「はい、博慈院です」
滑らかな、それでいてテルカンプとはまた別なよそよそしさがこもった中年の女性の声がした。
「すみません。私、赤野と申しますが、そちら様に馬場さんと仰る方はきてないでしょうか?」
「少々お待ち下さい」
なにかスイッチを押す音がして、場違いに清々しいクラシックが流れた。
「お待たせしました。馬場さんにどんなご用件でしょうか」
最初よりはましな、年寄りの男性の声に代わった。
「大変失礼ながら、私が経営している賃貸ビルの家賃を馬場さんがかなりな間滞納してらっしゃいまして、人づてにこちらにいらっしゃると伺いました」
「分かりました。鍵は空いていますのでお入り下さい。そのまま玄関を抜けられたらすぐ真横に事務室がありますので」
「ありがとうございます」
軽く驚いた。家賃の取り立てなど揉めるに決まっている。だから、仮に馬場がいるなら少なくとも建物から放り出す形で話をさせるのが筋だろう。ましてここは孤児院だ。そうでなければ門前払いでもおかしくない。
いずれにしろ先方が入れと許可したからには入らざるを得ない。赤野は門を手で押し開けた。銭居もすぐに続いた。
玄関もためらいなく開け、軽く頭を巡らせると確かに事務室があった。
土間を挟んで事務室の真向かいには傘立てと下足箱がある。スリッパも差し込まれていた。赤野は銭居と共に傘立てに傘を入れ、スリッパにはきかえた。
土間から廊下へは段差がなく、そのまま奥の部屋が見通せた。四、五歳くらいの子供達が数人、熱心にお絵描きをしている。
子供は好きでも嫌いでもない赤野ながら、多少は気持ちが穏やかになった。
「仕上がった人はいますか?」
子供達に囲まれ、可愛らしい花柄のエプロンをつけ、髪を背中で束ねた大人の女性が尋ねた。同時に事務室のドアが開いた。
事務室から現れたのは、厳しい表情をした、痩せて髪の短い中年の女性だった。エプロンは身につけておらず、ポロシャツとスラックスの上下だ。
「赤野さんですね?」
インターホンと全く同じ口調でポロシャツの女性は確かめた。
「はい」
「そちら様は?」
「銭居と申します。赤野の助手です」
出鱈目を語りつつ、丁寧に銭居は頭を下げた。
「はーい!」
絵を描いていた子供達が、一斉に作品をエプロンの女性に見せた。何枚かは赤野達の目にも写った。
どの子も奇妙な前衛芸術めいた模様を形にしていた。長方形の長い方の一辺をわざと波線にして、その両端から角のようなものが生えている。
「かしこまりました。どうぞ、こちらへ」
子供達の絵をしげしげと眺める暇もなく、赤野と銭居は事務室へ入った。
室内は机が十個あり、案内した女性以外は誰も席についていない。空いている椅子を勧められ、その通りにした。
赤野には相手を外見だけで判断するつもりはない。しかし、応対ぶりに随分とギャップを感じた。
「失礼ながら、手元不如意で粗茶しかご用意できません。お待ち頂けますか?」
「いえ、お構い無く」
さすがに、アポも取らずにおしかけて茶ばかり飲む訳にはいかないだろう。
「まあお待ち下さいませ」
ポロシャツの女性は、事務室から廊下に出ずに隣の部屋に行った。給湯室らしいのがちらっとだけ見えた。
ヤカンを軽くすすいでから水を貯める音がして、それをガスコンロに置いて点火するのが耳に入る。そうしてから彼女が戻ってきた。
「お待たせしております。それで、馬場さんが家賃の滞納というお話ですよね」
「ええ。ここにいらっしゃるんですか?」
「あいにくと、少し前に出てしまいました」
またしても空振り。しかし、まだ手がかりが得られるかもしれなかった。
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