「じゃあ、最初からきてなかったんですか?」
「存じません。それ以上は申し上げる筋合いがありません」
慈愛の欠片もない断り方をされ、さすがに赤野は面白くなくなった。そもそも、馬場が家賃を滞納しているからわざわざ手間隙をかけているのだ。
「これは失礼致しました。私は古美術商の銭居と申します。馬場さんとは別に、とても素晴らしいステンドグラスなのでしばらく見学しても構いませんか?」
その時、稲光が空を圧したらしくステンドグラスから断続的な光が突き抜けて銭居を照らした。
赤野は目を見張った。みすぼらしさの一歩手前な服装が闇に沈み、銭居の鋭い美しさだけがまたたいたように思えた。まるで、純銀の盆に彼女の生首だけが乗せられたような……。
「それは問題ございません。解説役として私も同席しましょう」
時ならぬフラッシュが収まり、再びいつもの姿になった銭居に対しテルカンプは無表情を崩さずに許可した。
「ありがとうございます。では早速」
銭居は赤野に軽くうなずきかけた。
目的は馬場の身柄であってステンドグラスではない。それなのに、赤野は自然と銭居の背を追った。テルカンプが赤野の後ろになったから、二人に挟まれた様子になる。
「とても時代のついた品ですね」
説教檀の後ろの壁にはめられたステンドグラスを見上げて、銭居はまず誉めた。
「ありがとうございます。十三世紀の品だそうで、聖クリューガーを描いています」
「十三世紀……」
冷たくあしらわれたのはさておき、赤野も感心する他ない。それ自体が素晴らしいのは間違いない。表情は堅い反面、彩色と透明感が優れている。
「聖クリューガー……どんな方なのですか?」
銭居はテルカンプの解説を願った。
「十二世紀に活躍したドイツの元司祭で、敢えて教会を出てヨーロッパ中に福音と慈悲を説くのに生涯を費やしました」
それだけだろうか。なるほど立派な功績だろう。だからといって聖者にするほどなのか。もっと積極的な……例えば、魔女を告発し続けたような……『手柄』があったのかも知れない。
そんな埒もない疑問を心の中に浮かべた直後、また雷光がステンドグラスを際立たせた。それから少し遅れ、ドーンと激しい音がして教会全体がビリビリ揺れた。
「近くに落ちたようですね」
銭居が事もなげに言った。
「馬場……」
赤野は呟いた。
聖堂の中央で、椅子にも座らず馬場が両膝をついて真っ直ぐこちらを目にしている。正確には、説教檀と十字架越しにステンドグラスを熱心に観察している。
馬場はかすかに何かを口にした。『孤児院』とだけ聞こえた。
そして馬場の姿は消えた。
「赤野さん、今、馬場さんって……」
「はい、そこに……」
がらんどうの床に視線をさ迷わせ、赤野は先ほどの映像が自分にだけ認識されたとしか思えなくなった。
「そろそろお引き取り頂けないでしょうか。私も用事がございますので」
あくまで穏やかな、それでいてウムを言わせぬ迫力をもってテルカンプは呼びかけた。
「あー、はい」
芸のない回答と意識しつつも、赤野としては逆らえない。
「かしこまりました。お騒がせして申し訳ありません」
銭居も素直に受け入れた。
テルカンプは黙って目礼し、二人はそのまま教会を出た。
「結局空振りでしたね」
玄関口の傘立てから傘を出しながら銭居は言った。
「いや……孤児院」
「え?」
「この辺りに孤児院はないでしょうか」
何かに取り憑かれたように赤野は聞いた。
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