人間の反射神経の限界は、0.1秒だと言われている。
ならば0.1秒先の未来が視えれば、理論上は全ての攻撃を回避することが可能だ。
無論それは机上の空論であり、人間がその領域に達することは不可能である。
なぜならば人の目はたとえわずか0.1秒であったとしても、未来を見通すことなどできないからだ。
もしも未来が視えたなら、それは神の奇跡か。
あるいは悪魔の所業である。
…………。
見えない斬撃のトリックを見破った林太郎は、ワイヤーを掴んだまま“綱引き”の要領でたぐり寄せる。
いくらエース級のヒーローとはいえ、生身の朝霞とデスグリーンスーツをまとった林太郎では出せる力の差は明白だ。
「くッ!」
朝霞は引っぱられるように体勢を崩してつんのめる。
こうなってしまえば、もう回避もくそもない。
「これでも避けられるもんなら避けてみやがれってんだ!!」
林太郎はすかさず剣を構えると乾坤一擲、反撃の刃を放った。
もはやこの一撃にて、決着はついたかと思われた。
だが黒い剣が朝霞の急所を斬り裂く直前。
「調子に乗るなよ、下衆が」
朝霞は倒れかけた姿勢のまま床を殴りつけ、無理やり己の身体を跳ね上げた。
刃は朝霞の脇腹の数センチ手前をかすめ、司令官用の白いコートの裾を引きちぎるにとどまる。
見て、避けた、あの体勢から。
その驚愕が、林太郎の判断をほんの一瞬鈍らせる。
互いに体を崩した中で、朝霞はわずかな隙を見逃さず先手を取った。
「遅え!」
ドスのきいた声と共に、ブーツの底が林太郎の腹に突き刺さった。
体重を乗せた前蹴り、いわゆるケンカキックというやつだ。
「うげっふァ……!」
芯を外したとはいえ内臓を狙った一撃である。
身体を『くの字』に折った林太郎の目に、朝霞の背中が映る。
やばい、と感じるや否や、林太郎もすぐさま体を跳ね起こし体勢を整える。
が、しかし。
「そこッ!!」
直後、真横から放たれたブーツの一閃が林太郎の側頭部を襲った。
「んぎっ!!!」
脳みそを直接蹴り飛ばされたような衝撃に、視界が暗転する。
手にした“黒い剣”が、モニタールームの床をからんからんと転がった。
ローリングソバットと呼ばれる、初代タイガーマスクが得意とした高速後ろ回し蹴りであった。
敵に隙を見せることからあまり実戦向きではないが、その威力は建設重機の一撃に匹敵する。
アウトファイトを徹底していた鮫島朝霞が、まさかこれほどの体術を隠し持っていようとは。
いやそれ以上に驚愕すべきは、朝霞の先読みの鋭さである。
(回避したのに、直撃を食らった……!? んな馬鹿な……!?)
朝霞は林太郎が体を起こしたその先。
回避動作後の頭の位置を、的確に蹴り抜いていた。
それも視界に制限がかかる、後ろ回し蹴りでだ。
つまりこれは林太郎が避けることのみならず、避ける位置までを完璧に想定して放たれた大技なのである。
万が一にも読み違えれば、自身に大きな隙を生み、逆に窮地を招きかねないにもかかわらずだ。
一瞬意識が飛びかけた林太郎であったが、なんとか膝をついて踏みとどまる。
だが脳震盪のダメージは深刻だ。
回って定まらない視界の中、朝霞がつかつかと歩み寄る。
「いまので首を落とすつもりだったのですが」
しゅるるるる、と。
まるで何事もなかったかのように、朝霞は林太郎の手からはなれたワイヤーを腕時計型のガジェットに収納した。
「素手喧嘩もできるなら、先にそう言っておいてほしかったぜ……」
「楽な手段を取ったまでです」
林太郎の誤算はただひとつ。
朝霞の武器が“見えない斬撃”と“回避”のふたつだと見誤ったことだ。
だがしかしそれらはあくまでも結果に過ぎない。
彼女の本当の武器は、それら異次元レベルの戦いを可能にする下地にこそあった。
すなわち、人間離れした“反射神経”である。
驚異的な動体視力と、思考を介さないほど突き詰められた瞬間的な判断力は、もはや未来予知の域に達していた。
「なるほど……、あんたの武器はその目ってわけだ……」
ようやく定まりつつある林太郎の視界の中。
