ブルー・グラデーション

誰かが見ている。
上原ゆたか
上原ゆたか

第二章

公開日時: 2021年3月24日(水) 10:43
更新日時: 2021年3月24日(水) 18:25
文字数:5,574

「どうだ! 海はいいだろう」

 低くうなるボートのエンジン音と波しぶき。それらを後方に追いやる風音にも負けない大声で長谷川は言った。

 フライブリッジに照りつける太陽に眩しそうな目を輝かせ、子供のように無邪気な笑顔で舵を握る。いつも収まったように整えていた髪も風にほどかれて、この上ない開放感を味わっているようだと思った。


 マリーナを出てからどのくらい経つだろう。エンジンを止めて、いだ洋上を漂うボートの最上階から見下ろす東京湾の外側は、青い空色の溶け込んだ、恐いほどに深く輝くコバルトブルーの海原だった。

 銀の細ぶち、しゃれた眼鏡の奥でうれしそうに目を細めながらフライブリッジを下りた長谷川は、真下にあるキャビンの中から「ビールでも飲むか?」と声をかけた。

「――いいですね」

 まさに初夏の日差しを、両腕を広げて感じていた。そこから見えるのは遙か遠くの日本という名の陸地のみ。ここには雑踏も時間も無い。きらきらと輝く波間だけが全てだった。

「たまに一人でここへ来るんだよ」

 後ろから、缶ビールを二つ持った長谷川がはしごを上りながら言った。片方の缶ビールをおれに手渡すと、肘掛けのついた白いキャプテンシートに腰を下ろしてから、缶のリングを起こした。

「私はアルコールを飲まないたちなんだが、天気の良い海の上だけは別だ」――そう言いながら一口あおった。おれにもそれを飲むようにと、笑顔で空いている左手を差し出してすすめた。

 町なかのバーでそんなポーズをしたならさぞかしキザな伊達男と取られるだろう。しかしここでは少し事情が違う。誰に気兼ねする必要も無ければ、思い通りおおらかに振る舞うことができる。言い換えればそれこそが自然な姿で、理性で固めた虚像は存在の意味がない。――自分自身をさらけ出す事の出来る、まったくの別世界がここにある。

「いつかきみを連れてきたいと思っていたんだ」――眼鏡を外して太陽に顔を向けた長谷川は、目を閉じ、うっとりとした表情でそう言った。

「飲酒運転てのは、海の上でもあてはまるんでしょう?」――素朴な質問を返した。

「ああ、確かにね」――にこりと目尻を下げて答えた。駆け足で生きてきた男にとって今口にしているのはアルコールではなく、医者に与えられた人生の処方箋のようなものだという気がした。

「ここへは、いつも一人で?」

「――私にも必要な無駄はあるんだよ。張りつめた仕事ばかりしていると頭の中が腐ってしまうからね。だからここに来る。すると、太陽と時間を支配したような錯覚に陥るんだ。――それがたまらない」

 太陽と時間。本当にその二つを支配出来たなら――。おそらくそれは、長谷川の本音に近い部分なのだろう。

「――私はまだどれほどの金持ちではない。この船は少し贅沢過ぎる。じゃあ、なぜそんなもったいない事に金を使うのかと、おそらくきみの頭の中にはそんな疑問が浮かんでいる事だろうね」

 洋上を見つめていた視線を長谷川に移した。確かに今、そんな事を考えていたような気がした。にこりと笑った長谷川は、勝手にその理由を話し出した。

「――ずいぶん前の事になるが、ヨーロッパ進出の足がかりにと、イギリスにある大手デパートのオーナーと直接会う機会を友人から設けてもらったことがあった。さっそく商談に取りかかった私に向かって、そのイギリス人オーナーはこう言った。日本には海があるのかね――。私は当然という表情で、――もちろんあります。イギリスと同様、周り中が海ですよと笑って返した。するとオーナーは驚いたように言った。――ほう、それなら、ボートくらいは持っているんでしょうな」

 終始笑顔の長谷川だが、彼が何を言いたいのかは想像がつかない。

「――まだ駆け出しだと自分でも分かっていた私は、もちろんボートなど持てる身分ではなかった。正直にそう言い返すと、オーナーは、それきり私を相手にしようとはしなかった。――私はそのとき、〝やられた〟と思った。イギリス人が気位の高い国民だとは聞いていたが、その中でもとびきり上流階級の彼にとって、有色人種であるアジアからの客など、まるで眼中にない事を知らしめたんだよ。彼にとっては、大きなボートを所有しているかどうかが、商売相手としての判断基準だったんだ」

