「赤野さん。赤野さん! しっかりしなさい!」
身体を軽く揺さぶられ、うっすらと赤野は目を開けた。雹は止んでいる。その代わりに全身ずぶ濡れで空を眺めており、手足には感覚がなかった。
「おおっ! 気がつかれましたか!」
テルカンプのいかめしい顔がいつになく柔和になり、自分を逆さに覗き込んでいる。
「ここは……?」
「県境のダム湖です。あなたが岸辺に打ち上げられているのを偶然私が発見したのですよ。幸い、呼吸も脈も無事だったようでしたがとにかく良かった」
「いや、フェリスや……ローマ兵は?」
無言のままテルカンプは毛布で赤野の身体をくるんだ。毛布もまた湿って泥に汚れた。テルカンプからすれば些細な話のようだ。
「身体が冷え切って、まだ思うように動けないでしょう」
想定済みだといわんばかりのテルカンプに対し、赤野はうなずく他なかった。実際のところ、口を開くのも億劫でまた眠ってしまいたい。
「馬場! そうだ、修道士の埋葬の絵を!」
唐突に閃いた言葉と記憶が眠りの包囲網を突き破った。
「いきなりどうしたんです? 急に興奮すると身体に障りますよ」
赤野は毛布ごとテルカンプに担がれた。
「銭居っていう、私と一緒にあなたの教会にきた女性は魔女だったんです! あなたに馬場の絵を渡さないと銭居の呪いが完結してしまうんです!」
「知っていましたよ」
ずだ袋のように、テルカンプの肩を境に身体が二つ折りになっている。それで、赤野は彼の声が頭上から降りてくる形になった。
「え……?」
「でも、あの時のあなたは完全に魔女の掌中でした」
「教会の中でまで魔法が通用するんですか?」
「あの教会はまがい物です」
身体の具合から、テルカンプは斜面を登っているのを悟った。
「まがい物……?」
「そうです。銭居が神や聖霊をバカにするべくわざと似たようなものをこしらえたのです」
「だ、だからってテルカンプさんがそこに……」
「私もまた、魂が切り離された存在なのですよ」
そこで、地面が路面に変わった。つまり、ダム湖の岸辺から路上に出た。
「な、なにを言い出すんですか?」
「あなたは、中世や古代の自分の姿を夢に見て思い出したでしょう。フェリスはあの顛末で自分が裏切られたと思い込んでいるのです。それだけじゃなく、あなたが直にかかわる人々全てに呪いをかけているのです」
「例えばどんな呪いですか?」
「私は中世でローテ子爵の妻になっていたエリザことフェリスに肉欲を迫られ、その誘惑に負けました。無論、それは信心の足りない私の責任です。しかし、堕落した私はフェリスの呪いで良心を失いました。だからあなたの殺害に手を貸したのです」
淡々とテルカンプは伝え、道路脇に停めた車の助手席を開けた。無論、銭居のそれとは関係ない。
助手席にそっと赤野を乗せ、ドアを閉めてから反対側に回りこんだ。運転席についたテルカンプはすぐにエンジンをかけ、暖房のスイッチを入れた。
「神は罪深き私を見捨てませんでした。魔女の呪いに際し、私の魂の善なる部分は今のこの場に導かれたのです。そして、私が自ら救われるに値する人間だと立証するべく魔女の呪いで汚された教会へ遣わされ、その浄化が課題として提示されました」
「でも、あれは誤解でした。ちゃんと話をすれば……」
「古代でのあなたはフェリスになにも相談しないまま話を進めたでしょう。それ自体が許し難い裏切りだったのです」
それは確かに、時代がどうあれ思い上がった行為だ。ましてフェリスは集落に溶け込む為に自分の性別まで犠牲にしたのだから。
自分の、というよりルブルムの行為こそ誰よりもフェリスをせせら笑っていた。
「しかし、今更それを取り戻す術はありません。確かに、馬場さんの絵を手中にするのが唯一の解決策です」
「絵は……まだ動かされてなければ私の賃貸ビルにあります」
「それなら参りましょう」
自動車が発進する頃には強張っていた手足が次第にほぐれてきた。だから、赤野は自力でシートベルトをつけた。テルカンプも勿論自分で自分のシートベルトをつけた。
