意思、ねぇ。
病魔の衝動に呑まれた人間に、そんなものは残っているんだろうか。
そう考えたとき、シロサキについて気になることがあったのを思い出した。
「なあ神流。意思っていうか、意識の話になるんだけど…シロサキの奴、なんか、様子おかしかった」
「またえらく曖昧な情報だな。どうおかしい」
「なんつーか…子供みたいだった。十歳くらいの。幼児退行とまではいかないけど、そんなイメージ。あの惨状をバレずに作り上げた犯人とは思えないくらい、単純な反応と動きだった」
「ふぅむ…?」
説明しても神流にはピンと来なかったらしく、首を傾げられてしまう。
直接相対したオレもなんとなくでしか感じなかった違和感だ、それも仕方ないか。
それでも病魔の専門家、
「つまり精神面に何らかの異常をきたしているのではないか、とお前は言いたいのか」
「そう、そういうこと!もしかしてそれも病魔の影響なのかと思って。ホラ、神流の持論であっただろ?病魔は本能の発露だってやつ」
「仮説だ、持論じゃない」
おっといけない、学者魂の逆鱗を掠めてしまったか。
「すまん。悪気はなかった。…で、どうなんだ。本能が優位に立つことで精神年齢が退行することはあり得るのか」
「精神の退行という表現は適切でないな。そのように見えるというだけで、実際は異なる現象が生じている可能性が高い」
「それは?」
「病魔の暴走」
神流から提示された可能性はとてもシンプルなものだった。
「例えばの話をしよう。境は眠気を感じたらどうする」
「どうって…寝るだけだけど」
「じゃあ、腹が減ったときは?」
「メシを探して、食べる」
「それらの行動を起こすのにいちいち理由は考えていないよな」
「そりゃそうだ。生物としてこんな基本的なことを思考しないとできないのはかなり不便だろ」
「うん。それが本能というやつだ」
神流は両掌を層に見立てて重ねてみせる。
「今こうして会話しているアタシたちの自我がこの層だとすると、食欲や睡眠欲、性欲といった生命として基本的な本能はそれより二つくらい層が低い。マズローの欲求五段階という考え方は知っているか?」
「生理的欲求とか、自己実現欲求って名前がついてるやつだっけ」
「それに当てはめるなら、今話に上がっている本能は生理的欲求にあたる」
確か、それは最も下層の欲求だったな。
これが満たされなければ、上位の欲求を求める余裕もない状態だということになる。
「そして病魔が呼び覚ます根源的な衝動というのは、これと同じか、更に下層の欲求になるとアタシは考えている」
「…そうか、そんな下位の欲求を満たそうとするのに思考は伴わない。つまり病魔が暴走して根源的衝動に突き動かされているなら、人間らしい人格は表に出てこないってわけか」
ん、待てよ。
とするとあのとき交わした言葉の主は――
「境。お前の言う情報が確かなら、あまりゆっくりと議論を重ねている余裕は無いかもしれん。完全に病魔に呑まれきってしまえば自制など一切ない、手当たり次第に己が病魔の力をぶつける破壊の輩になりかねない」
神流の指摘に、オレの意識は目の前の問題に引き戻される。
「なら、すぐにでも行かないとな」
そう言ってソファから立ちあがったところで待ったを掛けられた。
なんだよ、急げって言ってるんじゃないのか?
無言の視線を送ると、神流は躊躇いがちに、
「…今回の件は政府からの要請じゃない。お前が対処しなきゃいけない義務は無いんだ」
「だから自主的に解決に動けば点数稼ぎになるって話だろ?」
「だが城崎は予想以上に危険な病魔だ。境の得点も大事だが、ここから先をアタシ管轄の特殊捜査課に任せるという選択肢もある。さっきも言った通り、お前の命はもうお前だけのものじゃない」
神流は遠まわしにこう言っている。
シロサキの対処を我々に任せろ、と。
「確かに、奴の力はオレの『鎧』も破壊できる威力だった」
アレを生身に受ければ、狩場の血だまりを増やすことになるだろう。
「オレに課せられた義務でもない」
こなしたところで、目論み通り評価される保証もない。
けれど。
「そんなの、関係ないね。オレはやりたいことをしているだけなんだ」
「本当に、それはお前のやりたいと思うことなんだな?」
神流の念押しに、オレは反芻する。
まだ奴の本音を聞いていない。
「消えたくない」と言い放った本能を抱える、シロサキという女の本音を。
それにやりたいことなんて、最初からずっと変わってない。
今のオレを形作ってくれたものと、その環境を守るためだけに。
つまりは、
「オレはオレ自身のために、シロサキという病魔罹患者を無力化するんだよ」
数秒の沈黙ののち。
神流は納得した様子で頷いた。
「分かった。なら、後の対処は任せたぞ」
「ああ」
「おっとそうだ、こいつを渡すの忘れてた」
今度こそ事務所を出ようとしたオレに一枚の紙切れを差し出す神流。
これは…個人情報てんこ盛りの資料だな。
氏名、住所、通う学校に家族構成まで載っているじゃないか。
「たまたま、爆殺事件とは別件で資料を集めていてね。その中にちょうど城崎音代という女子学生のものがあったんだ」
「茂嶋が無線で言ってた同時多発行方不明ってやつか?偶然にしちゃあ出来すぎだな」
「アタシもそう思う。だからその別件も、恐らくは城崎音代の関与が疑われる」
その辺りの事情も、コイツをとっ捕まえれば分かってくるだろうか。
「道すがらで良いから一応、その資料にも目を通しておくんだぞ。読み取れるのはあくまで彼女の外側だがな」
「外側?」
「城崎音代以外の者から見える城崎の人格、という意味だ。仮面という概念、お前には説明したことが無かったかな。自分を観測する人間の数だけ、異なる自己が形作られる――つまり付き合う人数が増えるほど、属するコミュニティが増えるほど、アタシたちはそれぞれに醸成される『他者から見た自分』の仮面を使い分けなければいけない」
「ペルソナねぇ…そんなの、確固たる自分の無いヤツが頼る『キャラを演じる』ってのと同じじゃないか」
顔をしかめて言うと、
「間違いではないが、間違いだな。仮面について、確固たる自己の有無は関係ない。ヒトが社会を形成して生きる以上、他者とのコミュニケーションを円滑に済ませることが必要だ。そんなときにお互いが自分の芯を曲げずにいたらどうなる?相性の良い相手なら問題無いが、そうでなければ二言目には怒気を孕んで、三言目で喧嘩になるだろう。仮面は、自分と相性の悪い人間とも表面上うまく関わっていくために、ヒトが無意識に獲得した能力なんだよ。それを不要だと言い切れるのは、社会というシステムが不要な仙人の如き存在か、社会との繋がりが断たれた人でなしだけだ」
人でなし、ね。
「っは、なるほど。そりゃオレには不要に見えるワケだ」
「誰しも境みたいな生き方ができるなら、それはそれで良いことだとアタシは思うけどね。まあ要するに、資料に書いてある情報はいずれも何者かから見た城崎音代である、という話さ」
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