明くる日の夜、おれは新宿の繁華街に足を運んでいた。まるで昼夜が逆転したような、刺激色の明かりで作り上げた眠らない街だ。すれ違うサラリーマン風の集団は早くも千鳥足で奇声を上げている。
自分もかつてはそれらと同類だった。仕事と称して営業先の人間を連れ回したりもした。要求する側とされる側。その時はそれでバランスがとれていると思い込んでいた。誰も傷つかず誰も悲しまない。むしろ好意を抱いてくれる者が増えるものだと信じていた。だが、そうした自分の行動を嫌う者も現れた。社内でも良くない噂が立ちはじめ、次第に孤立していた。――年齢だった。若いうちなら許される事でも、部下を抱えるまでなった立場では周囲の見方も変わってくる。潮時を感じていた。そんな時、あの男に出会った――。
間口の狭い入り口。そこを取り囲むように無数の電球が交互に点滅している。紫色に浮かび上がる路上看板には、黄色い文字で〝バー・マカオ〟と書かれている。奥に続く通路には店の女が妖しいポーズで写真に収まり、それがずらりと並んで飾られて、天井のネオン管によって色を染め変えていた。
四~五メートルほど先に進むと横にあった分厚い黒ガラスの自動ドアが開いた。とたんに騒々しい音楽が鼓膜に襲いかかる。若者が好む、アップテンポのダンスミューッジックだった。看板にあった〝マカオ〟と言えば香港と同様、中国でありながら他国の領土だったという特殊な国柄を思い浮かべる。だが、この店には、そんな片鱗すら見あたらない。
不意に左腕を掴まれて甘い声の総攻撃が始まった。一歩店に足を踏み込んだ獲物は逃さない。そんな意気込みに圧倒されながら奥のボックス席に引きずり込まれる。この店ははじめてか、仕事は何をしているのか、歳はいくつか――。機関銃のように喋り続ける女性はショートボブで化粧映えのする、細身だが筋肉質のしっかりとした体格だった。歳はそれほど若くない。三十は超えているかもしれない。とりあえずビールを注文した。女性はボーイに向かい、ビールとウーロンハイを、と、お決まりのように勝手にオーダーを出す。あらためて店内を見回すと、カウンターには客待ちの女性が四人ほど座りタバコの煙をはき出している。ボックス席は十人掛けほどのラウンドソファーが二つに、その半分ほどものが四つあった。ちょうど半分は客で埋まり、そこそこの賑わいを感じる。
「マユミさん――。そういう名前の人はいる?」
そう聞くと、ショートボブの女性は、「私じゃあダメ? ――名前くらい聞いてからにしてよ」――と、少し機嫌を損ねたふりをしてみせた。すまない――そう言いながら四つ折りにした千円札を、さらに小さく二つに折り彼女の左手に握らせた。「ユウカでーす。次は私を指名して」――すぐに笑顔を見せてカウンターへと向かった。声をかけられた目つきの鋭いバーテンは、こちらを睨みつけてから、タバコを吹かしているセミロングの女性に顎で指図した。気怠そうに灰皿にタバコをつついて女性は腰を上げた。いかにもといった作り笑顔で近づくと右隣に回り込んで腰を下ろし、ミニスカートから伸びる長い足を、これ見よがしに組んでみせた。先ほどの女性より遙かに歳は若い。二十代前半くらいだろうか――。
「あんたがマユミさんか?」
「ええ、そうよ。初めての方だったかしら」――少し低い声で言った。
「おれの名前は寺田信幸。週刊誌の記者に会いたい」
マユミは少し驚いたような視線を返した。ボーイがビールとウーロンハイを運んできた。マユミはグラスをおれの手に渡し、無言でそれを満たした。
「そうねえ。今から三十分後に店の裏に行ってみて」
「それまでここで飲んでいろって言うのか?」
「時計持ってないの?」――言うとマユミは横にある壁を指さした。そこには小さな壁掛け時計があった。
「ここであんたに会えと言われて来た。どうしてあの男は回りくどい事をするんだ」
「さあ、私には分からないわ。ただ、寺田って男が現れたら、そう伝えろって頼まれただけ」
言うとマユミは席を立ち、カウンターへ引き返すと備え付けの電話を手にとってボタンを押した。腕を組みながら受話器を耳にあてがい、わずか一言二言、口を動かしてからすぐに電話を切った。
戻って来るなり、「一応連絡しといたから」――と面倒くさそうに言った。
「こんなところで歳を聞くのも何だが、きみは幾つなんだ?」
マユミは怪訝な表情を返した。
「だいじょうぶよ、たしか何年か前に成人にはなってるから」――そう言いながら、ウーロンハイを一口飲み込んだ。
