「――見つけた」
予感通り、彼はあの橋げたの下にいた。
私を助けてくれた後、並んで座ったあの場所に、別谷くんは一人で膝を抱えて座り込んでいた。
初めて見る彼の私服はジーンズに灰色のパーカーで、童顔っぽい風貌と合わさると中学生にも見える感じだった。
「こんな所で、雨宿り?」
「……等々力…?」
「一人になりたい時、よく来るって言ってたから来てみたけど、大正解だったね」
別谷くんは私が来たことに驚いてるみたいで、言葉を失っていた。
私は橋げたの下に入って傘を畳み、鞄に忍ばせていた「口実」を取り出す。
「これ、届けに来たよ。保護者宛の体育祭のお知らせ。ご両親に渡して」
「…このためにわざわざ?オレがいるかどうかも分からない場所まで?」
「ここにいなかったら、別谷くんの家まで向かうつもりだったよ」
「どうして、そこまで」
信じられない、と言いたげな顔をみせる。
「あはは、そりゃ疑問に思うよね」
私は逸る気持ちをなだめて、ここに来た「目的」じゃなく「理由」を伝える。
「お知らせを渡しに…っていうのも本当だけど、もう一つ。別谷くんと会って、話がしたかったから」
「――…」
「ね、となり。座っていい?」
「ああ」
その一言で、彼が纏っている、見知らぬ人間と相対した猫のような警戒心が薄れたのを感じた。
彼に倣って地べたに腰を落ち着けると、冷えた土が自分の体温をすぅっと奪っていく。
ずっとこうしていると体を冷やしてしまいそうだな、と傘を持っていない別谷くんを左手に見ながら思った。
話がしたいと言ってはみたものの、いざ喋ろうとすると言葉が出てこない。
幸い、この沈黙を彼も嫌ってはいないようなので、私は今の穏やかな時間を堪能することにした。
ホワイトノイズみたいな雨音や、橋のへりから垂れた雫が下草に当たる音がよく聞こえる。
自分がじっとしているからか、頭上の道路を往来する車の振動も地面を通して伝わってくる。
初めはバラバラだったそれらの周波数が、次第に和音のようにまとまって感じられるようになる。
ああ、なるほど。
言葉にはできないけど、ここでじっとしていたくなる気持ちは分かる気がする。
どれくらいそうしていただろう。
時間を忘れた頃に、別谷くんの方が先に口を開いた。
「…オレが登校していない理由、川滝は何て?」
「家庭の事情だって。訊いてもそれ以上教えてくれなかったよ」
「そうか。まあそうだろうな」
「でも、藤堂先輩が教えてくれたんだ。牛丸先生に怪我をさせたから停学になったって」
「……」
「先輩は牛丸先生の首に痣があったって言うけど、本当のことなの?私には信じられなくて…もし本当だとしても、何か事情があるんでしょ?何の理由もなく別谷くんが暴力を振るうなんて、私は……」
こういう時、彼が何と応じるかは知っている。
「お前は本当に、思い込みが強いな」
そうだ。
そうして「オレはやりたいことをやっただけだ」と――
「でもその思い込みが、今は助かるよ」
「――え?」
「けど…………もういいんだ、等々力。もう、オレにつき合う必要は無い」
「どうして」
思いもよらない言葉に面食らう。
だが、驚きはそれにとどまらない。
「そもそも本来の処分は停学じゃない――体育祭が終わったあと、きっとオレは退学になるんだろうからな」
「そんな――!?」
「退学はあり得ないって?……一昨日のオレはただ牛丸の首を絞めたわけじゃない、あの時オレは…オレの身体は、病魔の力を暴走させたんだよ」
彼が自分についてここまで語るのは初めてのことだ。
その驚きもさることながら、話の内容もまた衝撃的なものだった。
別谷くんが、病魔罹患者だった…?
「病魔を発症した人間は…発症したと知られた人間は、社会から隔絶された施設に送られている。他人に危害を加えるような症状が出てるって知られたんだ、十中八九、オレはその施設行きだろう」
「待って、病魔って女性にしか顕れないんでしょ?でも別谷くんは…」
そう口にして見た彼の表情は、やるせなさに満ちていた。
「……今まで…………………騙してて、悪かった」
「――…」
体の奥から絞り出したようなその言葉には、重みがあった。
重たいものを吐き出した故か、彼は力なく笑う。
「等々力。もうオレの嘘につき合う必要は無い。オレのことを男扱いする奴なんてお前だけだよ。誰も彼も、オレが嘘をついてるって分かってる」
「…嘘、ついてる」
「その通りだ。オレは――」
「違う、別谷くん、自分に嘘ついてるよ」
だって、今の別谷くん、笑ってるのにとても苦しそうだもの。
ぜんぜん納得できないって目をしてる。
「何を言って…別に…」
追及から逃げるような彼の態度に、私の悪い癖が顔を出す。
思ったときには、その言葉を口にしていた。
「別谷くんが自分は男だって信じて、そう行動してるなら、それは嘘なんかじゃないよ…!」
「……他に信じる人間がいないなら、そんなの、ただの妄想だ」
「妄想だろうと、嘘だと言われようと、そこには男でいたいって意志がある。なら――」
「っ!……お前は、何も知らないから簡単に言えるんだ…!」
別谷くんが私の手を奪い取り、彼の胸に押さえつける。
「分かるか、この膨らみが。胸だけじゃねぇ、身体のあちこちが『お前は女だ』って脅迫してくる。こんな状態でも、自分が男だって、お前だったら言い張れるのかよ…」
突き放すような言葉とは裏腹に、弱々しい声で震える手と共に訴える。
いつか麻里とも話した、性の同一性が無い状態。
