夜になる。幾ばくかの星の輝きすら蔑ろにされる不浄な都会の集魚灯。そこに群れる人波から逃れるように、奥まった店の入り口へと一人で足を踏み入れた。そこを突き当たると横にある黒い自動ドアが開く。二~三歩中に入ってから店内を見回した。重低音の波動が次々と鼓膜に襲いかかる。不慣れなそれに目眩に似た脱力感を覚えたとたん、頬のこけた女性がしなやかな足取りで近づき、当然のような表情で腕に絡みついては巣穴の奥へと引きずり込む。
彼女らにとっての獲物となる客の入りは少なかった。壁の時計は七時を過ぎたばかり。まだにぎわう時間帯ではないのだろうか。ソファーに腰を下ろしてもまだ腕を放さずにいるのは、一目で分かるほど化粧のうまい男だった。小柄なせいか見た目は美人だ。しかし、細長い首の中央に飛び出した喉仏は、どうにも隠せるものではない。
とりあえずビールをオーダーした。ミニスカートの似合う厚化粧の男は、たっぷりとマスカラを塗り込んだ大げさなつけまつげをゆっくりと動かしながらカクテルを飲んでもいいかと甘えた。どちらかといえば会話は避けたい心境だ。黙ってうなずき、彼女の要求は飲んだ。それとなく視線を一周させて様子をうかがうとカウンターに座る女性と目が合う。さも親しい友人にそうするように、小さく手の平を上げて挨拶をした。満面の笑みを浮かべた女性はカウンターを離れ、こちらに向かって歩み寄った。
「ユウカさん――だっけ」
「やだぁー。覚えてた?」――彼女は大げさに両手を広げて喜んだ。すでに隣に座る頬のこけた男の存在は不要だった。今は無口な男より、おしゃべりな女性の方が、好都合だ。
「きみもカクテルなんかどう?」
「あら、頂くわ」――言った後の笑顔が引き締まって見えた。この女性は口元から頬にかけての筋肉が発達していて豊かな表情を振りまく。隣の男もつられて、笑顔を造った。
注文のカクテルとビールをウエイターが運んできた。手際よくユウカがグラスを満たし、三人でグラスを合わせた。雰囲気を察したのか、頬のこけた男は一口それを含むと、頃合いを見て席を外した。
「今日はきみに会いたくて来た。そのエキゾチックな瞳が忘れられなくてね」――心にも無い言葉が口をついた。
「――こういう店だから、男だとか女だとかで相手を選ぶつもりはないんだが、きみはいったいどっちなんだ?」――適当な会話で親近感を作り出す。もちろんその間も笑顔は絶やさないよう心がけた。ユウカはどうやら本物のようだった。それさえ今はどうでもよい。それとなくマユミの話しに持ち込む。
「――あら残念ねぇ。あの娘、急に辞めちゃったのよ」
「ずいぶん若かったけれど、彼女、独身だったの?」
永真に狙われている北村と何らかの関係のある女性だ。居場所を突き止められてまずいと思えば、彼女も同時に姿を隠すと思ったが、どうやらその勘は当たっていたようだ。出来れば二人の関係を聞き出し、少しでも手がかりがほしいところだ。
「彼女、少し変わってるのよ。自分の親ほど歳の離れた男と一緒に住んでたみたい。本人いわく、肉体関係のない同居人だって言ってた」
自分に関係の無い他人の事となると思いのほか良く喋る。人間的にはそういった部類は好かないが、目的のある今は必要な情報を探り出せればそれで良かった。
「こういう場所には似合わない雰囲気だったよね」
「ほんと、やる気があるのって、いつも思ってたわよ。――でも、あれでなかなかここが良いみたいなの」――ユウカは自分のこめかみあたりを人差し指で数回つついて見せた。どうやらそれは、マユミという女性の知能を指しているようだった。
「頭が?」
「ホント物知りでね。特にクスリ関係には強かったのよ」――ユウカはそう言った直後に体の前で右手の平を横に振り、慌てて否定のポーズを見せた。
「誤解しないでよ。クスリって言っても危ない種類のものじゃ無くて、風邪薬とかのたぐいのもの。そうそう、特にビタミン剤とかには明るかった。――私、肩こりがひどくて彼女に相談した事があるの。そしたら、効果的なビタミンの組み合わせから接種方法まで説明するのよ。びっくりしちゃったわ。で、すぐにメモを取って薬局で見せたら、薬剤師にでも相談したのかって言われたくらい」
「つまり専門的だった訳だ」
「そうなのよ。それも私だけじゃなくて、この店の娘は何人も彼女の処方箋に救われているの。サプリメント・オタクが増えたのは彼女のせいよね」
