熱いシャワーを頭から浴びると、濡れた黒髪がぴたりと白い肌に吸い付いた。
お湯が顎先から胸元を伝い、おへそから長い脚を通ってピンク色のタイルへと滴り落ちる。
浴室は髪の毛一本落ちていないほど丁寧に掃除が行き届いており、壁面の銀ラックには高級そうなシャンプーがびっしりと並んでいる。
ウサニー大佐ちゃんにはどれでも好きに使っていいと言われていたが、いざ使うとなると少し躊躇われた。
一通り身体の埃を洗い落とすと、今度はなみなみと張られたお湯にゆっくりと身体を沈める。
長身のソードミナスでも脚を伸ばせるほど広いバスタブには、ジャグジーまでついていた。
「ふぁぁぁぁ……」
ほどよく熱い湯舟と優しいアロマの香りが、ソードミナスの肢体を包む。
同時に心の中のじくじくしたものが、湯船に溶けるシャボンのように解きほぐされていく。
暗くて寒い地下に比べれば、ここはまさに天国であった。
脱衣所には洗い立ての柔らかなタオルと新品の着替えが用意されており、何から何までいたれり尽くせりであった。
髪を乾かしながら鏡を覗き込むと、その涼し気な目元はまだ少しばかり腫れていた。
しかし先ほどまでの幽鬼のような顔に比べれば、幾分かマシになったと言えるだろう。
着替えを終えてひと息つくと、ソードミナスはおそるおそる脱衣所からリビングの様子を覗き見た。
高い天井と明るい室内は、ここが地下だということを忘れさせる。
この部屋はアークドミニオン地下秘密基地内における、ウサニー大佐ちゃんの私室であった。
林太郎の部屋もかなり広い方だが、ここはその比ではない。
暖炉にはちらちらと炎が揺れ、部屋の端にはトレーニング機材やグランドピアノまで置いてある。
(百獣軍団のナンバー2で教導軍団長ともなると、ここまで優遇されるのか……)
新人で下っ端のソードミナスからしてみると、まさに別世界であった。
「そんなところにいないで、火の前に来たらどうだ。身体を冷やすぞ」
ソファに座って何やら書類仕事をしていた部屋の主は、ソードミナスの方を一瞥することもなくウサミミだけをぴくぴく動かしてそう言った。
ソードミナスは改めて見る部屋の豪華さにおっかなびっくりしながらも、その言葉に従う。
大きなソファに身体を預けると、まるで雲にでも座っているかのように尻と背中がふんわりと沈み込んだ。
このソファだけでいったいいくらするのかと思うと、逆に居心地の悪さを覚えるほどだ。
「食えるなら少しは胃に入れておけ。空腹は闘争心を腐らせる」
部屋の主・ウサニー大佐ちゃんは書類から顔を上げることなく、淡々と傷心のソードミナスに食事を勧める。
目の前のテーブルにはマグカップが入った温かいココアと、野菜がたっぷり挟まったサンドイッチが用意されていた。
ウサニー大佐ちゃん自身はまるでそんなそぶりを見せないが、ココアのカップからはまだ湯気が立ち昇っていた。
おそらくはソードミナスが浴室から出る頃合いを見計らって用意されたものだろう。
ソードミナスがそれらを口に入れると、またしても目から涙がぽろぽろと流れ出す。
それは哀しみの雨ではなく、礼を尽くした優しさによって溶かされた心の氷であった。
「ウサニー大佐ちゃん……あ゛り゛がどう゛……」
ぼろぼろ泣きながらサンドイッチを頬張るソードミナスに、ウサニー大佐ちゃんは一瞬だけその赤い片目を向けると、『構わん』と短く一言だけ呟いた。
ウサニー大佐ちゃんは手を止めることなく書類の山を整理していた。
それら一枚一枚には、彼女自身が手塩にかけて育て上げたザコ戦闘員のプロフィールから、得意分野や弱点までが詳細に記載されている。
「これは……?」
「ひよっこどもの“巣立ち”だ。まったく最後まで手のかかる連中だよ」
彼女はそう言って慣れた手つきで訓練の修了を示すサインをしたためると、それらを各軍団への推薦状と共にファイルへと挟み込んでいく。
ソードミナスには、ザコ戦闘員たちがあれほどボコボコにされながらも彼女を慕う理由がわかった気がした。
ひとしきり作業にキリがついたところで、ウサニー大佐ちゃんは大きく息を吐き出すとソードミナスに向き合う。
「待たせてすまない。……それで、少しは落ち着いたか?」
「うん……」
「では改めて聞かせてもらおうか。貴官は何故あんな場所にいた」
「それは……」
一瞬口ごもったソードミナスであったが、ウサニー大佐ちゃんは咎めるでもなくただ黙ってソードミナスの言葉を待った。
ソードミナスの唇から少しずつ言葉が紡がれる。
多忙の身であるはずのウサニー大佐ちゃんは、一言も口を挟むことなく真剣に聞き入っていた。
そうして30分ほど経ったころ、ソードミナスはようやくすべてを話し終えた。
ひとしきり流れ切ったと思っていた涙が、いったいどこに隠れていたんだというほどあふれた。
「なるほど……それでデスグリーン伍長の役に立ちたいと。そう思い立った矢先に、ショッキングなものを目にして心が折れたわけか」
「うぅ……私には無理だ、あのふたりの間に入り込むなんて……」
「ふむ。以前にも警告したが、やはり貴官は優しすぎるな。他人を傷つけることを恐れるあまり、己の心に刃を向けてしまう」
ウサニー大佐ちゃんの言葉に、ソードミナスは黙りこくった。
