのは、寒いからではない。
留めようもない溜め息をごまかすためだ。
いまサメっちの頭の中では、いろいろな思いがぐるぐる回ってものぐさなイヤホンコードのようにこんがらがっていた。
「はぁぁぁ……ッスぅぅ」
サメっちは一心不乱に極悪軍団の、ひいては林太郎のために、足りない頭を使って役に立とうと手を尽くした。
だが結果はどうだろうか。
こうして多くの仲間たちを巻き込んで窮地を招いてしまったことは、まぎれもない事実だ。
サメっちは幾度もアニキに救援要請を出そうとした。
しかしそのたびに、申し訳ない気持ちと悲しい気持ちで満たされた小さな胸が痛み、小さな指先はどうしても助けを求めることができなかった。
泥水をいっぱいに詰めた水風船を割るように、自分の嫌なところがあふれ出てしまう。
そんな気がしたからだ。
「……止まるワン」
先導するネガドッグが、ぴたりと足を止めた。
柴犬じみた顔で鼻をひくつかせ、耳をぴくりと動かす。
「どうしたんですかウィ?」
「……うしろから、なにかが来るワン……」
ネガドッグの視線はいましがた自分たちが歩いてきた後方、闇の奥へと注がれていた。
ここは地下深く、コンクリートで固められた長い一本道である。
当然のことながら、逃げ場などありはしない。
『……ワァァァス……』
怪人たちの耳に、闇の奥から声が届く。
まるで獣の咆哮のようなそれに、一行はお互いの顔を見合わせて息を呑んだ。
加えてかすかではあるが、なにかがベタベタと地を這うような音も響いてくる。
自分たちが先ほどまでいた空間に、“おそろしいなにか”が追ってきているのは明白だ。
「これは……スパイスの香りだワン……」
次の瞬間、その場にいた全員の耳に、今度ははっきりとうなり声が聞こえた。
『……ゴワアァァァァス……』
声の出どころは、一行のすぐ後ろにまで迫っていた。
ネガドッグは、声のするほうに懐中電灯のあかりを向ける。
狭い通路から闇が払われ、コンクリートの床を伝っていく。
しかし頼りない光は、20メートルほど先で壁に遮られた。
照らし出されたのはゴミひとつ落ちていないただの袋小路である。
「……なにも、いないッス?」
「誰かのいたずらですかウィ?」
「まったく誰だオラウィ! こんな時にふざけるのはやめるオラウィ!」
サメっちやザコ戦闘員一同は、ほっと胸をなで下ろした。
ザコ戦闘員たちを束ねるバンチョルフは、壁をぺたぺたと触りながら首をひねる。
「しっかし、壁にしてはなんだか妙だオラウィ。なんだか温かいような……」
そんななか他の皆とは対照的に、ネガドッグは犬顔を恐怖に引きつらせながら口を開いた。
「……ちょっと待つワン、行き止まりのはずないワン……! だってボクたちは……ついさっきそこから歩いてきたんだワン……!」
響く足音まで冷たく感じられる地下道は、ふたり並んで歩くのがせいぜいという狭さの一本道だ。
途中で道を間違えるようなことが、あろうはずもない。
だとすれば怪人一行は、この“袋小路”から歩いてきたということになる。
壁抜けでもしない限り、そのようなことは起こりえない。
地図や記録に存在しない空間とはいえ、いままで歩いてきた道が突然なくなることなどありえないのだ。
『……ゴワアァァァァス……』
じょじょに顔から血の気を失っていく一行の目の前で、壁がうなった。
「あ、あわわわ、あわわわわオラウィ……!」
次の瞬間。
壁全体がまるで肉塊のようにもぞもぞとうごめいた。
かと思うと、壁の一部から短く太い“腕”のようなものが生えたではないか。
「マズいワン! すぐに壁から離れるワン!」
「オラウィーーーーーッ!!!???」
太い腕の先についた巨大な手のひらが、バンチョルフの身体をむんずと掴んだ。
