どれくらいの時間が経っただろうか……。
永久に思える時が流れていった末、ぼんやりとした意識の中で俺はゆっくりと目を開けた。
(知らない天井だ……どこだここは?)
視界はぼやけてよく見えないが、ここが狭苦しいマンションの一室でないことくらいは容易に分かる。
左右を見ると鉄格子――ではなさそうだが、木の柵のようなものあるな。
柵で囲われたなにか、その中央に俺は寝転んでいるようだった。
(誰かに監禁でもされたか? いや、監禁にしてはちょっとざるすぎるな)
ともかく、ここで仰向けになっていても何も始まらない。少し辺りを探索して情報を集めた方がいいだろう。
そう思って立ち上がろうとした俺だったが、どうにも身体に力が入らない。
それどころか……起き上がることすら不可能に近かった。
(かなしばりではなさそうだな、力は入らないが手足ともに動かせるし)
あれやこれやと考察していると、突如として俺の視界に茶髪の若そうな女性が映り込んだ。
翡翠色の瞳がじっとこちらを見下ろし、とてもにこやかに微笑んでいる。
しかし身体の大きさが異常だ、明らかに俺の数倍はあるだろう。
(な、なんだあの巨人は!? 敵襲か、敵襲なのか!?)
若干パニックに陥りそうになり、なにか言葉を発しようとのどに力を入れた。
しかしその直後、俺の開いた口から漏れた声はとてもかよわく、意味をなさない音だった。
「あぅ、あうー」
「あらゼッタ、今日は早起きでしゅねー」
初めて聞く声、初めて聞く言語……しかしそれでも意味はなぜかしっかりと理解できる。
わけが分からず首を傾げていると、俺はその女性になんなく抱き上げられてしまった。
あの華奢そうな女性が、やせているとはいえ成人男性である俺をこうも簡単に持ち上げられるか?
巨人ならありえなくもないが、シチュエーションとしてはあまり現実的じゃない。
もしこの状況を加味するなら――俺が小さくなったと解釈した方がより自然かもしれない。
(もしかして……俺は赤ちゃんにでもなっているのか?)
視界のぼやけ、手足の可動領域、身体能力の低下、そして意味をなさない発声。
今起きているすべての事実が、俺が赤ちゃんであることを示唆していた。
(ありえねぇ、こんなことになるなんて。夢か何かじゃないのか?)
脳内はかなりの混乱状態に陥っていたが、その女性に抱き上げられていたことで俺は言葉に表せない安心感を覚えた。
無論、こんなにも綺麗な女性の知り合いはいないし、会った記憶すらない。
だけど人間の本能なのだろうか……この人が俺の母親であることはなんとなく理解できた。
「おーい、ミラ! ちょっとこっち手伝ってくれないか?」
「はーい! ごめんね、ゼッタ。ママ、パパのお手伝いしてくるからちょっとだけ待っててねー」
軽々と抱きかかえられていた俺は、小さなベッドにゆっくりと置かれる。そして触り心地のよい毛布を肩から掛けられたのだった。
(夢と考えるのが普通なんだろうが……夢にしては少しできすぎだ)
どうしてこうなってしまったのだろうか?
状況把握のため、俺は自分の部屋で最後にやったことを思い出そうと記憶を丁寧に辿っていく。
どんな事象にもきっかけは存在するはずだ。虚無から何かが生まれるなど、ビックバン以外にあり得ないのだから……。
(俺の記憶が正しければ、俺は新たなブラウザゲームを始めようとしていたところだったはずだ。難易度はエクストリーム、職業は魔法銃師でな)
――ファンタジー世界の鬼畜ダンジョンをあなたの手で攻略しませんか?
そのキャッチコピーまで思い出したところで、俺は一つの疑問を抱いたのだ。
そもそもあれはゲームだったのか、と。
広告文句につられて適当に始めようとしていたが、思い返してみればあの初期設定画面で「これはRPGゲームです」とはどこにも書かれていなかった。
それどころかゲームという文字すら、ほとんど書かれていなかった気がする。
もし、あれが原因で俺が赤ちゃんになっているのだとしたら……俺にはひとつだけ思い当たる事象がある。
(異世界転生……なのか?)
