本当にそうだろうか。来客があるからそういう演技を強要されているとか。いや、それならあんなマークをわざわざ見せる必要はない。
「まあ、難しく考えるのはあとにしてお昼にしましょう。レストランなんていくらでもありますし」
「え、ええ」
実際、あちこち駆けずり回ったせいで空腹も酷くなっていた。赤野はこの街には大して土地勘がなく、銭居に一任した。
二人は『ベルリンの風』なるドイツ料理店に入った。そこでポークソテーランチをそろって注文し、午後からの探索に備える一方互いの情報を交換した。
「私の方では、聖クリューガーの略歴が分かりました。生年は一〇九二年で、一番古い記録だと一一二二年にプラハで司祭をしていたとありますね」
言い終えて、銭居はコップの水を飲んだ。
「プラハ?」
「ドイツの南東にあるチェコという国の首都ですよ。当時はかなり大きな都市でした。今でも百万人を越える市民がいます」
首都で百万人とは、少なくとも日本より小さな規模ではある。しかし、東京が極端なだけでむしろプラハの方がある意味で標準サイズだろう。
「それで、一一二八年には司祭を辞めて姿を消しています。次の記録は一一三五年です。ローテ子爵の屋敷で歓待を受けたとあります」
「ローテ子爵! こっちの資料にもありました」
「それは心強い一致ですね」
そこでランチのスープが運ばれた。インゲン豆のポタージュだ。
「ドイツといえばじゃがいもが有名ですけど、中世はまだ存在しませんでした」
「物知りですね」
「美術品なんかで自然に覚えますから」
軽く受け流し、二人はスープを飲んだ。甘く濃厚でとてもおいしい。
「とにかく、聖クリューガーは歓待を受けたローテ子爵家の何人かが悪魔崇拝と見抜いて糾弾したわけですよね」
「はい。没年は不明瞭ですが、それからは異教徒の改宗に尽力したそうです」
馬場は教会のステンドグラスに描かれた聖クリューガーに感銘を受けてドイツに渡った。その聖クリューガーはローテ子爵家の悪魔崇拝を正していた。馬場がなんらかの形でそれを知ったとしても無理はない。
しかし、それが何故『修道士の埋葬』……馬場が残した絵だが……に至ったのか。そこさえ埋まれば、支離滅裂としか言いようのない馬場の逃避行の動機も明らかになるかもしれなかった。
スープの次に、小さなボウルに入ったサラダがきた。レタスとタマネギとニンジンが入っている。ドレッシングをかけて食べ尽くした直後にポークソテーがきた。付け合せの米飯も一緒だ。
まあ、食事は全く悪くなかった。ソースは甘辛風味でいかにも日本式だった反面、豚肉は普段食べ慣れているものよりは少しだけ歯応えがあった。
「お酒が大丈夫ならワインでも飲まれますか?」
「昼間から?」
「冗談ですよ」
親しげに銭居は笑った。半ばは儀礼で赤野も笑った。
『私の血は旨いか、ローテ卿?』
どこかでそんな台詞が聞こえてきて、赤野はフォークを落としそうになった。
「どうなさいました?」
「い……いや、空耳で。私の血は旨いか、とか何とか……」
「博慈院でそんなようなお話があったので、そのせいでしょう」
澄まして銭居は応じた。
食事は終わった。銭居は自分のスマホを確かめ、九里がまだ動いていないことを確かめた。
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