おふくろの味、家庭の味。
子供の頃から家庭でよく出される食べ物の味は、大人になってからでもふとしたきっかけで思い出すことがあります。
実家を離れ、社会のストレスにさらされ、暴飲暴食に走る前に、自分を育ててくれた味を思い出してみるのもいいかもしれません。
「はいこれ、お誕生日おめでとう。」
母はそう言ってリボンでラッピングされた小箱を私に手渡した。
「近所に新しく雑貨屋さんができてね、そこでこれは気に入るぞと思って買ったのよ。」
嬉しそうに語る母に私が笑顔で開けていい?と尋ねると母も笑顔でもちろんと答えた。
赤と白のストライプ柄のリボンをほどき、カラフルな梱包紙を開けると中からまた箱が現れる。
その蓋を開くと中には大きなマグカップが入っていた。
私はそれを喜んで取り出し、一目で気に入ってしまった。
鮮やかな青磁に大きな華が彫りこんであり、カップの周り、細部にまで小さい葉や模様が幾何学的に描かれている。その美しさに魅了されつい言葉を忘れ見とれてしまった。
「大丈夫?あんまり気に入らなかった?」
それは母が心配して声をかけるほどだった。
私は慌てて否定し、最高の感謝と笑顔を返した。
それから私はそのマグカップを使わない日はなかった。
紅茶、緑茶、コーヒー、ジュース、もちろん水も、時にはスープを飲むこともあった。
学生を終え、就職し、いつの間にかお酒が飲める歳になり、マグカップを眺めながらほろ酔いになることもあった。
就職を機に始めた一人暮らしでも、家にいるときは常に何かを入れて飲んでいるほどそのカップを気に入っていた。
仕事を覚えだんだんと日々忙しくなってくると、眠気覚ましに朝のコーヒーが欠かせなくなってきた。
へとへとになり夜中に帰宅しても、翌朝のコーヒーがあればその日の活力を得ることができる。そう思い込んでいた。
種類にこだわりはなくインスタントだが、いつも一口目をすする前に大きく香りを吸い込んでいる。
この瞬間がたまらなく好きだ。
この香りで眠気やダルさがすっきりし、続けて一口飲めばさぁ今日も一日頑張るぞとやる気が目覚める。
しかし今日はいつもと様子が違った。
昨日も終電間際で帰宅し、今朝も日が昇る前に起きだしていた。今日は体が妙に重く、ダルさを感じていた。
いつものようにカップにインスタントのコーヒーを入れ、お湯を注ぐ。丁寧にかき混ぜて溶かし、香りをかいだ瞬間、あたりがクラクラしてきた。
手に持ったカップの中を見るとブラックのコーヒーがまだくるくる回っている。おかしなことにカップの表面に彫られている華もクルクル回りだした。さらにその周りの幾何学模様も円を描くように動き出し、カップからは目が離せなくなった。
その光景にどんどん引き込まれ、ついには目を回しふっと意識が遠のいた。
次の瞬間、目を開けた感覚はあった。
が、周囲は真っ暗闇だった。それになんだか暖かく、先ほどまでのダルさも消え、体がふわふわしている。
声を出そうと口を開けると大量の液体が流れ込んできた。慌ててもがき、気が付いた。ここは水中だと。
しかし不思議なことに苦しくはなかった。徐々に落ち着きを取り戻すと、この液体の味を感じることができた。それはいつも飲んでいるコーヒーの味だった。
なぜコーヒーの中にいるのか?なぜ苦しくないのか?疑問が次々に浮かんでくるが、真っ暗闇ではどうすることもできないので、しばらく水中を漂ってみることにした。
するとぼんやりと何かが浮かんできた。
それは私の部屋の景色だった。
朝、忙しく準備をする私がコーヒーを飲んでいるところだった。飲み終えると時計をちらりと見て、慌てて部屋を飛び出していく。
ふっと景色が変わった。
同じく朝の自分の部屋の風景だが、着ている服が違う。
相変わらずいそいそと準備をし、出がけにコーヒーを飲む。そしてまた景色が変わり、同じような朝の風景を繰り返す。
私はここ最近コーヒーばかり飲んでいたことに気が付いた。昔はもっと色々飲んでいたのになぁと。
