万華ノイシ

――奇病を咲かすはよろずの乙女。華を散らすは誰が為に。
篶杜守
篶杜守

病魔-lecture-その3

公開日時: 2020年10月9日(金) 21:00
文字数:2,722

 当然といえば当然だが、現場には何も残っていなかった。

 そりゃそうだ。

 人間一人分の血の池があったら誰でも普通じゃないって分かる。今のご時世、まず真っ先に病魔の関与が疑われるだろう。

 疑心はそれこそ病のように伝播し、膨れ上がり、やがては人を攻撃的な衝動に駆り立てる。

「だからこの対応は正しいんだけど。というか、本当にここで合ってるんだよな…?」

 跡形も無さすぎて心配になってきた。

 写真にあった路地と同じ場所だとは思うけれど、壁の形の他に確かめる要素が無い。荷物が増えるのを覚悟であの資料を持ってくるべきだったかもしれない。

 何の変哲もない場所を行ったり来たりするのが不自然だったのだろう、

「もし。何か捜しモンですかね」

 通りがかった爺さんに声を掛けられてしまった。

「あーえっと、まぁそんな感じです」

「大変じゃのう。そりゃ小さいモンかね?儂ゃこの辺りで暮らしとるんで何か手伝えるかと思ったんじゃが、歳のせいか目が効かなくてな。小さいモンは見落としとるかもしれん」

「小さいというか、今は消えてるというか…。それよか爺さん、この辺に住んでるのかい」

「ええ、ええ。そうですよ」

 話の続く若者がいて嬉しいのか、爺さんは上機嫌に喋り出した。

「もうここに住み始めてから二〇年は経つかねぇ。あの頃は今ほど賑やかでもなくて、普通の住宅地という感じだったが。当時の穏やかさも良かったが、今の便利な街並みも儂ゃ気に入っとるよ。ただ造られる建物が皆おんなじような形をしてるのはいただけない。マンションが四角ならビルも四角、なんとも味気ないとは思いませんか。分かりますよ、四角いのは無駄が少ない。しかしその無駄にこそ味わいというか、人間味があると儂は思うんですね――」

 あ、これ放っとくと無限に話し続けるやつだ。

 どうしてこう、女と老人は話をしながら内容が二転三転するんだろう。喋ってるうちに記憶の引き出しが刺激された、とかそんな感じだろうか。

「へぇ。それじゃあんた、ここらのことには詳しいんだ」

「んん、詳しいなんて言えたモンじゃないがね、住んできた年月ぶんは知っとるよ」

「そんな爺さんに訊きたいんだけどさ、ここ一週間のうちに見慣れない人間が現れたりしなかったかい?」

 無論、ただの通行人以外での話だ。

「見慣れぬ人影とな」

「そうだな例えば…新しく住み着いた浮浪者とか、家出したような女学生とか、今まではいなかった不良とか、そういう感じ」

「うーむ…?」

 ああくそ、何が「そういう感じ」なのか。

 曖昧にも程があるオレの説明ではニュアンスが伝わらないらしく、爺さんは首を捻るばかりだった。

「人影に心当たりは無いですねぇ」

「すんません。意味の分からない質問しちゃって」

「いえ、しかしね、あなたの見慣れないという言葉でひとつ気付いたことがあるんですよ」

「それは?」

 不思議で仕方がないという表情で、老人はオレの背後を指差す。

こんな所に道なんてあったかのう、と思いまして」

「…ん?」

 不自然なことを言う。

「どういう意味さ。この路地を見るのは初めてだっていうのかい」

「――おや?んん…いや、良く考えたら勘違いのような……儂は一体何を言って…?」

 ますます訳が分からない。目の前の爺さんは一人で勝手に思考の迷路に入ったんだろうか。

 さっきの「気付き」そのものが嘘であるかのようにかぶりを振る。

「毎日散歩もしとるのに、案外周りを見とらんもんですなぁ。ある日突然道が出来るなんて御伽噺でしかあり得んでしょうに」

「御伽噺、ね」

「力になれんですまんのう。もしそれが失くしちゃいけない大事なモンだったら、そこの角を右に曲がった先に交番があるから、お巡りさんに助けを求めるといい」

 それじゃあ、と会釈して別れた後もその老人は何度か首をかしげていた。まだ自分の記憶と現実の間にすれ違いがあるんだろう。

 ちょっとだけ罪悪感。だ。

 だが、おかげで収穫に繋がるかもしれない芽を見つけた。

 爺さんの記憶違いならそれで良し。逆に一夜のうちに道ができる御伽噺が本当なら、そんな現象を引き起こせるのは病魔だけだ。

「さて…鬼が出るか蛇が出るか」

 足を向けるのは路地の奥。

 そこは道というより、隙間だった。

 五階建てくらいのビルとビルに挟まれたその隙間は人ひとり分の幅しかなく、ガタイの良い男では体を斜めにしないと進めないだろう。

 日の光が天井にしか見えず、三歩進んだだけで空気が変わったのを感じる。

 白から黒へ。

 表から裏へ。

 陽から陰へ。

 素肌を晒した部分がひんやりとする。両側のコンクリートから冷気が滲み出ているようだ。

 オレは幽霊の実在を信じていない―だって実在したらそれはもう霊じゃなくて只のモノだから―けれど、すぐ傍に存在したならこんな冷気を感じるんだろうか。

「…結構入り組んでるな」

 爺さんの話によればここ二〇年で街の姿は様変わりした。

 住むための町から暮らすための街に。

 その過程は後付け増設のようなものだったのだろう。そのくせ体面だけは良くしようとした結果、見られることのない裏側がヒトの内臓じみた迷路になっている。

 建物の枠に沿って曲がりくねっているから、今自分がどの方角を向いているのかも分かりにくい。

 天を仰いでも明暗差で真っ白にしか見えない。

 体感で表通りを横切ったときの倍くらい歩いたころ、オレは見切りをつけようとして、

「―――、これは」

 目に留まったのは空間。

 正確には、中身が何も入っていないビルの一階部分だった。

 こんな廃ビルが、通りに面した建物と建物の間に隠されるようにして立っていることにも驚いたし、何より一番気にかかったのは、

「…誰かが出入りしてるのか?」

 中身の残ったペットボトルやコンビニ飯の袋が散乱しているのが見えたことだ。

 まだ新しい。捨てられて一週間も経ってないとみえる。

 それだけならばホームレスが寝床にでもしてるんだろう、で済む話なのだが、ここは例の事件が起こった場所とは目と鼻の先なのだ。

 これが直接の手がかりになるとは思い難いが、この際それでも構わない。ここで生活している人がいたなら事件のことも多少なりと知っているだろうし、ここ数日の様子を教えてもらうことにしよう。

 そう考えて廃ビルに足を踏み入れたオレを出迎えたのは、そこらじゅう―床、壁、階段、窓―に作られた不出来なスプレーアートだった。

 そもそもアートと呼んでいいのかも怪しい。

 どれもただ塗料をぶちまけただけの単調なものだし、そのうえ色が錆びた血のような赤黒一色の――否、

「おいおい……ここで猛獣でも飼ってたってのか」

 軽口を叩いてもオレの声が虚しく残響するだけで、ちっとも空気は良くならない。

 廃ビル一階の一面に点在するスプレーアートは、すべてがあの資料の写真と同じ、人を爆殺した痕跡だった。

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