薄暗い部屋に浮かぶ人魂のように、朝霞の両目が煌々と青い光を放っているのが見えた。
明らかに人間の放つ光ではない。
林太郎はいまの朝霞によく似た者を知っていた。
ビクトブラック、黛桐華。
林太郎の後輩にして、人の身でありながら怪人の能力を得るべく実験体となった少女だ。
すなわちシルバーゼロ、鮫島朝霞もまた、人外の力をその身に宿す戦士なのであった。
「それで、立てそうですか下衆野郎?」
「わかってて聞くんじゃねえよ。なあ引き分けってことにしない?」
「おまえの冗談に付き合う気はありません。私の村計画を台無しにした報いは受けていただきます」
そう言って朝霞はコートの裾から銃を取り出した。
冷たい銃口が、林太郎の頭に突き付けられる。
「この距離であれば、怪人の装甲だろうがヒーロースーツだろうが貫く特別製です」
「まぁた似合わないもの出しちゃって」
「大人しく従ってくれていたら、命までは取らずに済んだものを」
最後の生命線である“黒い剣”を取り落とした時点で、林太郎の運命は決まったも同然であった。
冷たく光る目で林太郎を見下ろす朝霞が、銃の引き金に力をこめる。
今まさに銃弾が放たれようとした、その瞬間。
「アニキ今のうちに逃げるッスぅ!」
小さな青い影が、朝霞の脚にまとわりついた。
戦闘に巻き込まれないよう隠れていたサメっちは、林太郎のピンチに居ても立ってもいられず飛び出したのであった。
「邪魔をしないでください。これは人間と怪人の未来のために必要なことです」
「ダメッスゥゥゥーーーッ!! むぎぎぃぃぃぃぃぃーーーッス!!!」
もとより朝霞はサメっちを障害とすら認識していなかった。
だが子供とはいえ、体重をかけて脚をぐいぐい引っ張られては照準が定まらない。
「はなしなさい冴夜。このクズはあなたが庇うような男ではありません」
「やッス! 絶対はなさないッス!」
朝霞はなんとかサメっちを振りほどこうとする。
しかしサメっちは動物園のコアラのように、両手でしっかりとしがみついて離れない。
「お姉ちゃんのアホーーーッ!」
「あなたはマインドコントロールされているんです」
「やだやだやだッスぅ! アニキをいじめるなッスゥゥゥ!!」
「いい加減にしなさい、このっ!!」
いらだった朝霞は、まるでサッカーのように脚を強く振り抜く。
はずみでぽーんと放り出されたサメっちは、林太郎の胸元に頭から突っ込んだ。
「ふぎゃス!」
「ぐえっ!!」
ふたりもつれ合うように倒れこむ怪人たちに、朝霞は再び銃口を向ける。
サメっちは林太郎を、林太郎はサメっちを。
お互いを庇いあう姿はまるで本物の兄妹である。
「おいおいお姉ちゃんよ。あんた妹に銃向けるなんてみっともないぞ」
「うるさい黙れ! おまえが全部悪いんです!」
そう、悪いのはこの男だ。
栗山林太郎の存在が、姉妹の関係に決定的な亀裂を生じさせたのだ。
どうして私の理想を邪魔するんだ。
人と怪人の融和を目指すことがそれほどいけないことなのか。
朝霞は自分にそう言い聞かせる。
「その男から離れなさい、冴夜」
「やあッス!」
妹はなぜこんな下劣な男を兄と呼び慕い、庇うのか。
いったい私とこの男の、なにがそんなに違うというのか。
どうしてなにもかも上手くいかないのか。
それはこの男が私に意地悪をするからだ。
極悪怪人デスグリーンがいけないんだ。
お前さえいなければ。
朝霞は改めて林太郎の頭に照準を合わせると、トリガーにかけた指に力を入れた。
「……………………?」
力を込めて引き金を絞った朝霞であったが。
弾はいっこうに発射されなかった。
細工をされるような隙は与えていないはずだ。
銃におかしなところはない。
おかしいのは、指だ。
「効いてきたみてえだな」
「…………おまえ!」
極悪怪人デスグリーン、憎むべき宿敵がほくそ笑むように呟く。
まだ脳へのダメージは残っているはずであった。
だが林太郎の声は、あの下卑たいやらしさを完全にを取り戻していた。
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