別谷くんとの追いかけっこはどれくらい続いているだろう。
次々に角を曲がる彼から目を離せないので時計は見れないけど、もう空が茜色に染まっているということは六時近いはず。
ここまでやって逃げられるのは気に入らない。そんな小学生じみた精神で、私の身体は動かされていた。
彼のジグザク戦法はわたしを撒くには至らなかったが、私が今どこにいるのか分からなくさせるという効果はあった。
ああ、また曲がった。
今度は左か。
その軌跡を辿ってマンションの陰から出ると、見覚えのある構造物が視界に入った。
「電車の高架橋…戻ってきたんだ」
別谷くんの意図が読めなかった。
相手を見慣れない場所に誘い込んで煙に巻く方が追手を撒くのに都合が良いだろうに。
私の疑念をよそに、彼はずんずんと先へ。
進んだ先で高架に沿った小道に入るのが見えたので、急いでわたしも向かう。
と、
「え…?」
既に彼はいなかった。
高架下に伸びるその道は自転車ではすれ違えないくらい細い上、奥でガラの悪い高校生らしき四人組がたむろしている場所以外に高架を横切るような道は無いのに。
まさか、あのお兄さんたちの集団を突っ切ったというの?
道を塞ぐようにして円形で談笑している真ん中を通ったら普通呼び止められるか絡まれそうなものだけど。
いやいや、見た目で判断してはいけない。通ろうとする人に対しては快く道を譲ってくれるタイプなのかもしれない。
「…よし」
今は一分が惜しい。こうして悩んでいる間にも別谷くんは先へ進んでいるのだから。
…後にして思えば、この判断が間違いだった。
冷静に考えれば高架を挟んで反対側にも同じような小道はあったわけだし、今いる道を離れて最初から反対側を進めば良かったものを。
焦りから、わざわざ茨の道を選んでしまった。
奥に近づくと、四人の内一人がすぐ私に気付いてこっちを見た。
「―――っ」
「なんだァ嬢ちゃん、俺らになんか用か」
彼らは制服を着崩した見た目だけでなく、立ち居振る舞いから喋り方まで完全にヤンキーと呼ばれる人たちのそれだった。
一言めを発する瞬間から相手を威圧する眼力を飛ばし、今にも掴みかかってきそうな語調。
「俺たちここで楽しく話してるだけなんだけど?」
歳は私とそう大差ないはずなのに、この圧。
私はすっかり気圧されてしまって、喉が無意識にごくりと鳴った。
顔を伏せて足早に、これ以上絡まれないうちに横切ろうとして――しかしそれは叶わなかった。
「オイオイ無視するこたぁねぇだろ、なァ」
「いっ…!」
一人が私の左手首を掴み、
「こっちは質問してるだけなんだぜ?」
もう一人が煙草の臭いを纏った顔を間近まで寄せてくる。
手首を思い切り握られているせいで振りほどくこともできず、掴まれていない方の手で男の指を外そうとしても力の差でびくともしなかった。
「おっと、暴れるなよ」
いつの間に回り込んでいたのか、三人目の男が私の右腕も動かせないよう掴んできた。
その上掴んだ腕を捻るようにホールドしてくるから、関節の痛みに思わず顔をしかめてしまう。
どうしよう、痛い。
どうすれば。
痛みで思考のまとまらない私などお構いなしに状況は刻々と進む。
「ねえ君、何年生?中学…じゃなさそうだな」
「兄貴。この制服はあそこだ、香美栖高校の。リボンが緑ってことは二年生だ」
「へぇ…あの私立の……ふぅん」
兄貴と呼ばれたリーダー格の男は視線だけを、けれど舐め回すように巡らせる。
まるで奴隷市で商品を値踏みする富豪みたいだ。
背筋にぞわり、と寒気がした。
今なら分かる。
これが不良の振舞いなのだとしたら、別谷くんに貼られた不良のレッテルは紛い物だ。
彼の言動は乱暴で、とてもらしいけど。
「お金持ちのお嬢様は俺たちみたいな低脳なんか挨拶に値しないってか?」
「ご両親から教わらなかったか?年上は敬いなさいってよォ」
こんな悪寒を彼からは感じなかった。
「まあそう言うな。知らなかったんだよ、な?知らなきゃ人間誰しも最初は間違えるもんだ」
リーダーらしき男は余裕たっぷりに弟分をたしなめる。
「だから俺たちが教えてあげるのさ」
そう言って私の口元に指を添え、あごを持ち上げるように顔を引き寄せた。
視界が、欲に塗れた男の薄い笑みで埋まる。
「う…く、来るなっ!」
気持ち悪さに耐えきれず、思わず手が―いや、足が出た。
まっすぐ振り上げられた私の脛が正面の男の股ぐらにヒットする。
「……………おっふ…」
「「「あ、兄貴ぃ!?」」」
金的にダメージを受けたらしいリーダーが脇腹を押さえるようにして悶絶した。
「お前兄貴になんてことしてくれてんだ!」
「――――!」
逆上した弟分の一人が声を荒げ、私めがけて拳を振り上げる。
次の瞬間訪れるであろう痛みを想像し、身を縮め目を瞑った。
が。
「ウッ…!?」
ごつ、という鈍い音と共に足元へ倒れたのは私を殴ろうとしていた男だった。
顔を上げると、日暮れの暗がりに香美栖の制服を着た男子の姿が見えた。
その男子は立ち止まることなくこちらへ駆け寄ると、間髪入れずに私の右腕を掴む男へ正拳を叩き込む。
「テメェ何しや――ガッ!」
正面からの左拳を避けた男だったが、私の腕を掴んだまま動いたことで体勢が崩れた。
そこへ畳みかけるように襲撃者の右拳が二発、四発と男の腹へ突き刺さる。
おかげで私の右腕が解放されたけど。
「調子づいてんじゃねぇぞクソ餓鬼!!」
「っ…」
いつの間にか金的の痛みから回復していたリーダー格が彼の後頭部を思い切り殴りつける。
倒れはしなかったものの、衝撃で数歩よろめく。
このままじゃまずい。
乱入してきた香美栖の男子は一人。
それに対して不良達はまだ二人が健在、最初に襲った一人ももうすぐ起き上がりそうだ。
――私が何かやらないと。
体勢の崩れた背中に不良の殴打が浴びせられる。
――何ができる?
彼の咳き込む声が響く。
――力で敵わないことは分かってる。
反撃に転じた彼の怒号が聞こえた。
――思考が脳内で乱反射して。
「ぅああああーっ!!」
気付くと私は、左手を掴む男の手に噛み付いていた。
「い痛てててててててててててやめろこの女ぁぁぁ!!」
「んぎぃぃぃぃぃぃぃぃ」
人間の咬合力は体重とほぼ同じと聞いたことがある。
私の体重は伏せさせてもらうけど、確実に握力よりは強い。
指を千切らん勢いで噛むと腕力ではびくともしなかった男の手が離れ、ようやく私の腕が解放された。
「チ、待てクソ…!」
それを見たリーダー格が逃がすまいと手を伸ばすが、
「よそ見とは余裕だ、なっ!!」
香美栖の男子がその隙を逃さなかった。
がら空きとなった横顔に彼の左ストレートが刺さる。
「っ、来い!」
ふらつくリーダー格を無視して、彼が私の手を握る。
ここから逃げるためだろう、力強く引いてくるけど痛くはなかった。
不良のたまり場を離れ、彼に導かれるまま走る。
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