深く追求するのは止めておこう。
「じゃあここも空振りですね」
実のところ、それほど期待はしていなかったので衝撃はない。
「ええ」
銭居は自分のスマホを出した。
「あ……九里さんが動き始めました」
「えっ!?」
ならばなおさら美術館にいる理由はない。
「慌てて走ったりする必要はないです。落ち着いて行動しましょう」
「はい」
銭居に促され、赤野は展示室をあとにした。それでも一回だけ振り返った。一枚目の絵の中で、膝枕をされていた男性がむくっと起き上がった。その顔は赤野自身そっくりだった。その凶大とすらいえる驚きが赤野の足を止めた。
「どうなさいました?」
銭居までが足を止めた。絵は元の絵になっている。
「い……いえ……」
目の錯覚。目の錯覚に過ぎない。馬場あたりが芸術家故の幻覚に囚われるのならまだしも、自分は違うはずだ。
美術館を出て車に戻ると、銭居は改めてスマホを確認した。それから幾つか画面を操作した。
「ドイツ語学習教室『ターク』。教室に使っている建物は中堅不動産のアパートですね。個人営業の塾に近いスタイルで、自宅をそのまま当てているんでしょう」
確かに九里はドイツ語の講師と名乗っていた。
「掛け持ちしてるんですか?」
「多分、孤児院の方は非常勤です。今時は、英会話教室でも相当経営が苦しくなっていますから」
「私室を業務利用するのは規約違反でしょう」
「逆に、業務利用で契約した部屋を私室にも使っていると考えるべきでしょうね。アパートのオーナーにどう話を通しているかは分かりませんが」
そういえば、自分のビルのテナントにも外国語教室はなかった。妙なところで納得した。
「道のりは地図検索で把握しました。出発します」
車のエンジンをかけ、銭居は出発した。
「教室は二階の三号室にあります。私はベランダのある側に行きますから、赤野さんは玄関で九里さんとお話して下さい。しらばっくれるでしょうけど、頃合を見て私から『窓に馬場さんがいるのが見えた』とメールします。それをつきつけて下さい」
「他人の空似とか言われたらどうします?」
「一度諦めたふりをします。待っていれば必ず馬場さんは出てきます」
「どうしてそれが分かるんです?」
「元々計画的な篭城ではありません。もしそうなら着のみ着のまま折角描いた絵を放置したりはしません。九里さんも一時的に受け入れただけで、食べ物を構えたり自分の教室の運営と兼ね合いをつける余裕なんてありません」
「でも、何日かは持つかも知れないでしょう」
「その場合は、あなたが電話を入れて下さい。債権者として本人を探しているんですから」
取立てはシビアに行わねばならない。それと承知していても良い気分はしなかった。立場上、銭居が出来る話ではないのも十分理解してはいる。そもそも、すんなり馬場が姿を現して銭居と商談をまとめれば終わる話だろう。その辺り、銭居がうまく交渉をしてくれるよう祈る他なかった。
九里のいるアパートには、それから十四、五分で到着した。三階建てで程々に大きかった。赤野からすれば、防犯は大して意識されてない反面建材や間取りは良心的に思えた。
アパートの近くにはあいにくとコインパーキングがない。その代わり、そこそこ大きなスーパーがあった。この際便乗駐車になるのも仕方ない。
スーパーの駐車場から五分ほど歩いてアパートの前まで来ると手はず通りに二手に別れた。赤野はアパートの階段を上がって三号室のドアを正面にした。なるほど、『九里 与羽』と表札がある。
呼び鈴を押すと、しばらくしてインターホンから九里の声がした。このインターホンは防犯カメラ付きだ。午前中に会ったばかりの赤野が今現れたのは動揺せざるを得ないだろう。赤野からしても上ずって緊張した口調に聞こえる。
「先ほどはどうも。赤野です。そちら様に馬場さんがいますよね?」
「知りません。帰って下さい」
「アパートのオーナーに話をしますよ」
蛇の道はヘビである。相手がインターホンのスイッチを切る前に素早く告げた。本来の目的に即して行動する限り、赤野は普段どれほど無気力だろうと人並み以上の才覚や集中力を発揮した。
「話って、なにをですか」
