◆二〇〇三年 五月一日 別谷境の自宅
橋げたの下で等々力と別れて、家に着く頃には日が暮れていた。
「別谷境っていう人間の形を決められるのは、別谷くんだけなんだから」
まだアイツの言葉が体の内で残響している。
考えてもみなかったことだった。
それはそうだろう、何せ生まれてこの方、今まで見てきた人間は必ず男か女のどちらかだったんだから。
行先が二つしかない洞窟の分岐点で悩んでいたら、アイツは外から天井を崩して抜け道を作ってきた。
光溢れるその道は、暗中で立ち止まっていたオレにとって太陽のように暖かくて。
暗闇で自分の形すら見失いかけていたオレに、輪郭を取り戻させてくれた。
「そういや結局、言いそびれちまったな。別れの言葉…」
オレ自身の悩みが晴れても、状況は何も変わってない。
このままいけば、来週末の体育祭を終えたらオレは退学、病魔罹患者の隔離施設送りになるはずだ。
そして今の自分にはこの状況を覆すだけの情報も、力も、コネクションもないのだ。
等々力はオレの味方になってくれるかもしれないが、それはあまり意味が無い。牛丸の口ぶりから察するに、彼女は既にオレの息が掛かった存在だと教師陣に認識されているからだ。
そう都合よく事態を好転できる人物なんて…。と思ったら。
いた。
思い当たったとかではなく、今、目の前に。
オレの家の前で退屈そうに腕時計を眺めている、風紀委員長こと藤堂が立っていた。
「何してんだ、オレん家の前で」
「おお、やっと帰ってきたか別谷。もちろんお前を待っていたんだ。しかし停学中の身ながら、結構楽しそうじゃないか、んん?」
「楽しそう…?オレが?」
「違う?香美栖では見たことのない、良い表情をしていたと思うが」
顔をぺたぺたと触ってみても、自分ではよく分からない。
というか、オレを待っていた?
「そうそう、用件が二つあるんだった。ひとつは……はい、これ」
鞄から取り出して渡されたのは、何冊かのノート。
「えーっと…?」
「お前が停学の間も授業は進む。特に香美栖の数学系と古文、それに漢文は二週間程度でも一気に内容が進むからな、私の二年の時のノートを貸してやる。サボるなよ」
「いや、これじゃアンタの」
「私は既に二年までの内容を復習し終えてるから心配しなくていい。受験生を甘くみるなよ?」
考えはお見通しと言わんばかりに挑発的な笑みを浮かべる。
いつもならここで大人しくノートを受け取るところだけど、今回はそうもいかない。
「先輩、悪いけどこれはやっぱり受け取れない。今は停学扱いだけどオレは―」
「病魔罹患者だと知られたから、そのうち退学になる……でしょ?」
「あ…」
「ごめん。牛丸先生から教えてもらったよ。正体不明の馬鹿力で牛丸先生を窒息させかけたって」
そういえば、そうだった。
等々力にこの事実を伝えた藤堂が、オレの状況を知らないわけは無かった。
「……アンタも、オレが病魔だと知っても普通に話し掛けるんだな」
「――、まあ…正直に言えば、待っている間は不安でもあった。一体どんなふうに変貌してしまったのか、とね。でも帰ってきたお前を見たらそんな不安は消し飛んだよ。お前は何も変わってない」
「そうか」
それが、藤堂なりの納得の仕方。
なんにせよ、こちらの事情を知った上で普通に接してくれるのはありがたい。
「そしてノートを返す必要も無い。なぜなら、お前の処遇を変えられるかもしれないからね。これが二つ目の用事」
真剣な彼女の口調に、オレは自然と押し黙る。
「……」
「最近、学校で神隠しに遭うって噂が流れていたのはお前も知っているな?私は個人的に、アレの犯人を見つけたいと思ってる。生徒たちが不安になっているのに先生方は動きを見せていない、この事態を解決するのに、お前が一役買ったとなれば学校側としてもお前への態度を軟化させざるを得ないだろう」
「…先輩、アンタはどこまで分かって言ってるんだ?今の話、神隠しが実際に起こってて、それは人為的に発生した事件で、その解決にオレが役立つって前提じゃないと成り立たないだろ」
「これは希望的展開…その三つの前提が全て本当だったらの話よ。立場上、色んな情報は耳に入ってくるんだ。そういった情報から組み立てると、こういう可能性もあるなって思うわけ」
それに、と付け加えると、
「私としては、『神隠しが実際に起こった』と『解決に別谷が役立つ』は本当だと思ってるわ」
「……」
つまり彼女はこう言っているのだ。
生徒間に広がる不安の元を解消するのに協力すれば、その功績は学校側との交渉で有利に働くと。
彼女の話に矛盾は無い。
そしてオレにとってメリットのある提案だ。
アイツのいる香美栖には、今も神隠しを起こした病魔が巣食っている。
オレが去る前に片をつけたいという望みを実現するには渡りに船といえよう。
だからこそ気にかかる。
「それをやって、アンタに何の得が?まさか本当に生徒のための善意だけっていうのか」
「善意っていうのとは、違うかな。それは見返りを求めないものだろう。私は、私が手を貸した者の暮らしぶりが良くなっていくのを見るのが好きな性質でね。つまりは今回の件で言うと、神隠しに不安を覚える生徒たちとお前の置かれている状況が好転することこそ、私にとっての見返りというわけだ」
それは普通、見返りのうちに入らない。
アンタみたいなのをお人好しって言うんだよ。
「了解だ、分かったよ先輩。それで?具体的にオレは何をしたらいい」
「色良い返事で結構。そう言ってくれると思って、実はもう根回しをしてある」
「根回し?」
藤堂は得意げに鼻を鳴らして、
「明日の放課後、香美栖高校の第二特教まで来るように。安心しろ、先生方の承認は得ているからな」
そう宣言したのだった。
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