「――――という運びで、あなたはチンピラの一人に刺されて死にました。ご愁傷さまです。生前についての資料は以上となりますが……何か質問などございますか?」
誰かが自分に喋りかけているのだと、認識はできていた。
しかしその感覚は、月影の知っているそれとはまるで別物だった。『聞こえる』というより『感じる』と呼ぶべきだろう。ふわふわと、脳内に直接流れ込んでくる相手の言葉。
いいや、その表現も正確じゃない。脳というものが、今の月影には無いのだから。
考えなしのノータリンという意味じゃない。物理的に脳が無い。
どころか、肉体の一欠片も無い。
どういう理屈なのか、自然とそれは自覚できていた。まぶたも眼球も網膜も、耳も耳たぶも鼓膜も無いのだから、何一つ見えも聞こえもしないはずなのに。それでも、理屈抜きで『感じる』のだから仕方ない。
自分だけじゃなく、相手の姿も無い。自分と相手、二人分の〝存在〟だけがこの場にある、そんな感覚。
(…………ああ、そうか)
そこまで考えて、月影は一つ腑に落ちた。答え合わせをするように、相手に問う。
「ここは、死後の世界ってわけですか? ……だとすればあなたは、死神か、天使ですか?」
「死後の世界。あなた目線で見ればそうなるですね」
しかし、とその存在は一つ訂正した。
「私は死神でも天使でもありません。――――女神。名を銀杏と申します」
「女神……」
「あなたの世界には輪廻転生という言葉があるでしょう。魂の循環を司る調律者、それが私達〝女神〟という存在です。無数に存在する異世界の安定を保つために、魂の流れを調整しているのです。要はあなたは、これから異世界で生まれ変わるわけですね。この空間はその手続きのようなものとお思いください」
銀杏と名乗る女神は、ややぶっきらぼうに、やや早口で述べた。
まるでお決まりの説明文を何回も何回も読まされてうんざりしているように。
口が無いのに会話が成立しているという不条理はもはや今さらだが、口調や抑揚の機微まで認識できるらしい。どういう理屈だ。
「異世界、ですか……」
「世界は一つじゃありません。あなたの世界と似たようなものもあるですし、剣と魔法でドラゴンを倒すような世界だって存在します。いつかどこかで分岐した可能性の末路……〝パラレルワールド〟と呼んだ方が馴染み深いですか? 一般の人間には認識できないでしょうけど、高次元に生きる我々から見ればそういうものです。常識に固執して否定なさるのは自由ですが、今この空間をどう納得できますか?」
やはり、早口で機械的に彼女は述べた。
聞いてもいないことを先回りして潰すように。分かりきったリアクションは先に対応するのが合理的だと言わんばかりに。
しかし、月影が言いたいのは、そんなことじゃなかった。
「いえ、そうじゃなくて…………あの、地球じゃダメですか?」
「え?」
「どこか別の世界じゃなくて、日本でもう一度生まれ変わることは、できませんか」
異世界だとか、女神云々はもう飲み込んだ。彼女の言う通り、今この空間こそが超常の証明だ。が……そんなことより、もっと気にすべきことが月影にはある。
やり遺したことがある。
「それは……難しいですね。魂の循環レールにはある種の強制力が働くので」
「そこを、どうにか……どうにもなりませんか?」
「……何故、そこまで? 仮に生まれ変わったとしても別人ですよ。家族も、恋人も、体力も学歴もリセットです。前世の記憶も綺麗サッパリ失います。自己満足にすらなりません」
「トロフィーが、欲しいんです」
女神から声は返ってこない。どういう比喩だろうかと意味でも探っているのかもしれない。
しかし月影が発した言葉は、何の比喩でもないそのままの意味だった。
「強い男になる。とある人に、そう誓ったんです。その人の分まで強くなって、その人の分まで人助けをしようって決めたんです。年月を重ねるごとに差は開く一方で、一生追いつける気はしなかったけど……それでも、〝あの頃〟の師匠と同じくらいには、せめて」
初めて会ったときに、同じくらい強くなると誓ったのだ。
せめてあの頃の師匠と同じ位置まで。そのスタートラインにすら立てない内は、月影の人生は何一つ誇ることができない。
家族や友人との別れは、早いか遅いかだ。でもどうしても、これだけは、割り切れない。
「誓いを果たすことが、死んだ師匠への手向けだと思って生きてきました。僕こそが、あの人の生きた証です。心は僕が受け継ぎました。あとは、〝昇龍杯〟のトロフィーだけは、必ず僕が受け継ぎたい。『強くなった』と報告できるように」
「…………」
「『あなたの生き様は間違っていなかった』、そう言いたかったんです。天国の恩人を、後悔させたくありませんから。せめてあれを手に入れるまでは、胸を張って死ねません」