己の本心について、今さら取りつくろうことなどできはしない。
彼女の望みはただひとつ、林太郎の役に立つ……否、彼の隣に立つことだ。
林太郎の足を引っ張ることを恐れたのも、極悪軍団に見合うだけの強さを求めたのも、すべては自分の欲求を誤魔化すための言い訳にすぎない。
ソードミナスを突き動かしていたのは、林太郎という男を独占したいという気持ちだ。
小さな芽でしかなかった欲望はいつしか、彼女の心の真ん中に大きな木となり根づいてしまっていた。
だからこそ純粋に彼を慕うサメっちと林太郎の関係に、これほど心をかき乱されたのだ。
己の欲望はけして純粋なものではなく、よこしまで醜い横恋慕であったと。
「私は強くなんてなってなかった……薄っぺらい強さに逃げ場所を求めただけだったんだ……」
優しさは美徳だとウサニー大佐ちゃんは言った、同時に毒でもあると。
ふたりの関係を壊したくないという残酷なまでの優しさは、毒の塗られた短刀であった。
行き場のない刃は己の心臓を貫き、ソードミナスの弱い心がそれに耐えられなかった、それだけの話だ。
「……やっぱり私は、最弱の怪人なんだ……」
「だろうな。私の目から見ても、貴官は前線に向いていない」
「うっっ……!」
ウジウジめそめそと下を向くソードミナスに、ウサニー大佐ちゃんは元も子もないことを言い放つ。
一転して突き放され、ソードミナスの目に再びぶわっと涙が溜まる。
ウサニー大佐ちゃんは立ち上がると、そんなソードミナスをの涙をそっとぬぐった。
そして――。
「貴官に見せたいものがある」
そう言うとウサニー大佐ちゃんは、壁一面を埋め尽くすファイルの山からひとつを取り出した。
ファイルに挟まれていた一枚の写真を、ソードミナスの前に差し出す。
「これは……」
「それが私の知る限り“最弱の怪人”だ」
写真にはひとりの、怪人の少女が写っていた。
ハの字に傾いた眉毛と、丸まった背中、人の顔を窺っては怯えているような表情。
この一枚でも相当な小心者だと見て取れるほど、見るからに弱そうな怪人であった。
「そいつの名は“ウサニー”という」
ソードミナスは驚いて写真の少女と、目の前の軍服女子を見比べた。
面と向かって同一人物であると言われなければ、一生気づかなかっただろう。
「……うさっ、ウサニー!? ぜんぜん違うじゃないか!」
「大佐とちゃんを忘れるなこのマヌケ!」
「はいっ、ウサニー大佐ちゃん!」
ビクッと肩を震わせながらも、ソードミナスの目は彼女に釘付けであった。
確かに面影はあるが、立ち居振る舞いや顔つきなどはまるで似ても似つかない。
目の前で恫喝を行う少女は、今やまぎれもなくアークドミニオン内でも1、2を争うほどの実力者だ。
この写真の見るからに弱そうな少女が、いったいどんな経験をすれば関東最大の怪人組織でトップクラスの大怪人になれるというのか。
呆気にとられるソードミナスに、ウサニー大佐ちゃんは語りかける。
「別に隠すようなことでもない、古参の連中はみんな知っている。……しかしこうして見ると……ふふっ、今の貴官と瓜ふたつだな」
ウサニー大佐ちゃんは、懐かしそうにその写真を眺める。
写真の中には、最弱怪人ウサニーの頭をがっしりと掴む大きな手があった。
それは今とあまりかわらない、百獣将軍ベアリオンの姿だった。
今にも泣きだしそうなウサニー少女とは対照的に、ベアリオンは白い牙を見せてニカッと笑っている。
ベアリオンだけではない。
彼女たちの周囲を多種多様な獣系怪人が取り囲んでおり、みんな思い思いにひょうきんなポーズを取っていた。
「ソードミナス衛生兵長、貴官には素質がある。強さを得るための才能というやつがな……というのは私の勘だが」
優しく微笑むウサニー大佐ちゃんを見て、ソードミナスは思う。
ウサニー大佐ちゃんの笑顔は、愛すべき家族とベアリオン将軍に向けられているのだと。
なによりこの一枚の写真が、彼女が伝えたいことの全て物語っている。
彼女はけして、優しさを捨て去って強くなったのではないと。
ソードミナスは己の胸に手を当てると、勇気を振り絞って声を発した。
「ウサニー、大佐ちゃん……私は……」
ビービービービー!!
そのとき、けたたましい電子音がソードミナスの言葉を遮った。
ウサニー大佐ちゃんは『すまない』と一言発して懐から無線端末を取り出す。
液晶画面には“百獣軍団前橋支部”の文字が躍っていた。
「私だ。……わかった、すぐに向かう」
短い応答の後、彼女はすぐに軍帽をかぶり直し、愛用の鞭を腰にさした。
テキパキと手を動かしながら、背を向けたままソードミナスに話しかける。
「やれやれ、また出動命令だ。この続きはまた日を改めるしかなさそうだな」
「まっ、待ってくれ、ウサニー大佐ちゃん!」
震えながら立ち上がったソードミナスに、ウサニー大佐ちゃんは眼帯を結び直しながら赤い片目を向ける。
交わった視線の先に、かつての自分の面影が宿っていた。
「……私も行く」
「ほう? その目は好きだぞ、貴官」
もはや涙は乾いていた。
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