薄暗い部屋は薬液の臭いで充たされていた。
壁一面を埋める薬品の瓶が、スタンドライトの明かりで怪しく輝く。
机に向かうのは、人一倍高い背丈に白衣をまとったひとりの女だ。
彼女は誰かが突然入ってきたりはしないだろうかと、何度も何度も扉のほうを振り向く。
そのたびにうなじで束ねられた黒く長い髪が揺れ、ファイルをめくる手が止まる。
彼女が手にする赤いファイルは、それほどまでに取り扱いには細心の注意を払わねばならないものであった。
『極悪怪人デスグリーンと栗山林太郎の関係性についての調査報告書』
剣持湊がこの書類を手にしたのは、つい数日前の出来事である。
ヒーローたちの総本山である神保町ヒーロー本部。
これはそこの長官室の大金庫から、林太郎たちによって強奪された資料のひとつだ。
怪人盗賊団をヘリで回収したあと、サメっちは秘密基地にたどりつくまでずっとファイルを口にくわえたままであった。
「サメっちお疲れさま。もうくわえてなくてもいいんだぞ」
「むへはふはっひゃっはッフ」
サメっちの鋭い牙はファイルの表紙にザックリと突き刺さっており、湊は引っこ抜くのを手伝う羽目になった。
深く食い込んだ牙そのものを傷つけないよう、医務室にある医療器具を片っ端から用いたほどだ。
「ふががもッフ……プハーッ!」
「や、やっとはずれた……歯が抜けなくて本当によかったよ」
「ありがとッスぅミナトぉ……あごがぁ、あごが痛いッスぅ……」
「咬筋の伸ばしすぎだな。念のため冷やしておこう」
湊はサメっちの頬に氷嚢をあてがい、手際よく包帯で固定する。
処置を終えた湊が、件の赤いファイルを手に取ったのは必然であった。
凶悪な歯型がついたよだれまみれのファイルを、なんの気なしにパラパラとめくる。
地元商店街のヒーローイベント案内。
おいしいヒーロー食堂カレーのレシピ。
新ヒーローチームの名称を考える会議の議事録など。
はっきり言ってしまえば、どれもこれもどうでもいい情報ばかりだ。
「……ん? これは……?」
資料の中でただひとつ、湊の目を引く見出しがあった。
報告者の欄に記された名は、参謀本部長・小諸戸歌子。
名前こそ存じ上げないが、そのいかつい肩書きを無視することはできない。
報告書には彼女が極悪怪人デスグリーンとの戦闘を介して得た情報をもとに、推測を交えた所感がつづられていた。
冒頭の一文はこうである。
「……極悪怪人デスグリーンは、怪人では……ない……?」
そこに記されていたのは、自身が最も信頼を置く“怪人”の名だ。
報告書には彼の存在そのものを否定する内容がつづられていた。
しかしなぜだろう、医師として林太郎の身体を診察し続けてきた湊は妙に納得してしまったのだ。
ぼんやりと靄がかかっていたところに、風が吹き抜けて急に視界が晴れたような、そんな感覚である。
心のどこかに隠れていた小さな疑惑が、少しずつ頭をもたげる。
「……いや、でもまだ本人にそう聞いたわけじゃないし……」
「なにが書いてあったッスか?」
「うひょおうッ!」
背後からひょっこりと覗き込んだサメっちに驚き、湊は思わずファイルを取り落とした。
あわてて拾いなおす湊に、サメっちは頬を冷やしながら笑顔を向ける。
「あ、わかったッス! ずばりヒーローのジューダイな秘密が隠されていたに違いないッス! むふふん、サメっちお手柄ッスね」
重大な秘密には違いないが、果たしてサメっちに見せていいものだろうか。
湊はサメっちに迫られ、顔に大量の冷や汗を浮かべながら苦しまぎれに答えた。
「そそそそそ、そんなことないぞ! むしろその……これは見なくて正解だ! この情報はアレだ……サメ型怪人が見たらボーンってなるアレだ!!」
「はうあッス!? サメっちが見たらボーンってなっちゃうッスか!?」
「ああそうだ! こう……なんやかんやあって最終的にはお尻が爆発する……!!」
お手柄に目を輝かせていたサメっちの顔が、みるみるうちに青くなる。
「それは困るッスぅ……!」
「だろう!? だからこれは、わたっ、私が責任をもって処分しておく! 他の怪人たちにも、くれぐれも言っちゃダメだぞ!」