想像するしかできないその境遇を、改めて推察してみる。
「…もし私の身体が男子のもので、周りの人みんなが『ひなたは男だ』って言ってたら、私は多分、それに負けてる」
子供――特に幼児にとっての親は全ての判断基準だ。小さい頃から親が「あなたは男の子だから」と口にし、それに相応しい服や遊び道具を用意すれば、子供は疑うことなくそれを信じるだろう。
その上、男の子と呼ばれる人たちと同じモノが自分の足の付け根に生えていて、女の子と呼ばれる人たちと違う体つきをしていると知れば、自ずと自分の性認知は固まっていく。
これがきっと、私を含め世の中大多数にとっての普通。
外見的特徴や客観的事実から確立される認識。
であることでなくすることによる認知を意識してきたつもりの私だったけど、なんということは無い、結局は私も「女子である」ことに自己認知が依っているじゃないか。
「だからこそ私は、今まで自分の想いを張り通してきた、別谷くんのことを凄いと思う」
「だけど…もう、無理なんだ」
彼の胸にあてがわれた手から、彼の苦しげな息づかいが私にも伝わってくる。
私の手首を、彼は両手で縋るように握っていた。
「右手におかしな現象が…病魔が発症してから、オレは自分の感覚すら信じられなくなっちまった」
病魔に罹る以前の彼を私は知らないけど。
自分の感覚が信じられない。
きっとそれが、知り合ってからの彼の振舞いに「演技っぽさ」を感じた理由なのだろう。
以前なら意識せずとも自信をもって自らを男性と認められたものが、病魔を発端にできなくなった。
軸を見失った結果、分かりやすい「男らしさ」に頼るしかなかった。
――ああ、なんて。
なんて孤独な戦いだ。
味方はおらず、今まで支えにしてきた一振りの剣すら、積み重なった傷で折れてしまった。
「別谷くんが感じてる苦しみの重さは、私には量れない。軽々しく『別谷くんは男子だよ』なんてことも、もう言えない」
外様の人間があれこれ言うのは簡単だ。
ただしその行為は、傷つきながら戦ってきた人の想いを軽んじてしまう。
「けどね別谷くん。たった一ヵ月だけど、新学期初日から今日まで私が見てきた別谷くんはどれも、私にとって本物の別谷境だよ」
「…本物?」
彼の手に、もう一方の手を重ねて言う。
「そう。男らしさに拘る別谷くんの心も、どうしようもなく女の子な別谷くんの身体も、両方あって今の別谷くんを形作ってるんだと思う。だから周りが貴方のことを女だと決めつけようと、私が貴女のことを男と思って接しようと……もっと言えば、別谷くんが女か男、どっちかでなくちゃいけない理由すら、別谷くんには関係ない。別谷境っていう人間の形を決められるのは、別谷くんだけなんだから」
「――――――――、――――――――――――――――」
「…よーするに!別谷くんは別谷くんだよって話!」
我ながらなんて意味不明な要約。
だけど、それが素直な気持ちだった。
「…………………………………………………………………………………………………………………………………………そう、か」
長い長い沈黙の後、顔を上げた別谷くんは憑き物が落ちたように脱力する。
ふと私が空模様を窺うと、いつの間にやら小康状態になっていた。
まだ晴れ間は無いけど、この様子ならそのうち雨も上がりきるだろう。
「よかった、これなら帰りも濡れずに済みそうだね――って、どうしたのよ」
「見るな。……なんでだ、止まらねぇ…」
両の目から零れる温かいものを隠すように拭う。
それは彼が抱えていた重荷の落ちる証だと、私は信じたい。
「お前のせいだ……お前が変なこと言うから………、っ!?」
気付けば私は、彼の頭を抱き締めていた。
高校二年生相手に何を…と逡巡したのも一瞬のこと。
今はこうするのが正しい、こうしていたいと思った。
思った時には即行動するのが、私の悪い癖でもあり、好きな所なのだ。
最初は離れようと力んでいた別谷くんも、観念したように体を預けてくれた。
そうしてしばらくじっとしていると、彼の呼吸が整ってくるのを感じる。
「――落ち着いた?」
「……、…」
返事の代わりに頷きが返ってきたので、私は別谷くんの頭から手を放す。
緩慢な動きで上体を起こした彼は、泣き腫らした目元やくしゃくしゃの髪のせいで徹夜明けの朝のような顔になっていた。
「あ――」
その顔に、思わず、見惚れてしまった。
初対面のときも思ったけど、間近で見ると本当に女の子みたいに可愛い顔――って、肉体的には女子だから当たり前なんだけども。
その丸い目や長めの睫毛とか、伸ばしたらサラッサラになりそうな黒髪とか、薄い唇とか、構成パーツのレベルが平均的に高くて。
恐らく最も整ってないであろう今の状態ですら、私の瞳は彼を捉えて離さなかった。
そんな私の心で急速に勢力を増す感情の嵐など露程も気にせず、
「あ、はは…みっともない所、見せちまった」
なんて、恥ずかしそうに笑うものだから。
――――どくん、と。
私は心臓に杭でも打たれたかのような衝撃を錯覚した。
その衝撃は全身の産毛を逆立てながら末端まで届くと同時に、くすぐったいような、酔いしれるような感覚を脊髄に与える。
今までに体感したことのないそれの名前を私は知らない。
けれどこの瞬間、私にとって別谷境の存在が特別となったことは、分かった。
分かってしまって、そこから先のことは殆ど覚えていられなかった。
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