赤野がテルカンプと共に下山についた頃にはそろそろ日没にさしかかり、山道はどろどろした闇に包まれ始めていた。テルカンプはライトをつけた。
「テルカンプさん、三つ質問があります」
毛布を身体から外しながら赤野は切り出した。銭居ほどではないにせよ、テルカンプもまずまず運転がうまかった。それで、質問する余裕が出来た。
「なんでしょう」
「銭居が自力で絵を処分しなかったのは何故か、あなたや九里さんといった人々はどうして手出しされないのか、博慈院も魔女の手に落ちているのか、です」
「まず一つ目、あの絵はあなたや私が人としてあるべき姿を取り戻す為に神から遣わされた天使が手を添え給うたものです。だから魔女には破壊出来ません。ただし、馬場さんが売買を承諾したら銭居は文字通り処分したでしょう。つけ加えるなら馬場さんはあなたの魂の一部です」
「ええっ!?」
「ドイツ語で赤はローテ、野は『~の』を現すフォン。つまりフォン・ローテ。馬場はバッハの語呂合わせです。銭居はツェニー、九里はクリューガー」
「クリューガー? 聖者じゃないんですか?」
「それは歪められた歴史です。実際のクリューガーは中世であなたの魂から分離した良識です。エリザはクリューガーの生涯を聖者にでっち上げてあなたの人生をパロディしたのです。俗に言う褒め殺しです」
「……」
つまり、図書館での調べ物は最初から陰で赤野をせせら笑う事だけが目的だった訳だ。まさに道化だろう。
「渕原さんや光川さんは?」
「彼等は現代に入ってからエリザに堕落させられた人々です。飛田さんもそうです。古代や中世ほど信仰が厚くないので簡単だったでしょう。また、そうした人々が混じっているから余計にエリザの真意が見えにくくなっていました」
ここまでくると、執念や恨みを通り越してエリザ自身が呪いそのものになったとすら感じられてしまう。
「山道を抜けました。ここからは、道筋を教えて下さい」
「はい」
一回通っただけの道ながら、不動産をやっていると通った道を一回で覚えるのは基礎中の基礎になる。
思ったよりスムーズに赤野賃貸ビルに……正確にはその最寄りコインパーキングに……到着した。半ば物理的に当然ながら、銭居も利用した場所だった。
車を降りてビルの出入口へ向かうと、半ば予想し半ば予想出来なかった事態が待っていた。
渕原、光川、そして飛田の三人がドアの前に立ちはだかっている。渕原と光川は棒切れを手に下げ、飛田は相変わらずスマホをこちらにつきつけた。
「待ってました! いよいよクライマックス! 都市伝説はやっぱモノホン!? 現代に魔女復活っす!」
飛田がおどけた口調でスマホのレンズを街灯にきらめかせた。
「いつもいつもろくな経費を出さない癖に注文ばかりは一人前の司祭なんだよねぇ」
棒切れで手の平をぱしぱしと叩きながら渕原がテルカンプを睨んだ。
「私は無宗教でいたいのにミサだの聖書の研究会だのでろくすっぽ休みも取れず……とんだブラック孤児院でしたよ」
うんざりしきった口調で吐き捨て、光川は棒切れの先端を軽く自分の爪先で蹴った。
「そこをどいてくれませんか」
無駄と知りつつ赤野は頼んだ。三人のいずれもなにも答えなかった。
「叩けよ。されば、もたらされん」
テルカンプは短く述べ、首から下げていた十字架を両手で包むように掲げて道路に片膝をついた。
「しゃらくさい!」
渕原と光川がテルカンプに突進し、手にした棒切れで一回ずつ頭を殴った。血が飛び散り、十字架にそれがかかった。
「テルカンプさん!」
「赤野さん……この十字架を持って……絵へ……」
その場に三人いるのだから、赤野を止めるのは不可能ではないはずだった。にもかかわらず、渕原も光川もテルカンプを叩きのめすのに夢中で赤野を無視している。飛田に至っては撮影しているだけだ。
「必ず!」
テルカンプを助けて自分まで巻き込まれては全く意味がない。
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