いくつかある枝道には、それと知った者しか分からない秘密のサインがあった。例えばウサギの耳を小石の下に少しだけはみだすように置いておく、馬の尻尾の毛を一本木の幹に巻きつけておく、など。
ルブルムはそれらをたどり、一軒の質素なあばら家に姿をさらした。ドアをノックすると、しばらくして内側からゆっくり開けられ、羊の毛で織った布を身体に巻いただけの壮年の男性が戸口に現れた。
「父と子と聖霊の御名において」
男性は自分からそう述べて十字を切った。ルブルムも同じように述べた。
「今夜だ」
短くルブルムは伝えた。
「うむ」
尊大に近い態度で男性はうなずいた。
「テルカンプ、本当にローマ兵は俺達をみのがしてくれるのか?」
ローマがキリスト教を国教にして以来、ルブルム達がいるような辺境の地でも異端は容赦なく弾圧されるようになっていた。
異端もバカではない。ローマ人の手入れがくるとなると異教徒の証拠は全て隠し、わざとらしく十字を切ったり即席の十字架を掲げたりしてやり過ごしていた。
ルブルムは、たまたまローマの軍隊で傭兵をしていた経験があったので慎重にテルカンプを観察していた。
彼のような隠者は、実際にはローマ……いや、キリスト教徒の尖兵であることがままあった。相手がそれと分かったのは、何度か尾行する内にローマの兵士を目にしたからだ。
咄嗟に隠れて事なきは得たものの、いざ本気になってローマ軍の攻撃を受ければルブルム達の集落などひとひねりだろう。
だから、彼はあくまでフェリスを女性ということにして彼女には内緒のままテルカンプと取引きした。神殿で異端の儀式が開かれた決定的な瞬間をローマ兵達にもたらす。
その代わり、自分とフェリスはローマ兵に保護されもっと快適で安全な街に移して貰う。
蛮族の集落より人口の多い街の方がかえって異端は隠れ易かった。変事が起こらない限り、自分達は全員が同じ価値観を持っていると無意識に思い込みがちだからだ。
集落の面々を裏切るのについては、特に良心は痛まなかった。
ルブルムは生粋のゲルマン人だがフェリスはいつの間にか集落に住み着いた流れ者で、なにかといじめられていた。そしてルブルムはフェリス以外に身寄りはなかった。
ルブルムとはラテン語で『赤』という意味だ。ゲルマン人らしくローテと名づければ良いものを、生まれた赤ん坊……まさしく『赤』い……を目にした父親が聞きかじりのラテン語でそう名づけた。特に意味はなかった。両親共にルブルムが幼い内に流行り病で亡くなり、その穴を満たすようにフェリスが現れたのである。
そんなフェリスはある日円形闘技場の壁に書きつけてあったラテン語を偶然発見し……ルブルムも含め、大半が読み書きの出来ない人間だったのだが……キュベレーの教えを学び取った。
フェリスはルブルムに頼んで集落の人々を神殿前に集め、一同の目の前で自分自身の男性を切除した。
そして真っ赤にそまった股間を見せつけつつ後ろを向き、キュベレーはあらゆる信仰を受け入れる、その証拠に誰にでも尻を提供すると言い放った。
ルブルムが率先してフェリスの『処女』を公衆の面前で奪うと、興奮した集落の人々は歯止めが効かなくなった。老若はおろか性別など全く無意味だった。こうしてフェリスは名実共に集落の一員となった。
ルブルムは、そんなフェリスの真意を測りかねていた。集落に溶け込む必要はあったのだろうが、なにもあそこまでする必要はなかったろう。
もっとも、ルブルムは最初から肉の交わりに性別を差し挟まない主義ではあった。キリスト教徒の間では同性愛が厳しく禁じられていたので、この際フェリスは女性で通すしかない。
それやこれやに『合理的な』整理をつける為に集落には犠牲になってもらう。
「神の御名の元に」
テルカンプは厳かに宣言した。
それから、正確な時刻やローマ人達の人数といった実務が情報交換された。最後の詰めが調整され、何度も確認された。
今晩、ルブルムが生贄の牝牛を神殿に連れてくる。ルブルムが力自慢を募り、誰でも良いから自分とフェリス以外の人間が牝牛の首をはねる。
これは、力自慢がステータスとなるゲルマン人の事、誰もが挙手するだろう。フェリスには誰でも適当に選ばせれば良い。ルブルム自身は牝牛を引いてきた人間なので斬首役は免れる。
その生首を、はねた人間……フェリスではない……が祭壇に捧げるようルブルムが煽る。当然、力自慢は大見得を切ってそれを実行するだろう。
祭壇に生首が捧げられた瞬間、異教徒の儀式が成立してローマ兵が乱入する。どさくさまぎれにルブルムはフェリスを抱えて逃げる。そういう段取りだった。
今夜の進行に納得が行くまで打ち合わせが出来たルブルムは、テルカンプと別れた。
その晩。
宵の口を少し過ぎた。集落から神殿に至る道筋に、等間隔にかがり火が焚かれた。フェリスは儀式の準備兼進行役になるので夕方から神殿にこもっている。
頃は良しと見て取ったルブルムは、集落から一頭牝牛を引いた。
牝牛自体は最初からくじ引きで選ばれたものであり、誰の異論もない。鼻輪に通したロープを握る手には、まず確実と期する策の帰趨に手が揺れるのを禁じえなかった。
神殿にさしかかると、既に集落中の人々が集合しているのがざわめきから察せられた。一同が集合してから牝牛を引いてくる手順なので、ルブルムは順調な進行を疑わなかった。
そして、いざ神殿の正面に至ると一同の興奮が一際盛り上がった。神殿ではフェリスが既に牛の生首を手にしている。
「ちょっと待て! 話が違うじゃないか!」
牝牛から手を離さずルブルムは喚いた。
「ああ、ルブルム。ついさっき野生の牛が神殿に紛れ込んだんで、神意だろうということで皆が力を合わせて倒したんだぜ。牡牛だったけどな。お前が引いてきた牝牛でつがいの生贄にすればいいってフェリスも言ってたし」
群衆の一人が興奮も露に教えた。
そのフェリスは、牡牛の生首を両手で支え、一同に背中を向けて祭壇にそれを供えた。祭壇の両脇には、高い支柱に支えられた銀色のボウルから乳香が一筋ずつ立ち昇っている。
「待て! フェリス、待つんだ!」
牝牛のロープを握ったまま、ルブルムは牛ごと神殿に走ろうとした。そこで自分の連れてきた牝牛がヘソを曲げて座り込み、ルブルムは後ろから引っ張られた形でつんのめった。
フェリスが祭壇の前でひざまづいた瞬間角笛が鳴った。
四方八方から突然弓矢が射かけられ、悲鳴と怒号が飛び交った。さっきまで座り込んでいた牝牛がパニックに連鎖反応を起こして暴れ回り、混乱は余計に無残な状況になった。
「フェリス! フェリスーっ!」
ルブルムもまた、逃げ惑う群集の渦に飲まれた。黄銅色の胸甲と脛当てをつけ、とさか状の羽飾りをつけたローマ兵達が一同に斬り込み次から次へと剣の餌食にされていく。
フェリスは髪と左腕をそれぞれ一人のローマ兵に掴まれ、神殿から引きずり出された。別な一人のローマ兵は牡牛の角を右手でぶら下げていたが、悲鳴を上げて倒れて行く人々の中に投げ捨てた。
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