「さっきのユウカとかいう女性とはずいぶん違うな」
「何が?」
「きみには商売っ気が無い」
「――だから、お客が着かないの」
全てが直線的で横柄な態度だった。もっとも、自分がこの店へ来たのは、例の男に連絡を取り、その指示に従ったまでの事だ。目の前の女性がどういう性格だろうと関係ないことなのだが、それでも男の指定したマユミという人間に、少しだが興味を持った。謎めいた男だから謎めいた女が関係するのは分かるにしても、二人には親子ほどの年齢差がある。マユミという名も、店での源氏名なのか本名なのかも分からないが、こういった場所で行き過ぎた詮索は禁物というセオリーを、ようやく思い出していた。
そのうち、周囲の様子に何か違和感を持つようになっていた。周りを気にしだしたのに反応してマユミは言った。「知らなかったの? この店の娘はほとんど男よ」
言われて気がついた。騒々しいダンスミュージックの隙間に聞こえるホステスの色声は、声帯を絞るような不自然な発音を伴っている。
「バー・マカオ。――逆さに書くべきよね」――マユミは言った。一瞬考えたあと、その言葉に納得した。
「きみは?」――女性にしては長身である。声も姿も女性にしか見えないマユミだが、場所が場所だけに容姿で判断しかねていた。
「私を含めて、カウンターにいる三人は本物」
「どうしてこんな店にきみのような若い女性がいる?」
「こういった店だから安全なの。――お客のほとんどは女にあまり興味を示さないから」
いろんなケースに対応できるように〝品数〟を増やしてあるようだった。確かにマユミのような若い娘でも、本物の女性は人気が薄いようだった。
「ああいう人たちの方が、積極的に振る舞うから」――人気の無い理由を自己分析する。そんな彼女は、気楽さからこの店を選んでいるのかもしれない。
店の様子を話しながら、時折、例の男について探りを入れてみる。しかしそう簡単に口を滑らせてくれそうな気配はない。
ビールを一本飲み終える頃、マユミは壁の時計に目をやり、そしてこちらを見た。――そろそろ時間よ――。気のない声で言った。
店を出て、隣の建物との間をふさぐ防犯用のドアを手で押してみた。あまり使われていないのか建て付けが悪い。ガタンと大きな音を立てて開いた。普段は施錠してあるらしいが、マユミだろうか、それとも例の男だろうかがロックを解除してくれていた。人目に付かぬよう、ドアを元通りに閉めてから奥へ進んだ。鉄格子に守られたガラス窓からもれる明かりで足元が見える程度の薄暗く狭い路地で、おまけに不安になるほど奥の深い建物だった。ようやく開けた場所へ出ると、そこは先ほどの店の勝手口のようだった。変形十字路のように両脇と奥にも迷路のような細い通路があるが、その先にはやはり通路をふさぐ壁があった。
「一年ぶりだな――」
暗がりから聞こえた声の方向に目をこらした。背中を丸め、二段ほど積み重ねたプラスチックのビールケースに腰掛けた男がいた。
「週刊誌の記者か?」――まだ彼の名を知らない。
「気安く言ってくれるね」――そう言うと男はタバコに火をつけた。一瞬だが、そのライターの炎で彼の顔が明るく照らされた。一年前と違うところは、口元から頬にかけての白い無精ひげだろうか。
「――今のところ、それがあんたの名前だろ」
「そうだったな」
男の吸うタバコが赤く輝き、闇に煙が吹き出した。「ずいぶん派手に階段を転がり落ちたが、体に異常は残らなかったのかな」――一年前の事を心配して男は言った。
「いや、頭を強く打ったようだ。あれ以来、ものの考え方が少し変わったよ」
男は、ふふん――と鼻で笑った。
「どうしてまた私に会う気になった」
「あんたに会った翌日、おれは会社を辞めた。自分の中に不安が膨れあがっていたんだよ。いい機会を与えてもらったのかもしれない」
男は、ほぉ――。っと感心したように息を漏らした。指先に挟んでいたタバコを口にくわえて、上着の懐から何かを取りだした。「飲むか?」――そう言いながら、パチンと音を立ててスクリューキャップをねじ切った。差し出されたのはウイスキーのボトルだった。礼儀としては受け取らざるを得ない。男の手からそれをもらい、ボトルに口を付けて一口飲み込んだ。たちまち喉に焼けるような刺激が走り、熱い塊が胸元を下りていった。唇の端からつたうウイスキーを袖口で拭い、男にボトルを返した。
