肩からは古めかしい黒いバッグを下げ、左手には安物のビニール傘があり、尖った先から水を滴らせている。
このご時世にも係わらず、古いビルでセキュリティは無いに等しい。ほどほどの賃料と立地なのだけが取り柄で、だから彼女も……その衣服と相まって……いかにも怪しげな雰囲気と思えば思えた。
そうしたギャップに内心驚いたものの、まずはエレベーターのマナーとして奥の壁際まで下がらねばならない。
「何階ですか?」
女性は階数を示すボタンの前に立ちながら聞いた。理知的である反面、どこか引き込まれそうな声音だった。
「三階をお願いします」
そう述べると、彼女は軽くうなずいた。ボタンは一回しか押されず、同じ階に上がるのが分かった。
エレベーターが三階に達し、まず女性が降りた。ついで赤野も降りる。そうすると、女性の背中を追う形になりわずかながらも困惑した。
彼女が足を止めたのは自分と同じ目的地、つまり馬場の部屋であった。困惑はますます強くなった。
「あら、あなたも同じ方に御用ですか?」
エレベーターのボタンよりずっと耳に残る喋り方で、彼女から尋ねられた。
「ええ。失礼ながら、どんな御用で?」
「あら、失礼」
女性はバッグを開け、名刺入れを出した。
「これはどうも、ご丁寧に」
赤野も上着の内ポケットから同じように名刺を出し、その場で交換した。
古美術商、 銭居英里砂。最初から商売を意識したのではないにしろ、お洒落な名前だ。
「赤野灰津様ですね。このビルのオーナー様でいらっしゃったとは、ご挨拶が遅れて大変失礼しました」
「いえ、こちらこそ。……それで……」
「馬場さんのご作品を買い取りに伺いました」
わざわざ古美術商が……。そんな実力があるなら滞納などするはずがないだろうに。
「失礼ですが、家賃が溜まっていたのですか?」
ずけずけと、しかしにこやかに銭居は聞いてきた。
「まあ、そうです」
本来、それは守秘義務に反する。それくらいは赤野も分かる。銭居の問いかけは、逆らえない優しい檻のような迫力があった。
「それはそれは。とにかく御本人をお呼びしましょう」
銭居は呼び鈴を押した。確かに鳴ったのに返事はない。居留守だとしたら無駄な抵抗だ。赤野は事前に何度も警告しているし、合鍵も持参している。
もう一回銭居が呼び鈴を押した。結果は同じだった。さすがに赤野はポケットから合鍵を出し、鍵を開けた。
半ば予想していた通り、絵の具の臭いがこもっていた。住居というよりオフィスを意識した賃貸ビルなので土間はなく、一応パーテーションを使って創作と私生活を大雑把に区切ってはあった。
古ぼけたポンコツビルの癖に、どのテナントも……真夏の営業回りも意識してか……シャワーが使える。小さければ洗濯機も置ける。
滞納ぶりからして汚部屋の類を想像していたら、その真反対に私生活スペースはきちんと片づいていた。チリ一つ落ちていないとまでは言わないにしろ、意表を衝かれた。
創作スペースにはイーゼルが立ててあり、一枚の絵がセットされていた。
薄暗い森の中で誰かが埋葬されている場面が描かれている。灰緑色の針葉樹に埋もれるように、墨染の衣をまとった数人の人々が墓穴を囲んでいた。具体的に誰が埋葬されているかは分からないようになっている。
絵の中で唯一、はっきり女性と分かる人間がいた。スコップを……JIS規格でいうシャベルを両手に持ち、微笑みながら土を墓穴にかけている。
「見事なテンペラ画ですね」
銭居はプロらしく一目で言い切った。
「テンペラ?」
ほんの一瞬、アナゴやキスの天婦羅を思い出した赤野であった。
「簡単に言えば、卵白などに顔料を溶いて描いた絵です」
「はあ」
芸術的センスがゼロの人間としてはそれ以上台詞が出てこない。
「『修道士の埋葬』と題名がついていますね」
コツコツとパンプスを鳴らしてイーゼルの後ろに回り込み、銭居は読み取った。
「銭居さん、絵は完成しているんですよね?」
無粋な言葉を出したくないものの、この際仕方ない。
「はい」
「じゃあ、どうしていなくなる必要があったんです? まして、あなたと商談があったのでしょう?」
「私も驚いています」
言葉とは裏腹に、銭居は眉一つ動いていなかった。
「放っておけば戻ってくると思いますか?」
「それはどうでしょう」
再び絵の正面に回り、銭居は様々な角度から絵をためつすがめつ観察した。
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