オタクやゲーマーならば絶対に一度は耳にしたことがある現象だ。
トラックに引かれる、通り魔に刺される、雷に打たれるなど何らかの理由で死んだ人が神様の計らいで異世界で前世の記憶を保ったまま生まれ変わり、チート能力で無双する。
テンプレートはそんな感じだったはずだが……今起きている事象はこれに酷似している。
ただ――俺は死んだわけでもなければ、神様に会って天恵を授かったわけでもないがな。
(転生だとすると、前世の世界に戻る手段はないよな……)
まあ、戻れなくても構わないか。
前世に思い残すことはなかったし、別れを惜しむほど大切な人もいなかった。強いて言うならば、他界した両親の墓に顔を出したかったくらいのものだ。
むしろ……この世界に俺の求める“刺激”があるのならば大歓迎だ。
俺がずっと探し続けていたもの。それは心の底で渦巻く渇望を満たしてくれるスリルや快感――それが手に入るならば、別に転生したって構いやしない。
(ひとまず、まともに動けるようになるまで様子を見るか……)
この現実を受け止めた俺はもぞもぞと身体を毛布の中で動かして、ゆっくりと目を閉じたのだった。
それから6ヶ月ほど、俺は赤ちゃんとしての役を演じつつも毎日を過ごした。
意識を取り戻した時と比べたら、周りの景色はしっかりと見えるようになり、音もはっきり聞こえるようになっていた。
そして起き上がることはもちろん、立って歩くこともできるくらいには筋肉も発達したのだ。
「凄いわね、ゼッタ! もうちゃんと歩けるようになったのね!」
「ハハハ、まだ1歳なのに元気に歩き回るなぁ。こりゃ、将来は一流の冒険者か?」
一応、その気になれば走ることもできるが……身体への負担も考えてあまりやらないようにしている。
そして更には――
「ママー、お腹空いたー」
「はいはい。今朝ごはん作ってるから、もう少しだけ待っててねー」
この通り、しっかりと喋れるようにもなった。
神様の計らいとやらなのかは分からないが、この世界の言葉は意識を取り戻した時点で大分理解できていた。
しかし日本語にはない音も少々混じっていたため発音にはかなり苦労した。親が見ていない間に一人でコツコツと練習したかいがあったというものだ。
意識を取り戻して6ヶ月間、俺はこの家でのどかに過ごしつつ、身近な情報をかき集めていた。
幸いこの家は多くの本や資料に恵まれていたため、文字が読めさえすれば情報収集には困らなさそうだ。
しかし……肝心の文字はもちろん日本語ではない。
どうやらミスト語というらしいが俺が現在習得しているのは会話のみ、まだ簡単な文字しか理解できないため本の解読は難航を極めている。
まともに読書できるまで、もう少しばかり時間がかかるだろう。
一方で家族構成や簡単な地理は両親との会話からある程度把握できた。
まず、今俺のために頑張って朝ごはんを作ってくれている茶色のミディアムヘアで優しいお母さんはミラという。
歳は20代前半で、仕事はポーションを自前で調合して週に2回ほど売りさばく薬師のようだ。
ちなみにポーションというのはファンタジー世界でよくある回復薬のことだ。
原理は不明だが、飲んだり掛けたりするだけで傷を癒やすという魔法の水。まさか魔法やポーションをこの目で見る機会が訪れるとは思ってもいなかった。
そしてリビングの椅子に腰掛けているガタイの良い男がお父さんのクリフトだ。
ミラの鮮やかな茶髪とは対照的に彼は一切のにごりもない白髪。藍色の三白眼に筋肉質な身体と見た目はかなりイカツイが、とても優しい人だった。
二人の会話によると彼は元冒険者らしく、今はイノシシや熊を仕留める狩人の仕事で生活を賄っているそうだ。
「おーい、ゼッタ。こっちまで歩いてこれるか?」
「うん、パパ!」