たとえ記憶を失っても。生まれ変わって、別人になっても。
死んでも叶えたい、絶対の目標だった。
「…………考え方は、変えないんですね。赤の他人を、いけすかない同級生を、助けるために強くなって……その末に、チンピラに刺されてあっさり死んだわけですが」
「そこに後悔はありませんよ。『人助けに迷うな。後悔しない道を選べる強い男になれ』……信念に実力が伴わなかっただけです」
「なるほど……バカですね。早死にしますよ」
「ご忠告どうも。手遅れですけど」
呆れのような、憤りのような、あるいは親しみのような……初めて、何か感情のような声が女神から月影に向けられた。
そこからしばらく、女神は沈黙していた。
何かを考え込んでいる様子、と言っていいだろうか。表情も見えないのに、そんな感覚だけが月影に伝わる。
やがて。
女神は再び口を開き、三本指を立てた、ように感じた。
「あなたには三つの選択肢があります。①規定通り、どこか別の世界で生まれ変わること。どんな親元でどんな人生を得るのかは運ですね。続いて②、無理やり元の世界に逆流してみる」
「えっ、できるんですか?」
「できなくはないです。魂がその負荷に耐えられず、ほぼ確実に失敗しますけど。意識が摩耗し、生命として成立できず、かつての未練や怨恨に突き動かされるだけのハリボテの魂が彷徨うことになるです。あなたの世界には〝幽霊〟という概念があるのでしょう?」
「…………」
「そして③」
満を持して、女神は言う。
「記憶を持ったまま、別の世界で蘇る。提案です、月影さん。――――異世界転生をしてみませんか?」
周囲の空間が一変した。
地面があり、壁があり、天井がある。デザインこそ奇抜だが、机や椅子もある、部屋。
何より、目の前に存在する、透き通るような青髪の幼女。
未だ肉体も輪郭もない月影と、机越しに向き合うこの謎の幼女こそが、結論から言えば女神銀杏の本来の姿だった。
「異世界、転生……?」
「おや。日本人のあなたにとって分かりやすく端的に説明したつもりでしたが、ピンと来ないようで。漫画やアニメなどは嗜まれませんか」
先程までの女神と全く同じ声に、月影はまず驚いた。まさか女神が、こんな幼い女の子だとは思わない。声を聞くまでは月影の中で、同一人物だと確信できなかった。
「お小遣いやバイト代は、道場の月謝やトレーニング費用に全部使っていたもので……。というか、記憶を持ったまま生まれ変わることは、できないって話じゃ?」
「端末が初期化されても外部でバックアップを取っていれば問題ありませんから。特別に、私の特権と能力を使います。『生まれ変わり』じゃなく『蘇り』になるですが。あなたが命を落とした十七歳時点の、肉体そのまま異世界で再現・復活してさしあげましょう」
「……一つだけ選択肢が異色ですね。特別扱いすぎませんか。何か裏があるとか?」
「そりゃありますよ。我々女神にも、厄介で面倒でしょーもない裏側が色々と。まああなたが気にすることではありません。『代わりに一つ、ささやかなお願いを叶えてほしい』……私があなたに求めるのはそれだけです。裏はあっても嘘は無いと、約束するです」
それが本当なら、なるほど、魅力的な提案かもしれない。本来なら死んでそれまでのはずの、月影の人生を、消えたはずの余生を復活させてくれるというのだから。
でも、ダメだ。月影は「いいえ」ときっぱり否定する。
「やっぱり、地球の、日本じゃないと、僕にとって無意味なんです。生きる意味がもう、そこにはありません。その『お願い』が何であれ、やる気とかモチベが無い以上、期待に応えられそうにはないかと……」
「理解してますよ。だからこその、この提案です」
「?」
「元の世界に逆流すれば、魂がその負荷に耐えられず摩耗してしまう。そこが問題なわけです。つまり、その負荷に耐えられるくらいに魂の強度があればいい。異世界で修行をしましょう」
やはり淡々と、女神は言った。
「魂を鍛えるにはうってつけの世界を見繕いました。魔法が発展し、魔獣が蔓延る世界です。魔法とは、魂のエネルギーが生み出す奇跡の力。筋トレと同じです。鍛えるほどに、強く。――――ごくごく稀な例ですが、魔法を極めた末に、〝異世界転移〟の能力を得て元の世界に戻った人間もいたみたいですよ?」
「……っ」
「強くなれば、全てが叶います。……どうでしょう。やる気、出ましたか?」
銀杏が軽く腕を振るう。
と、目の前の机に、一枚の書類がポワンと現れる。
『契約書』とある。……そんな感じなのか、転生というのは。
『異世界に転生することを了承し、専属マネジメント契約を結ぶものとする』など、何行かの文章が書かれているようだが、月影にはあまり理解できない。一番下に署名の欄が二つ。一つにはすでに銀杏のサインがしてあった。
(『やる気が出たか』……だって?)
