傾いた漆黒のキューブことダンジョンに足を踏み入れる直前、俺たちは衛兵に腕輪のような物を手渡された。
銅製の輪っかに小さな蒼く煌めくクリスタルがつけられた装飾品、いかにもファンタジーな見た目をしている。
「ダンジョンに入る前に、コイツは絶対につけておけよ? でないと、はぐれてしまうからな」
「はぐれる……?」
「ああ、そうだ。ダンジョンとは異次元、ここから遥か遠くにある別の次元に広がる魔法世界なんだよ。って、幾らなんでもまだゼッタには早かったか?」
「ううん、僕分かるよ。異次元がどんな所くらいは」
前世で大量のRPGゲームをプレイして、数々のライトノベルに手を付けていたら、厨二病チックな単語は嫌でも理解することになるだろう。
それにしても異次元に広がるダンジョンか……。道理で予想より建物が小さいと思ったわけだ。
空間的に隔離されている世界で命がけの冒険、聞いただけで全身がゾクゾクしてしまうな。
無論、恐怖しているのではない。本物の武者震いという奴だ。
「準備が出来ましたら、こちらに進んでくださいませ」
「おう。ゼッタは大丈夫か?」
「僕も大丈夫だよ、パパ。それよりも早くいこう!」
「ハッハッハ、そうだな。ではいざダンジョンの世界へ出発だ!」
狩人とその息子らしく互いに意気込んだ俺たちは、ダンジョンを管理している衛兵の指示に従って、一つの小さな部屋に通された。
そこにはまたもや赤い輝きを放つルービックキューブが中央に独座していた。しかもただそこに在るのではなく、ゆっくりと斜めに回転しながら宙に浮いていたのだった。
「あれが……ダンジョンの入口?」
「その通りだ。あの先には、俺たちの住む世界とはまた違った世界が広がっている……。ただ注意して欲しいことが一つだけある」
「注意してほしいこと?」
「そうだ、それはダンジョンの中の物を大量に外へ持ち出さないことだ。ダンジョンの中は高純度のマナで汚染されている。人間に直接的な害はないが、外に持ち出せば魔物を出現させる原因となる。特に土や植物は解魔処理をしない限り、持ち出すのはタブーだ」
「うんうん、土とか植物は危険なんだね」
「そして不思議なことに魔物の死体や肉は土ほど害はない。魔物は体内のマナを魔核や魔石に貯蔵する性質があるから……って2歳にする話じゃないよな、こんなこと」
「大丈夫だよ、僕ちゃんと分かってるから」
「そうか? だとしたらゼッタは父親譲りの天才だな! ハッハッハ!」
そう言ったクリフトは狭い部屋の中で腰に手を当てると、大声を上げて笑ったのだった。
確かにこの世界の住民からしてみれば、25歳の記憶を持って生まれた俺は天才だろう。それに、そもそも俺は前世でも普通の人間より優れた能力を持って生まれたからな……人より頭がよく見えてしまうのは仕方のないことだった。
だが……どんな突然変異があったとしても、クリフトの知能が俺に遺伝していることは絶対にない!
