どれくらい走り続けただろう。
すっかり日の暮れた住宅街を右へ左へと曲がり、気付くと珠川の土手まで来ていた。
さっきの高架が北にぼんやりと見えるので、かなり南下するように逃げてきたということは分かった。
ここまで手を引いてきた香美栖の男子―別谷くんが手を離し、近くにあった橋げたの下へと降りてゆくのを黙って追いかける。
河川敷につながる雑草に覆われた下り坂、土手と橋げたの付け根辺りに土が盛り上がった場所があって、座椅子のように水平になっていた。
別谷くんがそこに座り込むのに倣って、私も隣に腰を落ち着ける。
周囲に人の気配は少なく、時折犬の散歩をする人が土手のランニングコースを歩く程度。
橋の上を通る車の走行音と川の流れる音が混ざって、ごうごうと低いうなりを立てていた。
「えっと…」「その…」
互いの間に流れる沈黙を破ったのは二人同時のこと。
「「……………」」
そのせいでまた妙な沈黙に陥ってしまう。
どうにも間が掴めなくて、じっと別谷くんの方を見ていたら、観念したように彼から口を開いてくれた。
「その、大丈夫…だったか?さっきの連中に犯罪まがいのことをされたりは…」
「だっ大丈夫、大丈夫!危うくされそうだったけど別谷くんが助けてくれたし、むしろ別谷くんの方こそ平気?背中とか頭とか殴られてたよね」
「オレは平気だ。あれくらいは慣れてる」
「慣れてるって…いやま、本当に私は大丈夫だから気にしないでね」
手をぱたぱたと振って無事をアピール。
それでも別谷くんは済まなそうに顔を伏せる。
「…悪ぃ、もっと早く気付くべきだった」
その横顔はまるで飼い主が嫌がることをやったと自覚した時の犬みたいだった。
出会った日からずっと不機嫌そうに眉根を寄せた表情ばかり見ていたせいか、そんな風にしょげているのは正直意外だった。
だから、なんだろうか。私は殊更に明るく、オーバーアクション気味に喋ろうとしていた。
「いやいや!アレは私が勝手に突っ込んでいっちゃったからで、そもそも別谷くんを付けて回るなんてストーカー紛いのことした私の方が謝るべきであって、えっと、ごめんなさい!藤堂先輩に頼まれて、別谷くんが放課後に乱暴な振舞いをしてないか見張ろうとしてたんです…!」
「あー…それは知ってた。なんというか、お前は尾行とか向いてないタイプだから。大方、藤堂あたりに使われてるんだろうなとは思ってたよ」
やっぱり尾行はバレてたんだ。
「ちなみにいつから気付いて…?」
「香美栖高の最寄り駅で電車に乗るときくらい、だな」
ほぼ最初からじゃん!
嘘、私を撒くようにウロウロしだした時じゃないの?
つまりずっとコソコソと後ろを歩いていたのを知っていたと?
「…私今とても穴を掘って埋まりたい気分」
それを聞いた別谷くんは一瞬の沈黙のあと、堪えきれなくなったように吹き出した。
「ふっ…!ハハハッ!」
「笑うことないじゃない、こっちは見つかるか見つからないかの瀬戸際で真剣に追跡してるつもりだったのよ」
膨れ面で文句を言いつつ、彼につられて私もクスリと笑ってしまう。
お互い暗い気持ちでいるよりは、こっちの方がずっと良い。
「それにしても、さっきは随分手際良かったよね。逃げ方にコツでもあるの?」
「コツって何だよ。…別に、最終地点が決まってたから迷わなかっただけだ」
「ここ?」
足元を指差して訊ねると、彼はゆっくりと頷いた。
「…ああ、ここは隠れ家みたいなもんだ。一人になりたい時はよく来る」
「そうだったんだ……ごめんね、秘密の場所にお邪魔しちゃって」
「謝らなくて良い。他に丁度いい行先も、思い浮かばなかったからな」
そう言って別谷くんは、手を後ろについて橋のコンクリートを見上げる。
「まぁでも、お前の尾行はきっちり目的を果たしたワケだ」
「どういうこと?」
「だって、お前の目の前で人を三人も殴ったんだ。オレは風紀委員なんて役割に到底向いてない乱暴者だってこと、改めて証明しちまった」
「さっきも言ったけど、アレは私があの人たちに絡まれに行ったことが原因なんだし、別谷くんは捕まった私を助けるために動いてくれたんでしょ?委員会で立花先輩が言ってた話とは関係ないよ」
私を助けるために、なんて、ちょっと自意識過剰だったかもしれないけど。
でもあの状況で不良四人の集団に殴りかかる目的は、それ以外に想像がつかなかった。
「もしかして去年生活指導に呼び出されたっていう時も、そういう『やむを得ない』事情があったんじゃない?」
「お前は勘違い、いや思い込みが強い奴だな。オレはああいう殴り合いを好きでやってるんだよ。オレに対して目つきが悪いだの態度がでかいだのといちゃもんつけてくる奴と喧嘩になることなんてしょっちゅうだ。大抵は相手の方も大事にしたくない連中が多いから問題にはならないが、そうじゃない奴相手にやっちまったときは生活指導に呼び出される羽目になる」
さっきの殴り込みのとき、四人組集団の崩し方が上手かったのはそういうことか。
つまり彼は、呼び出しをくらった回数の何倍もの数の殴り合いを経験してきたがために、喧嘩の立ち回りのような知識を身に付けていたんだ。
「最近は相手の種類をちゃんと見分けられるようになったから、呼び出されるようなことにならないだけだ。そういう意味じゃ、今日の連中はオレと同類だな。自分自身に後ろめたいことがあるから、奴らが誰かに告げ口するってことは無いだろう」
「喧嘩を好きでやってるだなんて、全然分かんない」
「分かってもらおうとは思ってない。ただ、お前の思い込みで作ったオレのイメージは実物と違うってことを言いたいだけだ」
確かに、私が勝手に抱いていた別谷くんのイメージは間違っていた。
「…そうだね、ごめん。私の印象で別谷くんのこと語ってた」
けど逆に、噂や伝聞では見えなかった彼の姿も分かってきた。
例えば自分からは手を出していないことや、私を助けるためにという部分を否定しなかったこと。
「なんだか無茶苦茶だな、お前。他人の過去までずかずか踏み込むと思ったら一転して謝るなんて」
例えば、今みたいに笑った顔が可愛らしいこと。
「そうかな?私は自分の感じた通りに行動してるだけだよ。それよりも…」
「あん?」
「いい加減、私のこと名前で呼んでくれてもいいんじゃない?別谷くん」
彼はこっちを見たままたっぷり五秒は固まってから、
「別に呼び方なんてなんでも良いだろ…………等々力」
わざとらしくそっぽを向いてそう言った。
悪ぶった態度でも、もう怖くはなかった。
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