「なんだって?」
「ほら行きな!喋りながらじゃ追いつかれちまうぞ!」
ばん!と送り出すように片手で茂嶋の背中を叩く。
きつめに叩かれ、茂嶋は前のめりにつまづきそうになりながらも加速する。
二度、三度と振り返りつつ足を止めずに進むのを見届けて、別谷は後方―茂嶋の逃げてきた方へ向き直る。
一〇メートル程の距離をおいたそこにはいつの間にか、追跡者である一人の少女が佇んでいた。
「……お前、何だ?」
情緒的な起伏が極めて小さい、今日びロボットの合成音声の方がマシだと思える程フラットな声で少女は言う。
女子高の制服を身に纏いながらも幽霊のように白い長髪を揺らすその姿は、確かに人間離れした存在に見えた。
「逃げたアイツを追いかけたいなら、それは叶わぬ望みだ。オレはお前の足止めのために、ここに立ってるんだからな」
「…邪魔……するなら、消す」
問答する時間も惜しいとばかりに城崎が動く。
子供のような口調に反して、その動きは俊敏そのものだった。
人体の構造からは考えにくい、左右へフェイントを織り交ぜて迫る姿はまるで地を這う蛇。
対して別谷が取った行動は至ってシンプルだった。
「そ、らよっ!」
腰を落として踏ん張ると、闘牛士がムレータを翻すように携えていた自転車を目の前に振りかざす。
ハンドルのみを掴んでいるため、慣性により車体がフロントフォークを軸にして回転。接近する城崎を側面から殴打する形になる。
相手の負傷を顧みない攻撃が迫り、
――刹那。
羽毛布団を滅茶苦茶に叩き裂いたかの如きくぐもった音が炸裂すると同時、別谷の手から自転車の重量が消失し、視界を埋める白煙が爆発的に拡散する。
その直前。
城崎は回避不可能な至近距離にあって、全く動じていなかった。
飛来する自転車に手を差し延べ、指先でフレームに触れた瞬間、フレームのみならずペダル、サドル、タイヤ、スポーク、ライトに至るまで全てのパーツが粉々に砕け散ったのだ。
生じた白煙から逃れるようにステップを刻みながら別谷は毒づく。
「マジに粉々じゃねぇか。おかげで帰りの足が無くなっちまったぞ」
「………」
城崎は応じない。
肉食獣が相手の出方を窺うように、じっと煙の中心から別谷を見据えていた。
今の攻防で確実に言えることは一つ。
(このシロサキって女は間違いなく病魔を抱えている。それも物体を爆発させるほどの威力…今回の事件への関与も充分に考えられる)
ただ、これより先の「対処」をするためには神流からの執行許可が必要だった。
連絡しようと別谷がポケットから携帯電話を取り出すと、
「――っ!」
それまで静観を保っていた城崎が目を剥いて急接近する。
先刻のフェイントも使わない、一直線の突進だった。
速さはあれど分かりやすい、その動きを別谷は一歩ずれるだけで回避する。
その間に神流と繋がった。
電話越しの挨拶などすっ飛ばして状況報告をする。
「シロサキと接触した!そっちへ逃がしたシゲシマの証言通り、道具を使用せず物体を粉砕する能力がある模様!今はシロサキの攻撃を受けてるところで―」
『了解した。その危険性は執行許可を出すに足る。自らの命を最優先に、可能な限り凌いでくれ』
「助かる!」
『アタシもすぐそちらへ向かう』
飛び掛かってくる城崎を柔軟な身のこなしで躱し続け、通話を切る。
闇雲な彼女の攻撃は、どちらかというと別谷でなく手に持つ携帯電話に向けられていた。
「オモチャにはしゃぐ犬だなお前は。シゲシマの無線機といいオレの携帯といい、通信機器に恨みでもあるのか?」
実際のところ、今の城崎音代を突き動かしているのは彼女の意識ではなく、普段奥底に潜んでいる本能そのものであった。
