夢中になって棒切れを振り下ろす二人の間を縫って十字架を受け取り、全力で玄関をくぐった。飛田の撮影など芯からどうでも良い。
エレベーターは最上階で止まっている。いちいち待つくらいなら階段を走った方が良いだろう。二段飛ばしで駆け上がり、馬場の部屋を目指す内にこれまで体験した古代や中世の様々な場面が頭の中を流れては消えた。
思えばわずか一日の出来事なのに、何百何千年と過ぎ去った気がする。それは自分自身が忘れていた、そして思い出さねばならなかった過ちだった。
銭居と共にくぐったドアを前にして、赤野はまず深呼吸した。それから鍵を出し、鍵穴に差し込んでひねった。これまでの経緯からすれば本当に易々と鍵が外された。
ドアを開けると、ベランダ側の窓から差し込む月明かりにさらされて『修道士の埋葬』が何事もなくたたずんでいた。その傍らにはぐったりした状態で床に倒れた馬場と、腕を組んでそびえるように立つ銭居がいた。
「堕落し損なった聖職者の魂と一緒にはるばるご苦労様。あたしの気持ちが少しは分かってくれたかしら」
「ああ。俺は愚かで傲慢だった」
「おまけに貪欲で怠慢ね。なにしろあれだけのことをしておいてまだ助かろうと考えているみたいだし、その割には他人の力を借りてばかりだし」
「そもそも、俺は謝るべき立場にいた」
「なにを今更……」
「お前にじゃない。俺のせいでテルカンプや渕原や光川といった人々の人生が歪んでしまった」
「はあっ!? 一番頭を下げなくちゃいけないのはあたしに対してでしょ」
「謝罪するにもされるにも資格がある。俺は謝罪する資格を失った。お前はされる資格を失った」
「なにそれ。責任転嫁?」
「違う。事実の指摘だ。お前は魔女としての自分の力を過信し酔い痴れた。誰の人生をどう歪めようと構わないと考え、その通りにした。お前をそうさせたのは俺だ」
「それじゃ結局謝らなきゃいけないじゃない。あたしのやったこととすり替えないでよ」
「お前の望みは真っ当に俺と添い遂げる事だった」
テルカンプの血がついた十字架を、ゆっくりと赤野はかざした。
「そんなものでびくともしないけど? 吸血鬼じゃあるまいし」
そう言いつつ、銭居のパンプスはかかとがわずかに浮いていた。
「十字架を手にした時分かった。本当の赦免が」
赤野は口を開け、十字架を飲み込んだ。余りにも突飛な行為に銭居が息を呑み、その隙に馬場まで彼の身体を小脇にした。そして、『修道士の埋葬』に手を触れると水面に飛び込んだように絵の中へするりと身体が入っていった。
「茶番は終わりだ!」
目を開けた修道士、ハインツ・フォン・ローテだったところのテオドール・ローテは墓穴から起き上がった。エリザに盛られた毒は完全に浄化され、肌も髪も健康に満ちた輝きを取り戻していた。
「わーっ!」
クモの子を散らすように修道士達は逃げた。テルカンプだけはその場に倒れ、しゅうしゅうと音をたてて衣服ごと身体が溶けていった。
「エリザ。もう逃げられない。私に盛った毒の証拠は調べれば出てくるだろう。父上をたぶらかした証拠もだ。クリューガーをわざと聖人に祭り上げ、歴史を歪める手も使えない。ここに本体が復活したのだから」
「ホ……ホホ……ホホホ……ホ! 数百年も行ったり来たりする内に小知恵をつけたこと! いいわ、あなたの勝ちよ。火あぶりでも鉄の処女でもお好きに使いなさいな」
テルカンプの十字架を飲み込んだローテに、もはや魔法など効き目はない。
「許す」
「え?」
「神の名の下にお前を許す。本来は司祭の仕事だが、今の私は知っての通りテルカンプ院長の救われた魂と一体化している。だから、その資格がある」
「大きなお世話よ! あたしから言わせれば、あなた達こそ異端よ!」
「お前は裏切られた愛の復讐を企てる内に、異教の神に精神を乗っ取られたに過ぎない。それを許し、まっとうなキリスト教徒としての資格を与える」
「いらないわよ! こないで! いやーっ!」
ローテは一歩ずつゆっくりエリザに近づいた。足がすくんだのかキュベレーに見放されたのか、彼女は一歩も動けなかった。ローテは大きく腕を広げて包むように彼女を抱き締めた。
「フェリス……愛している」
エリザの耳元でそうささやき、彼女の額にキスすると二人の身体が等しく黄金色に輝き溶け合った。それが消え去った時、テルカンプと同様、ローテもエリザもどこにもいなくなっていた。
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