「違う、やめろ――――!」
気付くと別谷は城崎に馬乗りになっていた。
獣爪で首を押さえつけ、もう一方の腕を今まさに振り下ろそうとしている瞬間だった。
彼の意識が浮上すると同時、上半身を覆っていた黒炎は急速に勢いを無くし霧散していく。
組み伏せられている城崎はあり得ないものを見たと言わんばかりに目を見開く。
「……どうして、止めたの。これで最後なのに」
「あのままお前の力を喰い尽くしたら…オレはまた、本能のまま暴れる怪物に戻っちまう。それは、それだけは駄目だ…」
「何それ。…貴女はもう充分に人外よ」
「…分かってる。それでもオレには、超えちゃいけないと決めた一線があるんだ」
「わたしの力なら人体の一部でも触れるだけで全身を消し飛ばすはずなのに、貴女の黒いオーラはそれを押し留めた。それだけじゃない、肉体の再生まで……覚えてる?貴女、右腕が消し飛んでたのよ?あんなの、人間の範疇を超えてる」
さっきまでのハイな城崎は鳴りを潜め、すっかり熱の冷めた様子で諦めたように顔を背ける。
その顔は土埃にまみれ、全身にわたって真新しい傷だらけで、このわずかな間にどれだけ激しい立ち回りがあったのかが窺えた。
「………」
別谷の右腕は変わらずそこに付いているが、肩口から先の袖が丸ごと無くなっていた。
城崎の言葉通りならば。
彼女の病魔によって服ごと爆散したのち、腕だけが再生したことの証左であろう。
腕が吹き飛んだ瞬間以降の記憶が定かでない別谷にも、何が起こったのかは結果から推測するしかなかった。
「…確かに。お前の言う通り、こんな病魔に罹っている以上、オレがまともな人間からズレているのは間違いない。…けど、そうじゃないんだ。オレは、病魔がもたらす衝動に負けたくない。どんな結果になっても、他の誰でもない…オレ自身が選んだ結果だと言えるよう、オレは人間としての意志を持ち続けていたいんだ」
「それが貴女の言う一線?……せっかく、わたしたちには身体が、精神が、何を欲しているのかを教えてくれる力があるのに、それを我慢するっていうの」
無言で頷く別谷。
病魔の力をほとんど抜き取られたからか、「人間」城崎音代の意識が戻ってきた彼女は、ようやく思考をするだけの冷静さを取り戻す。
「貴女の行動は矛盾してる。人間としての意志を守っていたいなら、どうして我慢してまで御業を使うのよ。いえそもそも、そうまでしてわたしから神宿りの力を奪うのは何故?それが警察の仕事だから?」
「そんな義務感じゃない。オレはいつも自分のために生きてるつもりだ」
「また、それ。…力を奪うことが貴女のためになるの?」
「また…?いや、そりゃ手段だ、目的は違う」
城崎の言い回しには引っかかりを覚えるものの、
「オレには譲れない、壊したくない世界がある。それを脅かすものが居て、オレの力で対抗できるなら戦う…それだけだ」
そのシンプルな目的を言葉にする。
自分のような異常者と対等に接してくれる人間がいる。
病魔罹患者でもなく、研究対象でもなく、部下でも、男も女もなく、ただの別谷境として接してくれる存在。
そんな人間が生きる世界を守ること――それが別谷唯一の目的だった。
故に。
「城崎音代。オレはオレの意思で、お前に残された病魔の力を奪い尽くすよ」
「変なの。結局わたしから御業の力を奪うことに変わりないじゃない――って、あぁ…」
城崎は納得したようにうっすらと笑う。
不気味な嗤いでなく、穏やかな笑み。
「…貴女って、やっぱり変な人ね」
「よく言われるよ」
全く肯定的でない評価を受けた別谷はしかし、目前の少女につられて微笑む。
そして、改めて纏った右腕の獣爪をあてがい、ゆっくりと最後の光球を引き抜く。
「ふ………んぁ」
今までの暴力的な捕食と異なり、柔肌を撫でるような丁寧さで儀式は進む。
その最中、城崎は艶っぽくも穏やかな吐息を漏らしていた。
そして、抜き取った最後の光を別谷が吸収し終えたとき。
城崎音代は完全なるただの人に戻る。
「溜め込んだ力の源は食べ尽くした。これでお前は病魔罹患者でも何でもない」
「――そう。これでわたしには、もう何も無い」
深呼吸と共にそう零す城崎は、憑き物の落ちた表情で言う。
その言葉が気になって、別谷は身を起こしながら問い返す。
「何も無い?」
「ええ。わたしには自分を示せるモノが、貴女の言うような意志が、ひとつも無い」
そう語る彼女を見て別谷は悲しいと感じた。
何よりも、全て諦めてしまったかのような表情が悲しかった。
「いつも誰かの頭の中を想像して、その誰かの望む通りに、求められるままに行動して……まるで命令を受けないと動き出せないロボットみたいに。自分という軸が欠けているのよ、わたし。でもそれはわたしにとっての当たり前だったし、何も不都合を感じることなく生きてきた。なのに、いつ頃からかしら……誰かの求める姿を目指すことがとても息苦しくなって…胸の閊えを取り払おうともがいていたら――」
「それがお前の、病魔の発現に繋がった?」
「そう…なのかもしれない。あまりはっきりとは思い出せないんだけど」
神流の言葉を借りれば、病魔とは「認識不可能な最奥にある、その人間の核を現実に引きずり出す」現象。
