まあそんな話もあったんだなと思いながら、赤野は野ぶどう茶をもう一口すすった。
「馬場さんの経歴はそのくらいにして、ここからどこへ向かったのかを教えて頂けませんか?」
茶飲み話をしにきたのではない以上、自分から主導権を握らねばならないことくらいは赤野もわきまえていた。
「はっきりとは伺っていませんが、県境にある山に入るとは聞きましたね」
渕原は答えた。
「いや、私は隣町の美術館と伺いましたよ」
九里がけげんな顔をした。
「じゃあ、どっちかが……」
「失礼ですが、お二人とも具体的にいつそのお話を耳にされたのでしょうか」
赤野が問いかけ終える前に銭居が別な質問を投げかけた。渕原と九里は互いに顔を合わせ、離した。
「私は二時間ほど前で……」
渕原はゆっくりと慎重に答えた。
「私は夕べの十時くらいでした。久しぶりに電話がかかってきたので」
九里の説明は腑に落ちなかった。馬場は固定電話もスマホも持っていない。公衆電話かも知れないが赤野のビルの近くにはない。
「なら、時系列としては県境の山の方が新しいですね」
銭居は渕原を真っ直ぐ見ながら結論づけた。当然、他に手がかりがないなら直近の情報が優先だろう。
「はい。目の前の国道をそのまま進めばたどり着きます」
いかにも熱心に助言する様子で渕原は補った。
その時、また事務室のドアが開いた。白髪が申し訳程度に残った男性で、少し曲がった背によれよれのワイシャツが年寄り臭さを強調していた。人好きしそうな目鼻立ちをしており、襟元に琥珀色のポロタイをしめていた。
「おや、いらっしゃいませ。賑やかだね」
その声はインターホンで耳にしていた。
「ああ、院長先生。こちら、馬場さんが今お世話になってらっしゃる赤野さんと助手の銭居さんです」
渕原が紹介したので、赤野達は椅子から立ちかけた。
「ああ、いやいやお座りになっていて下さい。私は当院の院長で光川欽也と申します」
赤野達と無難に挨拶を交わしつつ、光川も椅子に座った。
「私もお茶を頂いて構いませんか?」
「ええ、すぐにお出しします」
空の盆を持って給湯室に入った渕原を目で追う内に、赤野の視野に窓ガラスが映った。折からの雨で濡れている。吹きつける風で水滴が散った。さっき子供達が描いていた絵……角の生えた長方形……そっくりの形になった。
「どうかなさいましたか?」
光川院長が聞いてくるまで、赤野は自分でも時間を忘れるほどその模様に注目していた。
「え? あ、いや、こんな嵐の日に、馬場さんは美術館ならまだしも山に行くだなんて……」
「美術館? 山?」
「院長先生はご存知なかったのですね」
それはそれであり得なくはないと会話しながら赤野は思った。
「いえ、私はたった今本人からの電話で県立図書館にいると聞きましたよ」
さらりと光川は言った。
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