「さて、それじゃ始めようか」
「よろしくお願いします!」
あさひビルの事務所では、神流と等々力が向かい合って座っていた。神流は自分のデスク、等々力はデスク前の応接用ソファに腰掛けている。
「まずは復習になるが、病魔と呼ばれる症状は何に起因するとされている?」
「遺伝子異常です。それも、性染色体の」
「そうだ。ヒトは性に関係なく保有する二十二の染色体に加えて、性染色体を二つ持っている。いわゆるX染色体とY染色体だな。この組み合わせがX二つなら女性、XとY一つずつなら男性としての形質が現れる…っていうのは今の時代、誰でも知ってるか」
「勉強したことはあっても、記憶に留めている人はあまりいないんじゃないですかね?高校数学みたいに」
「いち科学者として、それはそれで寂しいものがあるわね…」
そう言いつつも諦め気味の笑みを浮かべる。
この道を歩んできた神流自身が、等々力の言葉が正しいことを理解していた。
「ともあれ、だ。この性染色体のうちXの方が鍵になってくるわけだが、どうしてなのかはまだ説明していなかったな?」
「そうですね。細かい内容はまた今度、という話でした」
病魔からは少し離れるが…と神流は前置きして、
「ひなた君はライオニゼーションという言葉を聞いたことがあるかい」
「いえ…。初めて聞きました」
「うん、まあそうだろうさ。アタシから訊いといてなんだが、知ってたら逆にびっくりだ」
「遺伝子に関わる専門用語ですか」
「その通り。今から四〇年ほど前にメアリー・ライオンという生物学者が提唱した、染色体の不活性化を指す言葉だ」
「不活性化?けど染色体って、生き物の設計図にも例えられる重要なものですよね。不活性化ということは、その機能を使えなくするということですか?」
「その疑問はもっともだな」
くつくつと楽しげに笑う。
知的好奇心に貪欲な等々力の姿は、彼女にとっての清涼剤であった。
「これは結構勘違いされてることなんだが、染色体そのものが設計図というわけではない。まあ…遺伝子、DNA、染色体……この辺の言葉は世間で一緒くたにされがちだから仕方ないのかもしれないね。遺伝子は概念、DNAは物質名、そして染色体は組織名だ。生物の姿かたちや特性を決定する設計図が遺伝子という概念であり、その遺伝子の役割を果たす物質がDNA―デオキシリボ核酸であり、DNAを保有している微小組織を染色体と言う」
「なんだかこんがらがってきました…」
「それなら料理のレシピ本を思い浮かべるといい」
「本ですか?」
「そう、本。料理という完成品をつくるために、書いてある内容を読み取るだろう?その情報が遺伝子だ」
そこまで説明すると、等々力も合点がいった様子で神流の言葉を引き継ぐ。
「ああ…!なるほど!じゃあ情報の役割を果たしている文章や写真そのものがDNAで、そんな情報がたくさん詰まってる本自体が染色体ってことですか」
「流石の理解力だな。君が飲み込みの早い若者で良かった」
「神流さんの説明が分かりやすいからですよ。塾の先生とか向いてそうです」
「冗談。アタシにゃ無理さ、他人に教える暇があったら自分の研究に充てたがる性分だからね。それは君が一番分かってるだろう?」
意地の悪い笑みを浮かべて言う。
だが確かに神流の言うことは事実だった。
「そうでしたね。本当、なかなか私に向き合ってくれなかったんで最初は心が折れそうでした」
「実際折るつもりでいたんだがな」
うわひどーい!という野次と共に女子二人の笑いがこぼれる。
神流と等々力は教師と生徒ではなく、さりとて友達とも違うこの不思議な距離感の付き合いを互いに気に入っていた。
「―さて。話を戻すが、ライオニゼーションは染色体の不活性化を指す現象だ。さらにこの場合、対象となる染色体は雌個体の性染色体に限定される。どうしてだか考えられるか?」
「……不活性化させないと何か不具合が起こるから、とか」
「良い読みだな。雌は性染色体としてX染色体を二つ保有しているわけだが、これがまずい。X染色体として生物に必要な情報は一つで充分なんだ。事実、雄はX染色体一つで正しく生物として機能しているだろう?」
生物はどんな機械より精緻に組み上げられている、というのが神流の持論。
無性生殖から有性生殖へと進化することで圧倒的な多様性を獲得した生物は、しかしその仕組みを構築する中で避けられない問題に直面したのだ。
「実はX染色体が同時に二つ存在してしまうと、生命体としての機能が保てないことが分かっている。一つの参照先に異なる情報を持つ「同じ染色体」があるんだ、そりゃ設計図として破綻もするだろうよ」
「そのための、不活性化」
「そ。どうして三毛猫ちゃんが雌にしかいないのかってのも、これが理由だ」
「どういうことです?」
「猫の体毛色のうち、黒か茶かを決定する遺伝子はX染色体にある。不活性化によってどちらが有効になるか決まるわけだが、その不活性化が猫の身体においてランダムになったとき、全体として三色がバラバラに発現した猫が完成する」
正確には遺伝子型がヘテロ接合かどうかも含めて議論しなければならないんだが、とか何とか呟いている神流の意識を等々力が現実に引き戻す。
「それで、その、X染色体の不活性化―ライオニゼーションが病魔の鍵なんですよね?」
「ん、ああ、そうだった。そのための話だった。X染色体の遺伝子異常が病魔の原因。そしてそのX染色体は、ライオニゼーションされるのが正常…とくれば、どんな異常が罹患者の身体で起こっているかは想像できるな?」
「不活性化が正常、に対する異常……えっ…でも神流さん、それはさっき!!――」
取り乱しそうな反応から、神流は目の前の少女が真実に辿り着いたことを察する。
「そうだ。彼女たちの性染色体は不活性化されていない――二つともな。つまり、生命体としては本来生きている筈の無い状態で、彼女たちはしかし存在していることになる」
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