その藍色の瞳にはなんの嘘偽りも感じられない。
「途中で俺が道を間違えたり脇道に入ったりはしなかったか?」
ローテは質問を変えた。バッハは少し首をかしげた。
「いえ、きた通りの道をそのまま戻られました」
「そうか」
それっきり会話は止まった。バッハも自分の主人が聞いたことにだけ答え、なおかつそれで必要にして十分であると判断して口を閉じた。
「ご主人様、お下げしましょうか?」
「そうしてくれ」
「かしこまりました」
バッハが空の食器を下げて洗い場に持っていく姿をローテはじっと見守った。いうまでもなく壁伝いに歩いたり天井から逆だちしてわめき散らしたりするようなことは全くない。
つまり昨夜の出来事は夢だったのだろう。戦に疲れて馬に乗る内にうつらうつらして突拍子もない夢を見た。それだけのことだ。
そう結論づけて席をたち、馬を出して少し遠乗りするがついてこなくてよいとバッハにいい渡した。その間屋敷の留守はバッハが預かる。
どのみち彼は家の掃除をしたり商売人から連絡がきたらそれに応じたりしなければならない。従って簡単には家を離れられない。
家を出て自ら馬を引き、出発した。どこにいこうという当てがあるのでもない 。人混みはあまり得意ではないし当分森にはいきたくない。
そんなことをぼんやりと考えながら馬を進める内に、思い出したくはないが印象に残ってしまった花が見えた。
今まで気にも留めなかった古代ローマの廃墟に生えていて、廃墟の土台の根元からなん株かがあの小さな赤紫色の花をつけている。
それを考えると、家から少し離れた場所に廃墟があったこと自体知らなかった。用もないのに近づくところでもないし、考えてみれば馬の調教はまさに昨夜夢に見た森へいくことですませていた。
自分の家の近所について、自分で思っているほどには知っているものではないと気づかされた。ともかくあんな夢に関わっているような花は近づかないに限る。
等と考える一方で、それで遠ざかってしまうようなら謎解きの手助けを……それがどれほどか細いものであれ……臆病にかられて遠ざけてしまうようでもあり、矛盾した考えにつきまとわれた。
そんな時に、廃墟の奥から一人の男性が現れたので思わず反射的に手綱を引くところだった。どうにかそれを我慢し終えると男性の方もこちらに気づき丁寧にお辞儀した。さすがに無視はできず馬上のまま返礼した。
男性は粗末な羊毛の衣を身につけていた。隠者か。いや、遍歴の放浪僧かもしれない。そうした人物はあまりにも孤独にさらされ続けた結果、少々人格がきしんでいることもあった。
礼も交わしたことだし回れ右してもなんの問題もない。だが、彼はローテを手招きした。迷いつつも手招きに応じることに決めた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!