あらゆる物事をすべて力だけで解決するような人ではないからな、俺は……。
「それじゃ、行くぞ」
「うんっ!」
俺はクリフトと共に赤いキューブへと触れた。
その瞬間……世界が反転するような、上下が分からなくなるような奇妙な浮遊感に襲われる。
視界がどこぞのRPGのごとくグニャリとねじ曲がっていき、世界から色という概念が消え去っていった。
まるで、俺が異世界へと転生した瞬間のように。
気がつくと、俺は蒼白い輝きに照らされていた。
見上げると、ぽっかりと浮かんだ大きな星がちっぽけな俺を見下ろしていた。
前世でいう月か? いや、月と比べてもなお“月とスッポン”くらいの差があるほどには大きいぞ、あの星は。
ちなみにこちらの世界にも“太陽”と“月”の役割を果たす恒星や惑星はあり、周期も地球と同じくらいだ。
ただし“月”に関しては数が3つという地球では考えられない状態になっているがな……。
「どうだ……? 凄い大きいだろ、ゼッタ」
「うん……。こんなの初めてみたよ」
想像を超えた光景に度肝を抜かれていた俺だったが、辺りを見回したところでさらに目を見張った。
一面広がる雪景色、そしてなぜか飾り付けされている針葉樹がぽつりぽつりと無造作に生えている。
今、この世界を一言で表現するならば――聖夜の輝き、だろうか。
独りぼっちにとっては圧倒的に無縁な光景が、地平線の彼方まで続いている。
心が洗われるというより、心が震えると言ったほうがいいだろうか。その光景は人間に言い表せぬ感動をもたらしていた。
「このダンジョン『四季の空洞』は時期によって風景が変わる。春は花で一面彩られ、夏は深緑の草木に覆われ、秋は紅葉で埋め尽くされる。四季の変化、それがこの世界の理だ」
「風景が、変わるんだ……。それだと、住んでも魔物も変わっちゃうかな?」
「ああ、もちろん変わるさ。スライムやゴブリンはずっといるけどな」
なるほど、季節に合わせて生態系も大きく変化するダンジョンか。
しかし惜しいな、ダンジョン内部のものを外に持ち出せるなら、低木まるまる一本持って帰って家に飾ったんだけどなぁ……。
「ゼッタ……。パパはな、これが見せたかったんだ。この美しい世界を、俺の自慢の息子に見てほしかったんだ」
クリフトはニカッと笑うと、大きな手で俺の頭をワシャワシャと撫でる。
「毎日毎日ずっと腕立てしたり、難しい本を読んだり、魔法を唱えたり、ポーションを作ったりして……。遊ぶことを知らないんじゃないかって、すごく心配だったんだぞ……? それに俺も狩りばかりで、親らしいことはあまりしてやれてなかったからな」
淡い光を放つ巨大な星を見つめながら、彼は静かに語る……。
そうか、クリフトはクリフトなりに俺のことを考えてくれていたんだな。口に出さずとも人一倍、息子の俺を思っていてくれたのか。
恵まれているよ、本当に。
あまり恵まれすぎていて、不安になってしまうほどだ。
『いいよな、アンタは。見たものは全て覚えられるんだからさ』
ふと嫌な声が頭の中で反響する。
どんなに忘れようと、どんなに頭の奥へ押し込めようと、そいつは虫けらのように湧き上がってくる。
そう……俺は忘れられない人間、「忘れる」という能力を失った人間だ。
生まれたその瞬間から一度見たもの、感じたもの、思ったこと……なにもかも全て「忘れる」ことのできない人間なのだ。
どれだけ嫌な出来事であろうと、不快な感覚であろうと、握りつぶしたくなる感情であろうと忘れられない。擬似的に忘れられても、いつかは絶対に思い出す。
それが……欠陥より生まれた俺の普通より優れた能力だった。
この欠陥のせいで俺は前世で嫌われ続けた。
普通とは違うなにかを宿したものを排除したがる、それが前世の人間だった。
一度見たものを永遠に背負わなければならいというデメリットを受けながら、幼い頃の俺は虐げられてきたんだ。
けれど俺という意識が誕生して初めて、俺は自分の能力に感謝した。
この美しい世界をずっと、ずっと、脳内に収められるのだから……。
「ありがとう、父さん」
クリフトに聞こえないくらいの小声で、俺は感謝を伝えたのだった。
この景色を見せてくれて、ありがとうと。
「さぁて、それはそうとだな」
突然、クリフトはニヤリと笑ったかと思うと背中の弓を取り外す、流れるような動作で弓を構え、狙いを定める間も設けずに射った。
銀世界を一本の矢が鋭い弧を描きながら駆けていく、そしてそれは仲間を呼ぶ合図を送ろうとしていた一匹のゴブリンの脳天に突き刺さった。
「ゼッタも戦ってみたくないか? 魔物とやらと」
「……っ!? うん!」
やっぱり戦わすつもりだったんじゃないか……この脳筋父め。
どうも、井浦光斗です。
ほのぼのとした雰囲気が続いていますね。さらにゼッタの過去も徐々に明かせて作者としては感慨深いです。
強くなることを夢見て努力を重ねるゼッタ、それを優しく見守る母ミラと父クリフト。
やっぱり日常を書くのってとても楽しい。まるで日記を書いているみたい……。
けれどそれはプロローグに過ぎません。本編はまだ始まっていませんから。
続きが気になるという方は――
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