「ステータス、ってやつですか」

「そういうことだ。――ずいぶん悔しい思いをした。すぐに私は知人と共にスペインへ飛んだ。ビーゴという田舎町から車に揺られて三十分。とある造船所に着いたよ。目的は、自分が購入するための船をこの目で確かめたかったからだ。一緒にいた知人はボートに詳しかった。彼の指さす船を、その場で契約した。――とんぼ返りでイギリスへ舞い戻った私は、それからどうしたと思う?」

 またもや長谷川は謎かけをして楽しんでいた。分かるはずもない答えを要求するのは、彼の得意とするところだ。

「もう一度デパートのオーナーに会いに行くのでは社長らしくありませんね――。だとしたら、そいつの鼻を明かす方向に社長は動いた。――違いますか?」

 長谷川の考えそうなことの少しずつ先が読めるようになっていた。そんなおれが気に入っているかのように、長谷川は声を出して笑った。

「驚いたな。いつの間にきみは私の心が読めるようになった? 。まさしくその通りだよ。イギリスへ舞い戻った私は、デパートのオーナーの商売敵である量販店チェーン最大手のドンに直接かけ合った。悔しい思いをしたことを正直に打ち明け、その足でスペインまで行きボートを購入したことも伝えた。――いやぁ、イギリス人は皆、気位が高いと決め込んでしまった自分が恥ずかしかったよ。その男は正真正銘の紳士だった。私の両手を握りしめ、そして言った。――そいつに一泡吹かせてやりましょう――。ってね」

 長谷川は得意げに微笑んだ。結局は彼の術中にはまった紳士が一人いたというだけの話だった。

「それがこの船なんですか」

「そうだ。日本へ帰るとすぐに船舶免許を取った。――私はそのイギリス紳士に約束したんだよ。船が出来上がったなら、必ずあなたを最初に乗せるってね」

 商売敵を焚きつけた長谷川の商才がまさったという結論だった。もとより、この男に失敗という文字は似つかわしくない。

 缶のビールを一つ飲み干すと、何気なく海に触れてみたいという衝動に駆られた。それは多分、それまで不足していた太陽の日差しを十分に浴びた後遺症のようなものだろう。

 フライブリッジ後方の穴からはしごをつたって下りて、豪華なキャビンを横目に船べりにもたれかかった。無風快晴。全く風の無いべた凪でも、船上で動けば少しは揺れる。その心地よい揺りかごのようなリズムに我を忘れて、足元のゆったりと青く透き通る液体を船のヘリから見下ろした。どこまでも深く青い底無き異次元を見ているような錯覚をおぼえる。その液体は自分の足元から世界じゅうの海にまでつながっている。そう思うと、体の中の不浄なものが溶けて流れてゆくような気がした。

「どうだ。少しは気分をリフレッシュできたか」――後ろから長谷川の声が聞こえた。夢から引き戻されるような気がした。わずかばかりのアルコールの魔力は、長く続かない。

「――ええ、海が静かなものだということを、今日、はじめて知りましたよ」

 長谷川は不思議そうに見返した。

「いつも波打ち際でしか海を見た事がなかった。そこには打ち寄せる波の音がつきものですからね」――納得したように長谷川が鼻で笑った。

 キャビンの脇にはRodman・1250と船の名称が海の青さにあわせたような色合いで書かれている。後半の数字は船の長さを表すものらしい。個人所有のモーターボートとしては豪華過ぎる印象を受けてしまう。バブル景気に浮かれた時代は、とうに去っているというのに。

 この船に乗り込んだ経緯いきさつは、例の誘拐事件以来、暴力団関係に詳しくなったと、めずらしく自慢げに話した長谷川の言葉を思い出したからだった。電話をかけ、そして聞いた。――山神永真という男のことを知りたい。――長谷川は、なぜそんな事を聞くのかと心配した。しばらく考え込んでから、迎えの車をやるからそれに乗るようにと言われた。一時間ほどしてアパートの前に黒塗りの乗用車が停まった。車種は分からないが、ずいぶん大きな外車だった。目つきの鋭い無口な運転手は三~四十代くらい、自分より少しは年上のように見えた。横浜にあるマリーナに着くと、そこで待っていた長谷川に半ば強引に船に乗せられた。東京湾を出て三浦半島を横目に、遠く野島埼まで過ぎると陸の気配が消えた。それまで経験した事のない心細さと開放感。振り向きさえしなければ、そこには確実に現実と切り離された世界があった。

「見ろよ、この海の色を。どんなにうまく絵の具を混ぜても表現できるものでは無い。なぜだか分かるか? ――生きているからだよ。空の色や太陽の光までをも取り込んで生命の宿る海原がある。単純で複雑なものが同居している、それが海なんだ」