「今日は怪我をするなよ」――言いながら、男は自分でもそれをあおった。おれのように口を拭うような事はしない。いつもそうやって飲んでいるのだろう。慣れているように感じた。
「まずは、名前を教えてくれないか?」
暗闇の中、男は間を持たせるようにタバコの先端を輝かせて、紫煙をはき出した。
「知りたいか?」――言うと再びボトルをあおって、おれにも差し出した。
「遠慮しておくよ」
こんな暗がりで酒盛りするつもりで来た訳ではない。おれはズボンのポケットに両手を突っ込み、それを態度に表した。
「少しは成長したようだな」――男はボトルのキャップを閉め、懐にしまい込んだ。
「北村と呼んでくれ。――訳があって詳細までは教えたくない。きみに迷惑がかかるからね」
「迷惑なら、もう十分かかっている。それより、山神永真という人物について、あんたの知りうる限りの事をおれに教えてはもらえないだろうか」
「どこで仕入れた情報だ?」
「あんたが送りつけたんじゃないのか? ――七瀬弘庸の娘、千夏に」
北村と名乗る男は、また、ふふん――と鼻で笑った。
「なかなか、いい読みをしているじゃないか。――その通り、手紙は私が送りつけた。で? きみらは出会う事が出来たのか」
「なにが目的だ」
「私の命を狙う男の、正体を知るためさ」
一年前にも、同じように命を狙われていると男は言った。そして過去には親父にも気をつけるようにと言葉をかけ、そのわずか二日後に、寺田武文は、たった一つの命を落とした。
「山神永真という男が、おれの親父を殺し、あんたの命まで狙っている。そう言いたいのか?」
「――そうだ」
「週刊誌の記者が、いったいどんな情報を手に入れたのか知りたい」
「――私もその道ではプロなんだ。それなりの信念を持って仕事に臨んでいる。それこそ命がけで仕入れた情報を、甘っちょろいガキにたしなめられたから教えるってのもしゃくに障る。知りたいのなら、それなりのモノを提示してもらおうか」
男の言うモノとは、紛失した警察手帳の事だろうかと思った。しかし、互いに腹のさぐり合いでしかない今は、まだその事を口に出すわけにはゆかない。
「残念だが、我々三人を集めたところで何も出て来やしない。だからこうしてあんたに会いにきたんだ。なにかヒントをつかめるかもしれないと思ってね」
「なら、せいぜいでかい態度だけは慎む事だ。昔の私なら、とっくにきみは叩きのめされている」
確かに男は歳をとっていたが、広い肩幅に胸板も厚そうな体格だ。長身の部類に入る自分でも、取っ組み合って勝てる自信は無い。
「北村さん、あんたとケンカする気なんか初めから無いよ。おれの言い方が悪いのなら謝る。だから教えてくれないか、どうして山神永真という男がそうだと決めつけるんだ?」
「まあ、私もあまり時間が無い。からむのはよそう。――正直を言うと、私も永真という男を知らんのだよ。もっとも、凶悪な知能犯という情報だけは人づたいに聞いているがね」
「じゃあ、我々三人が集まるように仕組んだのは?」
「きみらがその男に監視されていたからだ。バラバラだったその三人が集まれば、やつも慌てて動き出すと思った」
「――つまり、おれたち三人は〝囮〟って訳か」
「そうだ。まことに簡単な作戦だろう?」
「その男が実際に目の前に現れたなら、その時はどうするつもりだ」
「――さて、どうしようか。少し前の私なら職業としてのスクープを狙ったのかもしれないが、今は単純に奴の正体が知りたいだけだ。後の事は、それから考えるよ。それより、きみらにはそれぞれ特別な思いがあるだろう。煮て食おうが焼いて食おうが、私にはそれを止める権利はない」
「一つ分からない事がある。あんたは全てを知っているようだから教えてほしい。おれと伊藤雄一については、長いあいだ監視されていたから、その山神永真という男がかかわっているというのもうなずける。だが七瀬千夏、彼女はどういう関係があるのだろうか。彼女の父親もすでに亡くなってはいるが、死因は自殺。おれたちとは違うような気がする」
「彼女自身は関わり無い。だがな、七瀬製薬の社長、七瀬弘庸は、山神永真に追い込まれて自殺したのだよ」
「――詳しく話してくれ」
「いいだろう」――言うとタバコを深く吸い込んだ。