俺は子供っぽく答えるとクリフトの座っている椅子に向かって歩いていく。
そしてたどり着くやいなや、俺は太い二本の腕で高く持ち上げられる。
「よしよし、よくできたな! 偉いぞ、ゼッタ!」
薬師のミラと狩人のクリフト、2人の間に生まれ溺愛されて育った一人息子――それが白峰凪の記憶を受け継いだ俺、ゼッタである。
先日、1歳になったばかりという正真正銘の赤ん坊だが……知能は恐らく赤ん坊のそれを遥かに超えているだろう。なにせ中身は25歳の成人男性なのだからな。
以上が俺の家族三人である。
また住んでいる場所はダンジョン街という所らしい。
詳細まではよく分かっていないが、この世界のキャッチコピーである鬼畜なダンジョンと何らかの関係があるのは言うまでもない。
(それにしても……幸せな家庭だな)
赤ん坊ながら俺はそうしみじみと思う。
両親はとても仲が良いしどちらも健康、そして俺も赤ん坊として不自由ない生活を送れていた。これ以上に恵まれた環境はそうそう存在しないだろう。
白峰凪だった頃は、こんな幸せな生活は送れていなかった……。
両親は事故で早くに亡くした俺は母方の祖父母宅にて引き取られた。しかしとある理由で祖父母に嫌われていたため、子供として真っ当な日々を送れなかった。
(今回はそうはならないよな……?)
考えたくもない未来だったが、赤ん坊の俺にはただ祈ることくらいしかできない。
何らかの方法で力をつけられるならば、話は別だけどな。
美味しい朝ご飯を食べ終わった俺は、さっそく昼寝をするとミラに伝え、あの木製のベッドに寝かせてもらった。
しかし実際は昼寝をするのではなく、書斎に忍び込んで読書をするのである。
とはいえ本は薬や魔物素材などについて書かれた難しいものばかり、読書というよりは言語学習といっても過言ではないだろう。
(そういえば、1歳になってから試してなかったな)
ベッドから這い出した俺はおもむろに手を伸ばして静かに目を閉じた。
昨日は豪勢な誕生日パーティーだったため、一日中忙しく試す暇もなかったからな。
ゲーム準拠の異世界に転生したのであれば……やはりあれがあって欲しい。
いや、そもそも転生する際に職業やら難易度やらを決めたのだから、あってもらわなければ困る。
とはいえ、これまで何度も試してきたが成功した例は一度もない。
0歳だからできなかったと俺は予想しているのだが、果たしてどうだろうか?
(ステータスオープン)
俺は心の中で静かにそうつぶやいた。何かが出てくることを祈って――
しかし、いくら待ったところで目の前に何かが表示されることもなければ、頭の中に情報が流れ込んでくることもなかった。
(今日も駄目だった……か)
1歳になれば何かしら変化が起きるとわずかな希望を持っていたが、やはりまだのようだ。
あるいは合言葉が違うか、そもそもステータスそのものが存在しないかもしれない。
長いため息を吐き出し、肩をガックシと落とした俺は書斎に向かって歩き始めようとした。
――その時だった。背後で何やらカタリと音がしたのは。
「うん……?」
よたよたと後ろを振り向くとそこには――黒いルービックキューブと銀色に輝く拳銃が落ちていたのだった。
どうも、井浦光斗です。
異世界転生……ありがちな響きですが、この要素ほど万能な設定はそうそうないでしょう。
常識をガラリと変えても、物理法則を無視してもオッケー。だって異世界だから。
ただ、あまりにもしっちゃかめっちゃかすぎると「僕の考えた最強の異世界」になってしまうかもしれませんね……。(そうならないよう善処します)
ところでノベリズムでは各話にポイントがつけられるらしいです。なので……
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