携帯という物体と、それが備える機能といった知識は脳を共有している以上、本能でも判別できる。
ただし、自身と周囲の状況を俯瞰的に捉え、これから起こる未来を予期する能力は人間としての意識が無ければできない。
故に目の前の分かりやすい脅威に集中し、本来の目的であった茂嶋の追跡を忘れてしまう。
(ま、コイツが獣だっていうなら、オレも他人のことは言えない…か)
別谷は、さっきから心臓の奥で疼いている衝動を確かめるように右手を胸にあてがう。
くらえ、喰らえ、食らえ、クラエ、と唆してくるソレは彼に刻まれた本能。
目前で暴れる病魔を喰らえと脳内で囁く。
既に執行許可は下りている。
これ以上抑える理由は、無くなった。
「…しぶとい、しね」
「―っ、ちぃ!」
この一瞬、自らの内に意識を向けた、別谷の隙を城崎は見逃さなかった。
ひと息で懐に入られた別谷はわずかに対応が遅れる。
この間合いでは一瞬の遅れが大きな差であり、
「くっ…」
破壊が迫る。
別谷は半身になって躱そうとするも、遅れた右腕に城崎の手がかかって、
「アァァァァァ!」
城崎の叫びと共に超常の力が発現する。
なんの予備動作も無く、触れたものを問答無用で粉々に吹き飛ばし――
「!?」
すれ違いざま、城崎は驚愕の表情を浮かべて「見た」。
今しがた触れたはずの、右腕を。
「っぶねぇ…というか普通にアウトだったよな、今」
当の本人は何事もなかったかのように腕の調子を確かめている。
その右腕には、黒い煙のようなモヤの残滓がちらついていた。よく見れば左手首から先にも同じものが、しかしこちらは濃くはっきりと生じている。
「おまえ、その、力は…」
「アンタに教える義理はねぇし、悪いがオレ自身もこの病魔については正しく理解している自信が無い」
投げやりに応じて、今度はこちらから攻めるぞとばかりに構える別谷だが、
「ひ、い…いやだ、それは…嫌だ!」
構えた腕から立ち上る黒煙を見た城崎がおののく。
蛇に睨まれた蛙のような。
出会ってはいけない天敵に見つかった、そんな表情だった。
「消えたくない!わたしはまだ、壊せていないっ!」
「あん?何を言って――」
言い終える前に、視界が灰色一色に染まる。
何ということは無い。ただ城崎が足元の地面を殴りつけ、その能力で半径一メートルぶんのアスファルトを爆散させただけだ。
辺り一面に舞う粉塵を吸い込まないよう口元をハンカチで押さえ、別谷はその場にしゃがみ込む。
耳に意識を集中すると、遠ざかってゆく足音が聞こえた。
「……逃げたのか?」
別谷は肩透かしを食らった気分になる。
「けどま、おかげで助かったのはこっちの方か」
深追いすることなく、そのまま視界が晴れるのを待つ。
右腕の黒煙はようやく元に戻り始めた、といったところ。
どうやら城崎の攻撃を受ける直前に発現したそれが、爆散の威力を代わりに引き受けてくれたらしい。
「病魔と肉体は破壊対象として別扱いってワケか。…もっと安全に確かめたかったけど、結果オーライ、結果オーライ」
黒煙を解いて、肺にこもった空気を吐き出す。無意識のうちに息を詰めていたらしい。
時間にすれば五分に満たない交差だったが、ハーフマラソンを全力疾走したくらいの疲労感が彼を襲う。
病魔を纏った反動に加えて、正体不明な異能を備えた城崎を相手取るのに極度の緊張状態を維持しなければならなかったのが原因だろう、と分析する。
車道の真ん中であることも構わずその場に座り込んで、夜空を仰ぐ。
神流が拾いに来るまでの間、別谷の耳には直前に聞いた言葉がずっと響いていた。
――消えたくない
それは、果たして誰の叫びか。
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