「――今から二十年ほど前の話だ。私は七瀬製薬の取材に携わっていた。当時、七瀬は会社の存続にかかわる重大な局面にさしかかっていてね。社運を賭けて開発した全く新しい抗潰瘍剤とかが世界の注目を集めていた。それまでの概念を覆す理論で作られたというそれは臨床試験でも飛躍的な好結果を記録し、それが製品化された際には市場を席巻するのは確実視されていたんだよ。――折しも世界のトップスリーに入ると言われるカナダの製薬会社との業務提携が七瀬に持ち上がっていた。それまで国によって保護されていた国内製薬産業も転換期を向かえ、外国資本の乱入がすぐそこまで迫っていただけに、七瀬製薬も基盤強化をする必要に迫られていたんだよ。――しかし相手がでかすぎた。単なる業務提携にとどまれば旨味が少ないばかりでなく、国内のライバルメーカーにシェアを奪われかねない。欲を出せば巨大資本に飲み込まれてしまうという危惧の狭間で、社長の弘庸は、どうあっても新薬の開発、販売を成功させて、提携を有利に進めなければならなかった。――たとえ、臨床試験のデータを偽ってでもな」
言われてみれば、自分がまだ高校生の頃、臨床データのねつ造だとかのニュースで七瀬製薬の名を聞いた記憶があった。だが当時はどれほどの興味もなく、すぐに忘れてしまう程度のことでしかなかった。
「――全国紙の新聞にスッパ抜かれて以来、連日のようにテレビのニュースでも取り上げられてな。一時は社長の座を追われるのは目前とまで言われていたんだよ。――しかしだ、一ヶ月後にむかえた株主総会では、大いに荒れるとのおおかたの予想をくつがえして、なぜかシャンシャン総会でめでたく社長の座は揺るがない事を内外にアピールした。――わずか一ヶ月の間に、何が起こったのかわかるか?」
「考えられるのは、総会屋か何か、裏での細工があったとか――」
「正解だ。そこで噂されたのが山神永真だった。当時、その男は方々の企業に関係し多額の報酬を得ていた。七瀬にもかかわっているとされたそいつが、片っ端から力ずくで株主を説き伏せたことは誰の目にも明らかだった。――まあ、そこまでは七瀬弘庸も運が良かったと言えたのかもしれない。だが、永真につけ込む隙を与えてしまったのは、企業として賢い選択とは言えなかった。ああいう手合いは一度味わった旨味を忘れずに何度でも欲しがる。七瀬も例外ではなかった。用心棒代金と称した大金を長年に渡って要求されるのかと、恐れた七瀬は考えた。どうしたら永真と手を切れるのか――。答えは簡単だ。警察の力を借りる事だった。七瀬は知り合いの警察署長に内々の相談を持ちかけた。もちろん、永真を逮捕て会社を健全な状態に戻すためにだ。そして隠密のうちに捜査は開始されたが、担当刑事の伊藤儀行は、永真の正体をつかみかけたところで返り討ちにあった」
一連の説明を聞いて、ようやく三人が関係している理由が分かったような気がした。
「そしておれの親父に証拠を託した――。そう言うのか?」
「流れからは、そう考えるのが妥当だろう」
「管轄の違う伊藤儀行に、どうして親父が張り付いていたのだろうか。捜査の目的をあんたは知っていたのか」
「私もそこまでは分からない。身に危険を感じた永真が対抗手段をとったとも考えられる。――一説によると、永真という男は右翼として政界にも通じていた時期があったというから、そういったコネを利用して別の情報を警察に流したとも考えられる。――昔から神奈川県警と東京の警視庁とはウマが合わない。そんな事情を逆手にとったのかもしれんな」
「つまり永真は警視庁に対して、神奈川県警の伊藤儀行についての不穏な情報を与えた。――真面目な男だったというのに、死後は周囲の見方が良くなかったのも頷けるという訳か」
雄一が嘆いた時の様子を思い出していると、立ち上がった男は、指先につままれていたタバコを足元に投げ捨てた。「やつは悪魔のような男だ。きみのお父さんまでな――」言うと、つま先を前後に擦りつけるようにしてタバコをもみ消した。
「少し引っかかる」――まだ男の言葉全てを真に受ける訳にはゆかない。会話を自分のペースに戻そうとした。
「山神永真がおれたち三人を監視していた事を、なぜ知った」
「私もきみたちを見張っていたからさ。そこへ、いかにもチンピラ風のガラの悪いのが現れるようになった。――少しばかり金がかかったが、きみらの監視結果の情報を、永真と私の両方にながさせた。もっとも、その男も最近では姿を隠してしまったがね」
北村は、その依頼主が永真だという、何らかの確証をつかんだような言い方をした。
「監視の目的は?」
「金だよ。――きみたち三人の中で、誰かが大金を手に入れる事のできるカギとなり得る、消えた警察手帳の行方を知っている――。少なくとも、監視していた男はそう思い込んでいるようだ」