その話を聞いて、すぐに千夏を思い浮かべた。彼女は医師というだけではなく、その父親は国内でも有数の製薬会社の社長だった。――ひょっとするとという、闇雲ではあるが、どこかで何かがつながっているのではないのかという気がしはじめていた。さしあたって考えられるのは血縁関係だったが、もしそうだと仮定した場合に、はたしてまだ二十二~三の若い彼女が、いったいどういう経過をたどってこんな店に勤めなければならなかったのかと、想像だけではその先がついえてしまう。
それ以上の収穫は無いと判断すると、手早く会計をすませて店を出た。一度は後をつけられて不安な思いをした。通りへ出てしばらく歩いてから、それとなく後ろを振り返り、そのまま三百六十度、隅々まで視線を這わせた。不審な者は視界に映らない。安心と同時に、ほとんどが二人以上の複数で歩くというのに、ただ一人、臆病に周囲を警戒する自分の方が、今は、よほど不審な人物といえる気がしていた。
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翌日、知り合いのツテを辿って週刊ライトの秋山という編集者と会う事ができた。場所は秩父宮ラグビー場もほど近い青山の質素なカフェを指定されていた。――その男は以前、七瀬製薬臨床試験データねつ造の記事を書いている。ひょっとすると何かつかめるかもしれない。
挨拶も早々、秋山は親しみを込めた笑みを浮かべてコーヒーをすすった。
「いやぁ、七瀬のことで話しを聞きたい者がいるって言われたとき、正直、少し嬉しかったんですよ」
意外なほど好意的だった。
「どうしてです?」
「あの記事を書いたのは今から二十年以上も前の事。私がまだ三十二歳の頃でした。こう見えても当時は熱血漢でしてね。新聞社さんにすっぱ抜かれたのは痛かったですが、私の方が数倍は詳しく調べていました。まさに不眠不休で駆けずり回って仕上げた、そんな甲斐あってか、あの記事は三ヶ月にわたって連載するほど好評だったんですよ。ですから、今でもあの記事に興味を持ってくれる人がいてくれるという、それだけで嬉しいんです」――終始にこやかに話す。五十を過ぎているとはいえ、真っ白になった頭髪は、それなりに入れ込んで取材する真面目な性格を連想させる。
「寺田さんが知りたいという、当時の資料を持ってきました」
秋山は、黒い革製のショルダーバッグを膝の上で開くと、中から分厚いスクラップブックを取りだし、順を追って七瀬製薬臨床データねつ造の取材経過を説明してくれた。初めのうち、それは北村の言葉通り、寸分の違いもないように感じたのだが――。
「――七瀬製薬ほどの大手となると、本来の薬品だけでもじゅうぶんやっていけるはずなんですが、新薬に対する特許有効期間の二十年が過ぎると、他の製薬メーカーから発売される有効成分が全く同じ医薬品、ジェネリックとか、ゾロと呼ばれる後発薬が価格を下げて出回ったりするんです。今でこそジェネリックの安全性は確立されていますが、当時はまだ規模の小さい製薬会社が取り組むものという偏見が医師の間にはありましてね。ブランド品ならばバックアップ体制も大きいとの安心感から、ジェネリック品自体は人気薄だったんですよ。それなのに七瀬は、あえて危険な賭けに出た。――背景には、ライバル関係にある大手の薬品メーカーまでが、特許切れとなった七瀬の主力商品のジェネリック品を、こぞって販売しはじめたという事実があったんです。実際にそれらを使う医師にしてみれば、名の通った大手でさえあれば、古いものにこだわらず新しいクスリも試してみたくなるようなんですね。当時私が調べたところ、七瀬の経常利益は緩やかながら下りカーブを描いていました。――経営者としては、縮小するシェアを放置する訳には行かなかったんでしょう。まだ問題を抱えていた未完成の抗潰瘍剤を当時の厚生省に対して販売許可申請を出したんです。ところがある日、中央薬事審議会の方から疑問の声が上がりましてね。その話が、たまたま私のところまで聞こえた訳なんです。それで調べてみると、どうやら内部告発による臨床データねつ造疑惑が浮上していたらしいんですね」
「それは七瀬製薬の内部から、ということですか?」