月影の目指す道はまだ途切れていなかったらしい。
生きる意味は、まだあった。心の、魂の内側から、何かが再燃してくる感覚。
実体が無く、もちろん腕も指も無い月影だが、その意思に従うように机上の羽根ペンがふわりと動き出し、『天野月影』と署名を刻んだ。
もう、迷いなど無かった。
「よろしくお願いします」
「おや、即決ですか。もっと詳しい話を聞いてからでもよかったのに」
「他に何を聞いても道は変わらないと思ったので。僕にとって、他に選択肢は無いです。このチャンスを逃して後悔したくありません」
「手間が省けて助かるです。では、契約成立ということで」
淡い光に包まれた契約書が、ふわりと宙に浮いて溶けるように消えていった。
直後、周囲の空間が歪み始めた。いや、『歪む』という表現で正しいのかも分からない。月影には上手く知覚できない謎現象を伴いながら周囲が徐々に崩れていく。
銀杏もまた、仕事は終わったとばかりに踵を返す。最初から最後まで、通して淡々とした女神だった。……これでもう、次に目が覚めたら異世界だった、なんてことになるのだろうか。
「あ……そういえば、代わりに叶えてほしい『ささやかな願い』って何ですか?」
「ああ、言い忘れてましたね」
その答えが何であれ月影の選択肢は変わらないが、一応尋ねておく。
銀杏は立ち止まり、振り返りざまに淡々と言った。
「世界を救ってください。ただ、それだけです」
「……。どういう意味です?」
「そのままの意味です。これから行く世界は、破滅の危機に瀕しています」
「いや……え?」
「魔法が発展した世界の、ある種の宿命ですね。魔法のエネルギーは、〝世界〟そのものを歪ませます。人類が普通に営む分には自然治癒するのでいいんですが、戦乱の世や狂乱の時代が最悪です。荒れた人類が狂ったように魔法を使うものですから、治す間もなく乱れ続けて、不安定が加速します。さながら自律神経が乱れるように、体の各所に異常が生じる。行き着く先はカタストロフです。あるいは、争いを止められなくなった人類の自滅が先かもですが。――――これから行く世界がどういう情勢かは分かりませんが、〝世界の歪み〟が大きいことは間違いありません。原因を突き止め、どうにかしてください」
世界を救え。
何の冗談かと思えば、本当に文字通り、そのままの意味だった。
「……嘘はつかないはずでは? 何が『ささやか』ですか……」
「嘘じゃありません。我々女神にとっては通常業務の一つに過ぎないですから。それに、月影さんにとってもやるべきことは変わりません。世界の救世主になれるくらい強くならないと、元の世界に帰れないでしょうし」
「……強いだけじゃ、解決できることとできないことがあるでしょう」
「できますよ。力があれば、大概なんでも。世界の終わりさえねじ伏せるほど強くなってください」
簡単に言ってくれる。
周囲の空間は知覚できない謎現象にすでにほとんど飲み込まれてしまった。銀杏の姿ももう朧げだ。彼女の表情もよく分からないが、どうせ淡々と涼しい顔をしていることだろう。
(世界を……僕が、)
ズシンと、存在もしていない両肩が重くなった感覚。
生前は、同級生一人救けることさえ命と引き換えだったのに。
もちろん、やるしかない。銀杏のお願い以前に、世界が滅べば月影の目的も果たせないのだ。
やるしかないと分かってはいるが……弱気になってしまうものはどうしようもない。
「僕に、できるでしょうか」
「できますってば。そんなに心配なさらずに。一緒に、私もついていくんですから」
「えっ」
「ああ……これもまた、言ってませんでしたっけ」
もうほとんど姿も認知できない銀杏は、溜息混じりに続ける。
「というか、ちゃんと契約書読んでくださいよ……。私はあなたのマネージャーで、プロデューサーです。あなたの異世界転生をプロデュースし、世界の救世主に育て上げるのが私の仕事です」
「なんて?」
時間切れが近いのか、必要最低限以下の説明で、端的に。
『世界を救う』よりも意味の分からない言葉の羅列を。
……次からは、たとえ選択肢が変わらないとしても、説明はちゃんと聞いてからにした方がいいかもしれない。
周囲の崩壊に伴い、いよいよ月影の意識さえも朦朧としていく。
転生の時は近い。
「それが弊社の業務です。――――株式会社俺TUEEE異世界エージェンシー。社名はあなたの世界の造語に由来するものですが……ああ、あなたはその手の文化に疎いんでしたね。ともあれ、これから私達はパートナーです。一緒に頑張りましょう。よろしくお願いします、月影さん」
女神界にも会社とかあるんだ……。
呑み込まれていく意識の中、月影が最後に考えたのはそんな取るに足らない感想だった。
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