「それはどういう金だと?」
「想像だが、大金となると、永真が企業から集金した金の事を指すのではないかと思う」
「用心棒代ってやつか。――あんたがそう思うからには、何か根拠があるんだろう」
「――巷の噂とでも言っておこうか」
「調べ回ったのか――」
「まあ、そんなところだ」――それ以上は言えない。北村は顔を背けて態度に表した。
「おれに振り込まれた金の事は、どうして知っている」
北村は言葉を探すかのように間を置いたが、しばらくして、思い切ったように振り向いた。
「まだ七瀬弘庸が生きていたころ、本人の口から直接きき出した。――きみの父親の死に、自分が関わったと思い込んでいたようだ」
それには驚いた。――父と製薬会社の社長とが、いったいどんな関わりをもっていたのだろうか。
「残念ながら、彼はそれ以上のことをあさかないまま、自らの命を絶ってしまった。――おそらく長いあいだ自分自身への責め苦にもがいていたのだろう。そういった形でしか、きみに対しての償いはできなかったようだ」
「伊藤雄一に対して同様の償いをしなかったのは、どう説明する」
「七瀬はきみの存在しか知らなかった。というより、伊藤儀行という刑事は七瀬に直接かかわっていない。だから存在すら知らなかったということになる。――もっとも、きみらはそんな金など無くとも、父親の死によって下りた多額の保険金が手元にあるだろうがね」
北村の言うとおり、父の死により、まとまった額の警察共済金は下りていた。それを使えば当分の生活に困らずにいられたのだろうが、父の命の代償となったそれに手をつけることは出来なかった。べつに大義名分が必要なわけではないのだろうが、それでもいつかは自分も幸せな家庭というものを持ち、生まれてくる子供のためにでも使えるものなら、それなら父もほほえんで見守ってくれると、そんな漠然とした思いはあった。だが、それも結果として、父の死にまつわる金に頼っていたとすれば同じ事。確かに彼の言うとおり、自分は世間に甘えきっていたのかもしれない。
「――七瀬弘庸の死は、あんたが追い込んだ結果じゃないのか」
「調べた事実を突きつけただけだ。根底にある原因は、やはり永真だよ」
「なぜ、そんなに自信がある」
「――気になるか?」
「当たり前だろ。そこまで何でも知っているのに、警察へ届けないってのも不自然としか言いようが無い」
「そんなふうに受け止められるとは思わなかったよ。せっかく親切に教えてやっているのにな」
その時、通路の奥で、ゆがんだドアがハネて開いたような音が聞こえた。暗闇の中、とっさに北村と顔を見合わせ、互いの表情を確認した。
「つけられたのか」――北村は言うと、おれの肩口をつかんで窓明かりの届かぬ暗がりへ引きずり込んだ。そしてビル空調のうなる室外機の方向を指さして、〝まっすぐ走って逃げろ〟――。小声で囁いた。見ると、その暗がりは二メートル足らずのビルの隙間だった。振り向くと北村は勝手口のドアに逃げ込んで行った。
ひとり取り残されると不安に襲われる。自分がつけられるとすれば、それは山神永真に関係する者としか今は思えなくなっている。凶悪な男の手先が、北村か、あるいは自分を狙っている。そう考えるとその場にとどまる訳にはゆかなかった。ビルの隙間は三階あたりからの弱い明かりが反射しているだけで、足元まではその明かりも届いていない。そこに背丈ほどもある何台もの大きな室外機が並んで張り出している。それを避けながら足音をたてないように走った。
突き当たりまで来ると、今度はしっかりとした合板でふさがれ、その中央にはアルミ製のドアがある。ノブの内側には回転式の施錠ツマミが鈍く光って見えたが、壊れているのか動かない。指先が痛くなるほど力を入れてみるが同じことだ。後ろから誰かが追いかけて来はしないかと、一度振り向いて確認してから合板の上に目をやった。高さは二階の窓付近まである。とても乗り越えることなど不可能だ。とりあえず一番近くの大きな室外機の陰に身を隠した。心臓の鼓動は速まり、荒い呼吸を消す事が出来ない。それでも必死にこらえて息を潜めた。誰かの足音が遠くで聞こえる。一人ではない、二人以上の複数だ。小走りにその足音が交錯している。
――冗談じゃない、こんなところで、殺されてたまるか。
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