「そうです。――で、私はその告発した人物を特定するために七瀬に張り付きました。ところが、当時すでに資本金五百六十億、従業員数八千名を抱える大企業でしたからガードも固い。全くと言っていいほど取材にはなりませんでした。直前に全国紙の新聞でも取り上げられていただけに、全社員に箝口令がしかれていたんですよ。――もっとも、一つ間違えば七瀬製薬は消えて無くなるという、文字通りの瀬戸際でした。社員にしても、自分の暮らしがかかっていますからね。――正面突破が難しいと感じた私は、取材の方向を変える作戦に出ました。目星をつけた数人に対して手紙を送ったんですよ」
「それはどんな内容だったんです?」
「回りくどい文章ではなく、端的に相手の心理を揺さぶる。そんな手紙でした。――内容は、過去の薬害事例を繰り返さないためにも、あなたは全てを打ち明けるべきだ――。ってね」
秋山の言葉を聞いただけで、何か考えさせられるような気がした。確かに端的で無駄のない言い回しなのかもしれないが、話しには続きがあった。
「それより遡ること六年、七瀬は感冒薬で薬害訴訟を起こされた経緯があります。一部の妊娠した女性に対して、脳出血など生命に関わる重大な副作用を引き起こしたとして被害者団体が結成され、当時の厚生省と七瀬製薬を相手取り提訴に踏み切ったのですが、なぜか政治力の介入をにおわせる、国と企業を保護するかのような判決が一審では下ってしまったのですよ。――もちろん被害者団体は控訴に打って出たのですが、裏で七瀬が単独の和解交渉を進めた結果、被害者団体そのものが消滅して、最終的には弁護団側から控訴が取り下げられるという、実に中途半端な結末となった裁判でした。しかし七瀬の社員にしてみれば死者まで出てしまった薬害事件としての記憶はぬぐい切れないはずです。私はそこに訴えたかった。――そして、手紙の締めくくりに、週刊ライト編集部の住所を書きました」
「それに誰かが反応してくれた訳ですね」
「ええ、残念ながら差出人のわからない匿名だったんですがね。それでも思いの丈を綴《つづ》ってくれました。全般的には会社の姿勢についての不満でしたが、少し気になる部分があったんですよ」
「たとえば?」
「そう、しいて言うならば、内部告発者でなければ知り得ない情報とでも言いましょうか」――秋山は少し顔色を曇らせ、間をおいた。
「――手紙の差出人は苦悩の日々を送っていたようでした。自分のした事は間違いで、地獄の責め苦にもがいていると書いてありました。でも、それは自分の判断では無いというような印象をもつ文章でした。――まあ、正直に言えば、そのときは気付かなかったんですけど、しばらくして七瀬製薬研究室主任の真壁という男が、臨床データねつ造に関わる贈賄容疑で地検の摘発を受けたという新聞記事が出てしまったんです」
「贈賄?」
「都内のある医大でおこなわれた治験のさい、担当医師ら数名に対して報酬を払い、見返りに、新薬の有効性を妨げる臨床データを排除させた疑いでした」
「その、真壁という人にも、秋山さんは手紙を出していたんですか」
「そう。私はその時、自分の取材は、いったい何を求めているのかというジレンマを感じずにはいられなかった――。だってそうでしょう。もしも真壁という男が内部告発に踏み切ったのだとしたなら、その男は世間に対して全てを打ち明けるべきです。――ところが真壁は逮捕後、贈賄に関してのいっさいを否認した」
秋山の言うことの意味が分からなくて、疑問の表情を返した。
「なぜだか考えました。真壁が態度をひるがえす理由があるとしたなら、それは脅迫以外あり得ません」――それまでのにこやかな表情は秋山の顔から消えていた。目の前の男は疑惑解明に心血を注いだ、ジャーナリストの顔つきに戻っている。
「それで、真壁という男は、その後どうなったんです?」
「嫌疑不十分ということで、結局無罪放免にはなったんですが、直後に七瀬製薬を自主退職して、すぐに」――秋山は、左手で自分の首を絞めるまねをした。「姿を消して一週間後、奥多摩の山中で自殺体として発見されました」
「自殺の動機は?」
「プライドです。――真壁は研究熱心で真面目な性格でした。無罪放免となったとはいえ、彼は七瀬にとどまる事が出来なかった。そして全てに絶望して死を選んだ――。当時の同僚らの証言からはそう判断されましたが、もし脅迫されていたとなると、おだやかな話では済みませんよ」