湊の言葉を信じたサメっちは、青い顔のまま首をぶんぶんと縦に振る。
そして小さなお尻をおさえながら医務室を出ていった。
あとに残されたのは、湊とファイル……そして心の中で大きくなりつつある澱んだ黒い好奇心だけであった。
…………。
いま湊の目の前には、極悪怪人デスグリーン……栗山林太郎の血液サンプルがある。
これを検査薬に一滴垂らす、ただそれだけで疑念は解消されるのだ。
――あるいは確信へと変わる。
「はあ……はあ……ッ!」
――が、できない。
スポイトで血液を吸い上げて、ただ一滴垂らすだけだというのに。
湊の手はまるで凍りついてしまったかのように、びくともしない。
どんな結果であれ、林太郎の口から真実が語られるのを待つべきなのだろう。
自らの手で“その時”を早めることに、なんの意味があろうか。
いま湊にできることは、どんな結果が待っているにせよ林太郎を信じることではないのか。
「林太郎、やっぱり……私には……」
恐怖であった。
もし“望まぬ結果”が示されてしまったら。
それは林太郎が自分に真実を隠していたということを意味する。
自分だけ蚊帳の外に置かれていたという事実を、受け止めざるを得ないということだ。
このままなにも知らないふりをして、今まで通り極悪軍団の一員として接することが湊自身とって最も幸せな結末なのだろう。
かりそめの幸せを受け入れるか、それとも真実を受け入れるか。
きっと臆病な自分はどちらも選べないだろう。
そう思うと湊の目からは自然と涙があふれてきた。
頭の中によぎるのは、温かい唇の感触だけだ。
「よし、やめよう! だいたいこんなことして何になるっていうんだ」
「ミナトぉ!」
「ヒッギャアアアアアア!!!?」
いきなり背後から声をかけられた湊は椅子から飛び上がる。
心臓が飛び出すかと思ったが、飛び出したのはマチェットであった。
鋭利な刃はガラスのスポイトをバターのように切り裂き、中身を検査薬の試験管にぶちまける。
「ほぎゃあああ!!! はいっちゃったああああ!!!」
「はわッス! ごめんッスぅ!」
湊が涙目で振り返ると、丸い大きな目がこちらを見つめていた。
「さささささ、サメっち、いつからそこに!?」
「サメっちなんども声かけたッスよぅ、ぜんぜん聞こえてなかったッスか?」
「あれっ?! そそそ、そうだったのか? すまない、ははっ……集中してたから……へへほはっ。ところで何か用か?」
ぎこちない笑顔で誤魔化しながら、湊は手にした試験管を後ろ手に隠した。
そして林太郎の秘密を探ろうとしていたことを悟られまいと、必死に話題をそらす。
サメっちはきょとんと間の抜けた顔をしていたが、すぐに本題を思い出したのかポンと手を打った。
「そうそうそれッス! ミナト、いますごく欲しいものとかないッスか?」
「……欲しい……もの……?」
「アニキがミナトに聞いてこいって……あっ! これ言っちゃいけなかったやつッス! 忘れてほしいッスぅ」
「林太郎が……? 私に……?」
湊の顔に、だららららと冷や汗が流れ落ちる。
よりにもよってこのタイミングで、林太郎から『なにか要求はないか』という買収の申し出である。
(秘密を探っていることがバレた……!? いつ……!? どこから……!?)
経緯はわからないが、林太郎は湊の口を封じるための手を打ってきた。
状況的に見ても、湊にはもはやそうとしか考えられない。
「はわ……はわわ……」
「エンリョなく正直に教えてほしいッス……いま欲しいものを……」
大きなふたつの目が、湊の目をぎょろりと見つめる。
思わず目を逸らした湊の視界には、検査薬の入った試験管が握られていた。
それは彼女にとって“望まぬ結果”を示していた。
いつも感想&評価ありがとうございます!
ついに第七章、ストックが切れかかって参りました!
第七章は18時の毎日更新に切り替えて参ります!
ストックがなくなったら定期更新にシフトしていきますが、まだまだ続くのでお楽しみに!!
読み終わったら、ポイントを付けましょう!