「た、助けてくれオラウィーーーッ!!」
「ああッ! 総長がつかまったウィ!!」
「っしぁぬっんるるっさォンォウ!!」
他のザコ戦闘員たちがあわてて駆け寄る。
しかし手のひらは押せども引けどもびくともしなかった。
驚くべきことに、その指の一本一本はバンチョルフの腕よりも太い。
「ひぎゃあああ! 放せオラウィーッ!」
バンチョルフは必死になって太い指を殴りつける。
だがまるでそれに対して怒りを示すかのように、壁もとい肉塊がバンチョルフを掴んだまま大きく震えた。
『ゴワアアアアアアアアアアアス!!!!!』
肉塊の咆哮は、狭い地下道の冷たい空気を震わせた。
同時に太い腕が、メリメリと肉塊に沈んでいく。
「あああーッ! 死にたくないオラウィ! 死にたくないオラウィーーーッ!」
「「「総長ーーーーーーーッッッ!!!」」」
仲間たちの叫びもむなしく、バンチョルフの身体は肉塊と床の間に飲み込まれた。
それと入れ替わるかのように、肉を押し分けながら、肉塊の中央にマスクを被った顔が現れる。
『カアアアアアレエエエエエエエエ!!!!!』
怪人たちにとってもはや見慣れたその黄色いマスクは、まごうことなき正義戦隊ビクトレンジャーの一員・ビクトイエローのものであった。
巨大な壁がごとき肉塊は、ヒーロー本部によって追っ手として送り込まれたヒーローの、はちきれんばかりの筋肉だったのだ。
それは同僚・ビクトピンクこと桃島るるのカレードーピングにより、理性と引き換えに人間離れした肉体を得た、現役のエリートヒーローのなれの果てであった。
「で、出たあああああッスううううう!!」
「にっ、ににに、逃げるワアアアアン!!!」
『コオオオリアアアアンダアアアアアアアアッッッ!!!!』
一目散に逃げだした怪人たちの背後から、黄色い肉の壁が迫る。
ひとり、またひとりとザコ戦闘員が肉と通路の隙間に飲み込まれていく。
最初は二十人ほどいた戦闘員たちも、既に残り十人弱にまでその数を減らしていた。
「このままじゃ追いつかれるッスううう!」
「もう終わりだワン……! 儚い人生だったワン……!」
もはや怪人一行が壊滅するのも時間の問題であった。
生き残ったザコ戦闘員たちは、走りながらお互いに顔を見合わせ大きく頷く。
「ここは俺たちが食い止めますウィ」
「だめッス! これ以上ギセイを出したら、アニキに合わせる顔がないッス!!」
「ネガドッグさん。サメっちさんのこと、よろしくお願いしますウィ」
「……承知したワン」
足を止めかけたサメっちの小さな身体を、ネガドッグが抱えあげた。
「はなすッスぅ!」
闇の中へと吸い込まれるように離れていくサメっちたちの姿を、ザコ戦闘員たちは敬礼で見送った。
「デスグリーンさんに、俺たちは勇敢に役目を果たしたとお伝えくださいウィ」
「あとウサニー大佐ちゃんに俺は立派な雄だったって伝えておいてほしいウィ!」
「てめえこらウィ! 抜け駆けは許さないウィ!!!」
「っしぁぬっんるるっさォンォウ!!」
背後から、全てを飲み込まんとする勢いで肉の壁が迫る。
あれに圧し潰されようものなら、命の保証はない。
しかし彼らはザコ戦闘員とはいえ、怪人だ。
ひとりひとりが人間を遥かに凌ぐ肉体に、人より遥かに軽い命を乗せた怪人なのである。
「総員スクラム用意だウィ! 少しでも時間を稼ぐんだウィーーーッ!」
「「「ウィーーーッ!!」」」
お互いに肩を組み合うと、ザコ戦闘員たちは肉の壁へと突撃した。
………………。
…………。
……。
うなり声がほとんど聞こえなくなったところで、サメっちを抱えたネガドッグは足を緩める。
そこはそれまでの狭い地下道とは違い、天井の高いひらけた場所であった。