「――遺書とかは無かったんですか」
「ええ、遺書は見つかっていません。ですから余計に疑いたくなる」――秋山は、暗に他殺をにおわせた。
「その人に家族は?」
「ええ、奥さんと子供が一人いました。――ただ、しばらくして奥さんも後追い自殺で亡くなられて、かわいそうに、ひとり残された子供は父親の妹に引き取られましてね。――そうそう。たしか取材対象として、その方の住所もどこかに残されていると思います」
秋山はスクラップブックの最初のページに戻り、無数に貼り付けられたメモを探し始めた。
「――しかし、地検が動いたにもかかわらず、それでいて無罪放免というのも不思議な話ですね」
メモを探す手をとめた秋山は、その疑問に対して当然という表情を返した。
「寺田さんが言われるように、本来、地検が捜査に乗り出すには、それなりの準備と確実性があるものなんですね、それがあっけなくひっくり返った。――どう考えても、裏で強力な政治力が動いたとしか思えません」
「また、上からの圧力、ですか――。秋山さんがそう思うには、何か根拠でも?」
「当時、七瀬の主力薬品をターゲットにしたゾロ品の販売に踏み切ったライバルメーカーに対して、七瀬は法的手段で対抗していました。新薬の特許切れを待って販売された製剤といえど、実際には特許有効期間中に製品開発していた疑いがあるからです。いくらゾロ品とはいえ、製剤の開発と申請には最低でも三~四年はかかるものなんです。少し難しい話になりますが、裁判の争点は、製造承認を得るために特許期限切れ前に行う生物学的同等性試験等が、技術の進歩に寄与する試験又は研究に当たるか否かということになりました。もう少しわかりやすくかみ砕くと、単に商売として取り組んだのであれば、『特許権者は業として特許発明の実施をする権利を専有する』とした、特許法第六十八条に抵触することになります。――問題はそこです。なぜ大手の製薬メーカーが、わざわざ裁判に持ち込まれるようなゾロ品を投入したのか。調べてみると意外な事実が見えてきたんです」――秋山は時間を惜しむようにコーヒーをすすり、再び話しを続けた。
「七瀬はライバル2社から一斉攻撃を受けていた。その裏を探ってみると、どうやら七瀬がかかえる主力商品のゾロを、そのライバル社が次々に製品化してシェアを奪い取るという、いわゆる〝つぶし作戦〟に出ていたようなんです。と言うのも、当時の七瀬製薬は、巨大企業でありながら社長の権力が強すぎるワンマン経営でした。そんな七瀬弘庸の放漫がたたり、新薬の開発に手間取りすぎて過去の製剤に頼らざるを得ない状況に陥っていたんですねぇ。対するライバル社は、すでに海外の大手製薬メーカーと提携を結んでいて、新薬を開発するのに必要な莫大な資金にも事欠かなかった。睨まれてしまった七瀬の運命は、もはや風前の灯火と見られていたんですね。――七瀬弘庸も、そのことはじゅうぶん分かっていたんでしょう。まさに背水の陣、思いつく限りの対抗手段に打って出た。裁判で時間を稼ぎ、あと一歩とまで迫っていた新薬の承認を取り付けようとした。しかしそれが裏目に出ると、今度は政界への太いパイプを利用しはじめたんです」
「もしかすると、それをかぎつけた人物は秋山さんの他にもいたのではないでしょうか」
その時、北村から聞いた、父、武文が生前に調べまわっていた事に関係があるのではと思った。それに対して秋山は、うなずきながらも不思議な表情を返した。
「どうしてそう思われるのです? ――そう、確かに私の他にも、それに気付いていた人はいたようでした。でも残念ながら、私がそう思ったのは、七瀬弘庸に直接質問をぶつけたときに彼の口から漏れた〝お前もか〟――という言葉からの想像でしかありません」
「誰か分からないが、秋山さんと同じように、七瀬弘庸に質問状を突きつけた人物がいたという事は確かな訳ですね――」
それが刑事だった自分の父親なのか、それとも、記者だという北村が接触を試みたのか――。どちらにしても、彼の言っていた大企業の親玉と政治家の癒着に関係する話に違いないと思った。
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