教会が運営している割には、事務室には十字架だの聖書だのは置いてなかった。パソコンや、教育に係わる法律書だの卓上カレンダーだのがあるきりだ。
「自己紹介が遅れました。私、渕原久恵と申します」
ポロシャツの女性は名乗った。赤野も銭居も既に名乗ったあとなので、型通りにお辞儀すれば済んだ。
「それで、どうして当院に当たりをつけられたのでしょうか」
渕原の表情が一段と厳しさを増した。赤野ははたとつまった。よもや教会でビジョンを目にしただのユーチューバーからまた聞きしただのとは答えられない。
「馬場さんが、なにかあったらお宅様に寄っているかも知れないからと以前に仰っていられたのです」
淀みなく銭居は嘘を重ねた。
「はあ……まあ、そうでもなければこちらを探されたりはしませんよね」
どこかしら、自分で自分に言い聞かせているような口調だった。
「私どもは良く知らないのですが、馬場さんはなにか博慈院様と係わりがあるのですか?」
どうせ尋ねなければならないものは尋ねなければならない。そう開き直った赤野の脇で、銭居はほんのかすかに笑った。
「はい。馬場さんはここの卒院生です」
渕原は淀みなく答えた。
「卒院生……」
赤野にもある程度予想はついていた。無論、馬場の滞納を孤児院に無理矢理結びつけて愚弄するつもりは毛頭ない。
「そうです。ここを運営している、カトリック伯林教会という教会の正門前に生まれたばかりの馬場さんが捨てられていたんです」
中々に劇的な出だしだ。
「じゃあ最初から……」
「はい、孤児でした」
渕原は赤野の発さなかった言葉を正確に引き取った。
「馬場さんはすくすく育ち、やがて美術の才能を開花させ始めました。数年前に中学を卒業した時、パリで学んではどうかという話が出ました。でも本人はドイツに行くと強く主張したんです」
「なにか、特別な思い入れがあったんですか?」
馬場の居場所か行き先さえ聞き出せば済むはずの赤野は、冷淡なのか熱心なのか良く分からない渕原の説明にすっかり引き込まれていた。
「ええ。当院では、月に一回カトリック伯林教会のミサに全員が参加します。その教会にあるステンドグラスを馬場さんはとても気に入っていて、それがドイツで作られた物だと知ってからは他の国が頭に入らなくなっていました」
それを幼少期からの刷り込みとするか、開花しつつあった芸術的センスが自然に求めたものなのか、赤野には判断しかねた。
「それで、失礼ながら学費や生活費はお宅様がお世話をなさっていたんですか?」
銭居は助手という触れ込みらしく実務を追及した。
「はい。学費は当院で、生活費は……」
ヤカンが甲高い音を立てて沸騰を告げた。
「失礼。お湯が沸きましたので」
渕原は席を立った。彼女が給湯室に入ったのに時を合わせるようにドアが開いた。
一人の若い……赤野や銭居よりは少し歳上の……男性が現れる。半袖のワイシャツに背広用のズボンをはいていて、髪を丁寧になでつけていた。全体的に少し痩せて、背は外国人並に高い。
「これは、いらっしゃいませ」
驚きの混じったぎこちない挨拶を、新しく現れた男は口にした。
「やっ、これは……。お席を邪魔していましたか」
赤野も慌てて腰を浮かせた。
「いえ、向こうの椅子ですから。ああ、私は九里と申します。ドイツ語の講師です」
「赤野賃貸ビルオーナー、赤野です」
「助手の銭居です」
この辺のやり取りは誰だろうと変わらないはずだった。
「銭居さん……? 失礼ですが美術商の?」
九里の遠慮がちな質問……否、確認……は少しも間違っていない。
「それは副業です」
間髪を入れず、銭居は答えた。
雨は小降りになった反面、窓を打つ風が次第に強くなっている。
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