天井付近に大きな有圧扇が据えつけてあるところを見るに、換気用として設けられた空間なのだろう。
ネガドッグは足音を立てぬよう静かにしゃがみこむと、犬の耳と鼻をひくつかせた。
同時にようやく解放されたサメっちは、すぐさま引き返そうとする。
「助けに、助けにいかなきゃッス!」
「サメっち……待つワン」
ネガドッグはサメっちの腕を掴むと、その手に懐中電灯を握らせた。
「……ここを抜けたあとは、ひたすらまっすぐ進めば隠し金庫にたどり着くワン」
先の見えない真っ暗闇で、明かりを手放すことは死活問題だ。
その生命線を突然わたされたサメっちは、ネガドッグの意図をすぐには理解できなかった。
「……それと、今のうちにこれも渡しておくワン」
「これ……鍵ッスか……?」
獅子と爪痕の紋章。
それは百獣軍団の意匠がほどこされた、大きな鍵であった。
「隠し金庫はこの先だワン……2キロぐらいあるけど、がんばって走るワン……。中身の一部だけでもオジキにのもとに届けてほしいワン……。たのんだワン……」
「ネガドッグも一緒にいくッスよね? ね?」
「……そういうわけにもいかないワン……」
そのとき、まばゆい光がネガドッグとサメっちの顔を照らした。
工事現場などで用いる工業用のフラッシュライトを背に、ふたつの影が立ちはだかる。
「あらあらァ、察しがいいのね。そのままもう少し進んでたら一網打尽にできたのに」
「まあいいぜ。たったのふたりなら俺たちの相手じゃねえぜ。どうやら黄王丸は上手くやったみたいだぜ?」
「ええ、とってもお利口さんねえ。今日のカレーには有機農場で採れたじゃがいもをたくさん入れてあげなきゃ」
逆光に照らし出される、原色じみたカラフルな輪郭。
Vのエンブレムを輝かせたビクトピンクとビクトブルーであった。
かたやドピンクの法衣をスーツの上から身にまとい、もう片方はスーツというより青いロボットのような装甲に覆われてはいるが。
彼らはまぎれもなく、ヒーロー本部が誇る精鋭部隊・正義戦隊ビクトレンジャーの構成員である。
無論、商いを主戦場とするネガドッグと、子供相応の身体能力しか持ち合わせていないサメっちが敵うような相手ではない。
「サメっち、走るワン……。絶対に振り向いちゃいけないワン……」
「で、でもッス……!」
「……いいから走るんだワン……! サメっちにしかできないことをやるんだワン……!」
ネガドッグに強く背中を押され、サメっちは戸惑いながらも駆け出した。
当然それを見逃すようなビクトレンジャーではない。
「行かせるわけねえぜ!!」
背中のジェットエンジンから青い炎を噴き出し、ビクトブルーがサメっちの背に迫る。
だがブルーがサメっちのパーカーを掴もうとした瞬間、ガキンという鈍い音とともに、爪を模した大きなナイフがメカニックアームに突き立った。
同時に投げられたナイフが、ブーメランのように弧を描きフラッシュライトを破壊する。
広い地下空間は再び闇に閉ざされ、ブルーの装甲から漏れるジェットだけが周囲を照らした。
「……ちっ! 小癪だぜ!」
すんでのところでサメっちを取り逃がしたブルーは、すぐにナイフの“出どころ”と向き合う。
しかし視界は既に暗闇に覆われ、すぐにネガドッグの姿を捉えるには至らなかった。
「……勝てないなら勝てないなりの、戦い方というものがあるんだワン……。……しくしく……悔しいワン……口惜しいワン……」
走り去る子供の足音に重なって、闇の中からすすり泣く声がふたりのヒーローの耳に届いた。
おまたせ!!!
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