旧式のノートパソコンを操作しながら、赤野はしかめた顔がますますしかめられていくのを意識した。ところどころ錆の浮いた机がかすかにきしみ、椅子の背もたれが耳障りにキーキー唸る。
窓は六月の雨に濡れていた。窓越しに見える『赤野賃貸ビル』と白地にゴシック体で描かれた看板も、ひっきりなしに雨水を滴らせている。
良く観察すると、看板と建物の外壁の間に鳥が巣を作っているのも分かる。本来なら糞害もあるし撤去した方が良い。実のところ、オーナーが処理を面倒がって放置していた。
雨音を聞きながら赤野が見詰めるノートパソコンの画面には『入居者家賃入金状況』と題名のついた表が現れていた。大半の入居者は毎月契約通りの家賃を払っている。
一人だけ、滞納常習犯がいた。馬場汎都。美大生。去年からこのビルの一室を借りている。二十歳を回っているからぼつぼつ就活せねばならない時分だろう。
本人からすれば、住居兼アトリエのようだ。どうやって学生がそんな資金を工面しているのかは勝手として、毎月の振り込み日に入金があったのは最初の数ヶ月くらいで終わった。
これまでの滞納最高記録は三ヶ月で、去年の話だった。裁判所の手続きを通して強制退去させると宣言してやっと払わせた。
今年はこれが滞納二ヶ月目にさしかかる。今年としては初の滞納ながら、去年の段階で次はないと既に宣言していた。赤野としてもいよいよ決断が迫られた。
画面には表のみならず自分自身の顔もぼんやりと写っている。馬場より多少歳を取ったくらいで、まだまだ若いつもりだ。
その癖、くたびれたネクタイと無駄にがっちりした肩幅が我ながら野暮ったい。
画面にはもう一つ、自分の背後にある壁も写っている。どうにかひび割れが入らないくらいに古い、むき出しの白いコンクリート。
赤野に言わせれば、気づいたら自分の人生は云々だったと自覚するようになったらおしまいだ。
気づいたら、赤野は不動産業を営んでいた。もっとも、本格的なものでは一切ない。
三人兄弟の末っ子、即ち灰津としてほどほどに裕福な資産家に生まれた結果、なんとなく大学を卒業してなんとなく親のあてがったこの古ぼけた鉄筋ビルのオーナーになっていた。
それこそ就活して当たり前に就職するのが妥当ではあった。少なくとも同期生はそう考えていた。ごく少数ながら、中には野心を胸に外国に渡る者もいた。
赤野はどの方向にも情熱を感じられず、世間体を気にした両親が形ばかりの肩書き……『赤野賃貸ビルオーナー』……を投げ渡した次第である。つまり赤野はオーナー兼社長兼重役兼中間管理職兼平社員兼アルバイトであった。
それが、あるグループの人々からすれば途方もない贅沢な幸運なのは十分知っている。いや、誰よりも知り尽くしている。
なにかに力を尽くそうとすると、頭の中に薄いもやがかかってしまうのだ。まるで、一生懸命働いた人間が実は毒殺されていたのに気づかなかった徒労感のような。
さておき、滞納者の放置は許されない。椅子から立ち、ドアの脇にあるむき出しのハンガーラックから上着を引っ張り出した。それを身につけてからドアを開け、廊下に踏み込んでから鍵をかける。
ビルは五階建てで、エレベーターがついている。馬場の部屋は三階だ。ボタンを押して箱が降りてくるのを待った。
エレベーターの扉が開き、中に入った直後に二人目の利用者が顔を見せた。
若い女性で、髪をブルネットに染めて高く結っている。
モデル並みのスタイルをしているにも係わらず、洗いざらしのジーパンにくたびれたリンネルシャツという、地味を通り越してだらしない着合わせの衣服だった。
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