ふてぶてしく切り返したつもりだろうが、九里はかすかに語尾が震えていた。
「お宅、契約外の店舗の使い方してるでしょ」
「それ、あなたと関係ないでしょ」
「同じ不動産仲間として持ちつ持たれつしていますのでね、どうにでも理由をつけて立ち会えますよ」
半ばははったりだったが相手は沈黙した。そこへ、銭居からメールが入る。スマホを出して画面を確かめる様子を繕った。
「馬場さん、窓から姿が見えたみたいですよ」
スマホをしまいながら赤野は告げた。
「ちょっといい加減にしてくれませんかね。あんたヤクザかなにかなんですか。馬場さんなんて知りませんし、私がどうアパートを借りようとあんたの知ったこっちゃないでしょうが」
苛立ちを隠さず九里は叩きつけるように言い渡した。
「そうですか。今回はこれくらいにしておきますが、また後ほど」
言いたい放題に言い放って、赤野はドアに背を向けた。そのまま階段を降りて銭居と合流した。
「いかがでした?」
「銭居さんが予想した通りの展開でしたよ」
「そうですか。じゃあ、アパートを見張りましょう」
「アンパンと牛乳でも買いますか」
下手な冗談を飛ばした赤野に、銭居は薄く笑ってポケットからスマホを出した。ガムテープがついたままだ。
「このアパート、大して警備が厳重じゃありませんから。このスマホをSNSの動画通話にして私のもう一台のスマホに回線を通じさせておきます。もちろん、目立たないように。あとは、すぐに駆けつけられる場所で待機しましょう」
「九里の車でどこかに行くんじゃありませんか?」
「仮にそうだとしても、どこかで合流点を決めて、そこまでは徒歩かバスでしょう。私達が車を尾行してアパートを特定したに違いないと察しをつけるでしょうから」
「なるほど」
「じゃあ、作業中に見張りをお願いします」
「分かりました」
赤野が請け負うと、銭居はアパートの階段に行ってなにやらごそごそ作業し、すぐ戻ってきた。
「準備出来ました。すぐそこのコンビニに飲食コーナーがありますから、そこで見張りましょう」
「ええ」
ここ数年、コンビニで買った商品を食べながら手軽に時間を潰せる場所が増えていた。飲食コーナーの利用自体は無料なので学生や主婦層にも評判が良い。つまり、目立たずに済む。
早速店に入った。長居しなくても良さそうなので、赤野は缶コーヒーだけ買った。銭居も豆乳を一パック買っただけだった。二人で店の出入口に近い席に座り、あとはスマホの画面を見詰める。
「馬場さんが部屋を出たら、私は車を出してアパートの前につけます。それまで赤野さんは馬場さんを釘づけにして下さい」
銭居の声は有線放送に紛れて隣の席までには届かない。
「ど、どうやって」
「方法はお任せします」
冗談とも本気ともつかない顔で、銭居は一口豆乳を飲んだ。
缶コーヒーも残りわずかとなり、他の席の顔ぶれも一新された頃。ドアが開き、馬場が姿を現した。スマホの画面からでも、痩せて顔色が悪くうらぶれた格好をしているのが分かる。半日以上も手こずった。これで年貢にせねば気がすまない。
赤野は銭居と共に無言で席を離れた。すれ違いざまにごみ箱に空き缶を捨て、アパートへ急ぐ。銭居は赤野とアパートに背を向ける形で赤野と同じくらい足早にスーパーへ進んだ。
「馬場さん」
まさにアパートを囲む塀から出た瞬間だった。赤野は声をかけ、馬場が目をむく暇もあればこそ素早く彼の右腕を掴んだ。
「困りますねえ、滞納の上に連絡もなしに消えられては。散々探しましたよ」
「ぼ、僕を自由にした方があなたの為ですよ」
なんともユニークな反論に、赤野はつい吹き出しかけた。
「そんな台詞は払うものを払ってからのたまって下さいよ。とにかく一緒にきて貰います」
「ど、どこへ!?」
「すぐ分かりますよ」
そこへ、タイミング良く銭居の車がきた。馬場は、諦めているのか力が出ないのかほとんど抵抗しない。後部座席を開け、馬場を車内へ突き飛ばしてからすぐ隣に赤野は座ってドアを閉めた。全ては一分以内に完結した。
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