このカップで前にコーヒー以外の物を飲んだのはいつだったかと考え始めると、急に流れが発生し、私は押し流されてしまった。
必死に泳いで留まろうと試みたが、激流に落ちた木の葉のように流れにもまれて再び意識を失った。
目を開けると今度は先ほどとは真逆に真っ白い世界が広がっていた。
未だ水中にいるような感覚だ。周りの温度もあまり変わらず暖かい。
私はソレの味を確かめるため口に含んでみた。
まろやかな口当たりにかすかな甘みを感じ、私はこれがホットミルクであると確信した。
正体がわかるとまた目の前にぼんりと景色が浮かび上がってきた。
だんだんと見えてくる景色はやはり私の部屋だった。
今度は夜の時間か、部屋が暗い。ベッドの上で右に左に寝返りを打ち、なかなか寝付けなさそうな私がもがいていた。
あぁ、そうか、とこの時のことを思い出した。
確か少し前にどうしようもなく疲れていたのになかなか眠れない時期があった。
試しにホットミルクを飲んでみると、あの暖かさと落ち着く甘さでリラックスして眠ることができた。それからしばらく毎晩のようにホットミルクを飲んでいたことを思い出した。
あの時は確か取引先とのクレームで大きなストレスを背負っていた気がするなと思い返していると、また体が流されていることに気が付いた。
今度は抵抗せずに、目をつむり、流れに身を任せてみた。
ふわふわと暖かい中を流され、漂い、意識が微睡んでくる。
気が付くといつの間にか流れがおさまっていた。
今度の世界は紅かった。 透明感のある紅い水中に私はいた。
これは紅茶だと一目でわかった私は、どんな味か確かめるため口を開けた。
一口飲みこむと茶葉の複雑な味が広がり、水の中にいるのに強い香りを感じることができた。その香りを感じた瞬間、眼が熱くなるのを感じた。
これは、母が淹れてくれた紅茶だ。
いつの間にか私は実家のキッチンに立っていた。忙しさを理由にもう何年も帰っていない実家。キッチンの様子は私の記憶に残っているものよりきれいな状態だった。
後ろを振り返ると満面の笑みで包みを開き、マグカップを眺める幼い私と、それを愛慕の笑みで見つめる母がいた。
母は幼い私に一番最初に何を飲みたいかと尋ねた。私は迷わず紅茶とこたえた。
立ち上がり振り向いた母と目が合った気がしたが、そこに私など存在していないかのように母は通り抜けた。
戸棚からいくつかの茶葉が入った瓶を取り出し、それを少量混ぜ合わせティーポットに入れる。
お湯をゆっくりと注ぐとガラスのティーポットの中で茶葉ふわふわと舞い始める。
徐々に色が紅く、濃くなり、いい香りが漂ってくる。
母は独自に茶葉をブレンドするほどの紅茶好きで、私もこの特製の紅茶が大好きだった。
そして共に待つ紅茶を蒸らす時間も好きだった。
いつも紅茶を飲みながら学校での出来事や、悩み、相談、他愛ない母娘の会話をする大切な時間……。
どうして今までそんなことも忘れていたのだろうか。
仕事、仕事で忙しいを理由に私自身を大切にすることを忘れていたのではないだろうか。
大人になった気がして一人で抱え込みすぎて、でも心の奥底ではこのままでいいのかという声にならない悲鳴を上げていたのではないだろうか。
ふっと涙がこぼれた。
鼻をすすり、手で目をぬぐうと私はもとの自分の部屋に戻っていた。
手にはコーヒーが入ったマグカップを持っており、まだ湯気を漂わせていた。
ぼーっとする意識の中、私はそのカップを見つめていた。
長年連れ添っているこの相棒のマグカップは、もしかしてこんな私を心配して夢を見せ、自分の気持ちに気が付かせてくれたのではないかと思った。
少しぬるくなったコーヒーを一気に飲み干し、母に電話をかけた。こんな朝に何事かと少し驚いた様子で電話に出た母の声は昔と変わっていなかった。
私が久しぶりに紅茶を飲みたいと言うと、母は少し間をおいて、優しい声でいつでも帰っておいでとこたえてくれた。
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