車は山奥にある公園の駐車場に入った。誰もおらず、青黒いアスファルトの上には濡れ落ち葉がところどころにへばりついている。
「赤野さん、あの模様!」
物心ついてから十年は絵筆を握ってきたであろう細い馬場の右人差し指が、窓越しに落ち葉の形作る模様を指した。角の生えた長方形。悪魔のシンボルだ。
「た、ただの偶然だって。下らん」
「魔女が悪魔の家来として自分の縄張りを示すシンボルなんです!」
「はいはい、分かったから取りあえず降りな」
奇妙な高揚感とサディスティックな感情が赤野の心にじわじわ流れこんできた。ここまで頓珍漢な妄想を吐いてとにかく金を払いたがらない馬場を、少々手厳しい目に合わせてもなんら問題ないように思えてきた。どうせ山奥で逃げようがない。
これまでは、ほとんど大半の行動を銭居の指示のままに消化してきた。今こそ自分のやりたいようにやる潮時ではないのか?
「お疲れ様でした」
場違いなほどにこやかに銭居はねぎらい、エンジンを切ってからトランクを開けた。赤野と馬場が降りて見守っている内に、トランクからスコップを出した。それこそ修道士を埋葬する絵に出てきたのとほぼ同じものだ。
「まあ、こっちも余り手荒な真似はしたくないんだがな」
心得顔に、赤野は銭居からスコップを受け取った。
「こちらへどうぞ」
銭居は率先して歩き出した。駐車場から遊歩道を伝って本格的な山中に包まれ、昼下がりだというのに薄暗くじめじめした空気が赤野達にまとわりついた。
銭居はしばらく歩いてから遊歩道を離れ、傾斜の急な獣道に入った。足元が滑り易くなっているのは誰でも察しがつく。にもかかわらず、銭居は遊歩道と全く変わらない様子で獣道を踏みしめた。
獣道は三坪ほどの開けた場所で終わっていた。赤野は自らも肩で息をつきながら馬場を眺めた。やはり呼吸が苦しそうだ。唯一、銭居だけが平然としている。
「さてと、馬場さん。ここで膝をついて座って頂けますか? 立っているのも辛いでしょう?」
親切を装って銭居は持ちかけた。返事もせず、馬場は立ったままだ。
「座れよ」
車内での妄想にいい加減苛立っていた赤野は、馬場の両肩に手を置いて無理矢理押し下げた。そうして馬場は赤野達に膝間ずく格好になった。
「最後のチャンスをやるよ。まあ、三分ってとこだな。絵を銭居さんに売れ。そうしたら今までのことは全部許してやる」
赤野はスコップの柄で肩をぽんぽん叩きながら宣告した。
「断ります。赤野さんこそ、周りを見てみた方がいいですよ」
馬場の指摘に思わず顔が動いた。
まるで舞台を観劇するように、多くの人々が集まっていた。博慈院の子供達。引率の教諭。光川、渕原、九里。飛田までいる。
「あー、そのままそのまま。今ね、すっごくヤバイ動画になってます。生放送で再生回数ハンパないっすよ」
飛田はスマホのレンズを赤野に向けながら充実極まりない気持ちを込めた。
「な、なんだこれは!」
スコップを地面に落とし、赤野は叫んだ。
「皆さん、私の方針に賛成して下さったんですよ」
銭居が説明になってない説明を述べた。
「方針!?」
「そろそろちゃんと思い出して下さいな。メール送りますから」
銭居がスマホを出してなにやら操作すると、赤野のそれが着信した。そのメールを開くと本文はなく、四枚の画像が添付されている。それこそなにか映画の一場面のように、中世の騎士達の戦場、森の中の一軒家、フードを目深にかぶった男性、そしてどこかの屋敷の中が次々に表示された。
そうだ。騎士として敵の騎士を討ち取った時、いまわの際にテルカンプは『エリザに気をつけろ』と言いたかったのだ。それが伝わらないまま、帰り道に森で迷った。一晩の宿を求めて現れたのがとうの魔女エリザで、どうにか逃げ延びてから修道士のクリューガー。最後に、父の屋敷に顔を出すと、エリザが家族と共に待ち構えていて……。
「あの時、あの時俺はお前の誘惑を拒絶して安らかな眠りについたはずだ! 終わったはずだろう!」
急激に取り戻され、まとわりつく記憶を振り払うかのように赤野は叫んだ。
「いいえ。あなたは埋葬が終わったあと復活したのですよ」
「そんなはずはない!」
「私が蘇生させましたから。魔法を使わず」
「馬鹿げている!」
「毒で仮死状態になっていた分、埋葬された時のダメージがかえって少なくて済んだのですよ。もちろん、ごく浅い墓穴にしておきました。最後に土をかけたのは私ですから、鼻の周りだけ土を避けるようにしておきましたし」
「どうしてそんな手間をかけるんだ!? とにかく俺を堕落させたいのなら、わざわざ教えなくとも俺自身が馬場を手にかけていただろう!」
「もうちょっとその辺りを考えて下さいな。寸前で気づいた方が大きな衝撃になるでしょう? 普通に堕落するのではいけません。もっともっと揺さぶらないと。私達の愛の成就の為に!」
「わ、私達の愛の成就!?」
「赤野さん、僕の絵をテルカンプ司祭に渡して下さい!」
「お黙り!」
突然、銭居は一歩踏み込んで腰をかがめ赤野が落としたスコップを拾った。その平らな部分で馬場の頬を張り飛ばした。風船を割ったような音が響き、馬場の身体が大きく傾いた。
「は……は……や……く……」
赤く腫れ上がった頬を手で抑えながら馬場が懇願した。
半ば本能的に、赤野は振り返った。獣道に戻り、一気に傾斜を降りて駐車場まで走った。振り返ると、銭居がスコップを片手に追ってきている。恐怖が足を倍の速さで動かした。
駐車場まではそれほど難しくなかった。車は銭居が鍵を持っているから使えない。国道を走るのは追いつかれるのが目に見えている。
頭を誰かが軽く小突いた。仰天して辺りを見回すが誰もいない。頭だけといわず、肩から腕から小さな氷の塊……雹が降り注いでいた。銭居の自動車にもひっきりなしに雹がぶつかっている。
それでも二、三歩歩き出そうとして足が滑った。雹はぶつかってケガをするほどのものではない反面、あっという間に路面を埋めつつあった。銭居の仕業だとしたら、自分が損をするような仕組みは実行しないはずだからすぐにでも追いつかれるだろう。
万事休すか。せめてなにかしがみつきながら歩けるものに辿り着こうとして、駐車場の柵を目指した。よろめき転びつつもどうにか成功した。柵の向こう側は断崖絶壁を挟んでダム湖になっている。柵そのものはほんの数百メートルで途切れ、藪と雑木林だ。それを越えても結局いつかは道路に出ねばならない。
右手でスコップの柄を持つ銭居が、遊歩道の出発点にまで迫ってきた。赤野は銭居とダム湖を交互にみやり、湖面に飛び込んだ。十数メートルの落差を数秒で断ち切り、巨大な水柱が雹を押しのけて高く上がった。
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