あらゆるものを触れただけで粉砕してしまう城崎の症状は、今まで抑えつけられてきた彼女の精神が最後に放った、悲鳴だったのかもしれない。
「あの娘―蟻高に拾われてからわたしは何かを変えられたと思っていたけれど、そう思い込んでいただけだったのね。結局は彼女の望む城崎音代を演じてただけで、わたしは何一つわたしの意思で決断できていない。人間のことを低俗な欲に従うケダモノ以下だなんて言ったけれど、わたしは欲すら持っていない、人間未満なんだ」
「いや…………それは違う、城崎」
「何が違うの…?」
己の意思が無いと恥じる城崎に、別谷は異を唱える。
「何も無い、欲すら無いってのは嘘だ。お前はちゃんと、自分で己の願望を口にしてただろ。『わたしじゃないわたしを演じたくない』って」
「それは拒否でしょう。願いとは違う」
「何言ってる、拒否だって立派な願望さ。何かを嫌だと思うのは、現状を良しとしない…向上心に満ちた思いじゃないのか?」
それにな、と続けて。
「オレは今、目の前で喋っている人間が、意思の無いロボットみたいな奴には全然見えないんだよ」
「――!!」
彼女は自覚していなかったが、別谷との戦いが始まってからの城崎は決して受け身でない、自らの主張を唱え行動する「自分」を持っていた。
きっかけが病魔のもたらす本能の発露だったとしても、今の彼女が見せる自我は間違いなく。
誰の求める姿でもない、彼女だけの城崎音代だった。
「そうそう、そうやって表情ころころ変えてる方が可愛いぞ」
「かっ…かわ!?」
そういった評価に慣れていないのだろうか。
ばね仕掛けのおもちゃのように、勢いよく上体を起こして首をぶんぶん横に振る。
「いやいや、さっきまでボコボコにしてた相手に言う台詞じゃないわよねソレ!」
猛抗議する城崎。
詰め寄ってくるのを別谷は両手でなだめる。
「それは、すまん。けどお前だってオレの腕木っ端微塵にしたんだし、言いっこナシだぜ」
「貴女のは治ったじゃない!」
「そうだった。オレ、腕ふっ飛ばされてからの記憶が全然無いんだけど、どうやって治ったか教えてくれよ」
「うーんそうねぇ…アレがああなってこうなった、って感じ」
ジェスチャーもなく投げやりに応じる城崎。
明らかに答える気が無かった。
「いや、指示語だらけでワケ分かんないんだが」
「ふんだ。教えてやるもんですか。最初に言ったでしょう、言いなりになるつもりは無いって」
口を尖らせてそっぽを向く姿が子供っぽくて、別谷は思わず吹き出してしまう。
「ぷっ…あははははははは!」
「なっ!?そんなに笑うことないじゃない、もう!…………ふ、ふふっ」
お互い身も心も疲弊しているのに、不思議と笑顔になる。
ひとしきり笑った後、別谷は思い出したように立ち上がって、
「…うん、お前はもう大丈夫だよ城崎。最初にここで会ったときみたいな、余所行きの顔はすっかり消えた。きっと、大丈夫だ」
「どういうこと?」
「お前は既に、病魔の力に頼らなくたって自分をちゃんと表現できてる。ただの人間として、これからも生きていけるさ」
そう言って城崎の頭を撫で回すと、仕事は終わったとばかりに踵を返した。
「ま、待って!生きるって……十五人も人を殺したわたしは、これからどう生きていけば良いの!?」
あっという間に離れていく別谷を慌てて追う。
縋るような問いに、しかし別谷は答えを示さない。
「オレが知ってるわけないだろう?それはお前の人生なんだ」
「それは……」
「その答えは、お前がこれから自分で見つけるんだよ。それが多分、自分を持つってことだ」
けどまぁそうだな…と別谷は頬を掻いて、
「いきなり一一〇番に連絡しても向こうが混乱するだけだろう。オレの知り合いに病魔犯罪の専門家がいるから、ソイツを通して連絡するよう手配しておくよ」
「そう………きっとわたし、施設送りになるんでしょうね」
「病魔罹患者の隔離施設に?どうして」
「だって、これだけのことをしでかした病魔――」
「お前はもう、罹患者じゃないんだぜ」
あ……と今更のように気付く。
「お前は病魔なんて抱えてない。かつては恐ろしい症状を発症し十五人もの少女を殺害したが、どういう訳か今はその力を失ってただの人に戻ってる。だったら、お前の行く先は隔離施設なんかじゃなくて、ただの裁判所だ」
まっとうな人間として、人を殺めた罪と向き合う。
自分の命は一つしかないのだから、その罪の重さはどう尽くしたって清算することは叶わないかもしれない。
遺族にしてみれば城崎を十五回死刑に処しても足りないと思うだろう。
生きていること自体に怨嗟の念を向けられることだって考えられる。
ともすれば病魔罹患者としての烙印に甘んじ、施設に隔離される方が精神的には楽かもしれない。
それでも。
「――――ありがとう」
城崎音代は、感謝の言葉を選んだ。
「礼を言われるようなことした覚えはないけど、ああ…どういたしまして」
その決断は今、この場所においてだけは、何にも代えがたい輝きを持った意志だった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!