「世界観が変わるような気がしますね」――自分の生きてきた人生が、いかに了見の狭いものだったのかは、おのずと知れるというものだ。

「山神永真という男のことを知りたい――。そうきみは言ったよね」

 長谷川は自分と同じように船べりにもたれかかり、けがれれた現実を思い起こすかのように表情を曇らせた。

「――その世界では有名な人物らしいが、どちらにしろヤクザに違いはない。なぜそんな男に興味を持つ」

「どうやら、その男につけ狙われているらしいんですよ」

 長谷川はその言葉にぎょっとした表情を返した。

「――いったいきみは何をした」

「おれというより、刑事だった親父に原因があったようです。その男と連絡をとる手段はないでしょうか」

 それには困惑したように、長谷川の目はうろたえた。

「何があったかのか知らないが、そんな人間とかかわるのは利口とは言えないな。――決して良い結果など期待できない」

「それは話してみなければ分からないでしょう。永真という男が勘違いしているのなら有り難いかぎりだし、そうでなかったとしても結論は出る。――はっきりさせたいんですよ」

 長谷川と目を合わせた。自分の考えている事が尋常ではないことを十分承知している。そんな視線に長谷川はされていた。大きなため息を吐きながら、からんでいた視線が水面みなもに落ちた。「――きみとは長い付き合いになる。叶えられる事は私も協力を惜しむつもりはないが、相手が悪い」

「しかし、逃げてばかりでは先へ進まない。それは社長が一番よく知っているはずです」――常に闘う事が長谷川にとって生きる証だった。つい今し方もそんな話をしていたのだから、こちらの言い分も理解しなければならない立場だった。

「商売をしていると色んなやからにからまれる。私が誘拐された時もそうだった。――あの事件以来、そういった連中にでも対処できる体制を整えることが必要だと思った。手を尽くして信頼できる人物を捜し出したよ。何も出来ない警察と違い、そいつらは自発的に害のある元に手を加える。おかげで、それ以後は私をつけ狙う連中も姿を消した。問題処理を専門に受け持つ表には出ない連中だ。彼らなら、その山神永真という男についても知ってはいるだろうが――」

 かつて長谷川の下で働いていた頃にそんな噂を耳にしたことがあった。みるみるうちに大きくなる会社だったからだろう、その頃は、黒い噂の一つや二つ、あって当たり前くらいにしか思わなかった。

「たのんでもらえますか」

「――話は通してみる。だが難しい世界に生きる奴らだからな」――責任は持てんよ。と、小声で付け足した。

 この船はキャビンから一段下りたところにキッチンを備えていた。L字型に切られたギャレイには2口のバーナーまであり、キャビンの丸いテーブルや、カーブしたカウンターキャビネット同様、磨き上げあられた上質な杢目のチーク材がふんだんに使われて高級感をみせる。そこで長谷川はパスタを調理し始めた。いつの間に食材を用意したのか、エビやアサリをオリーブオイルとブラックペッパーでからめた、簡素だがスパイシーなシーフード仕立てだった。それに舌鼓をうちながら、永真という危険な男に関わることになった経緯いきさつを簡単に説明した。はじめに三人が引き合わせられたこと、長年に渡って監視されていたこと、そして、その全てをコントロールしていると思われる、北村という週刊誌の記者に会ったこと――。

 長谷川の反応は意外なほど落ち着いて見えた。質問するでもなく、口出しするでもなく――。ただ黙って、たまにうなずく、それだけだった。物足りないと思うか、それともそれが有り難いと思うのかは受け取り方次第だった。

 それきり、長谷川の口からは二度と永真に関する話は出なかった。深くは干渉しない。それが闘う男の姿なのかと思った。


 うららかな日和ひよりも午後三時を過ぎる頃になると、にわかに冷たい風が海面うなもに白波を送り込みはじめる。キャビンからガラス越しに見える水平線は、いつの間にか色彩をうすめていた。暖房を効かせたロアー・ステーションで帰路の舵を握る長谷川は、今し方の約束に後悔するようなため息を吐いた。

「武さんが生きていたなら、私は何を言われるやら」――しみじみとした口調だった。遠い過去と今とを埋める手立てが見あたらない――。そんな様子だった。

「親父が生きていたなら、おそらくすべてを任せる。――おれはそんな年齢としになったんですよ」

 キャビンに備え付けのソファーに深く腰を沈め、長谷川の後ろ姿を見ながら言った。長谷川はわずかに耳を向けると、仕方なく納得したように、二~三度ゆっくりとうなずいた。


 しばらくして三浦半島らしき陸地が迫ると妙なもの悲しさに見舞われる。それほど、現実という世界は住みよいところでは無いという事なのかもしれない。

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