思いがけない提案に、喉の奥から間抜けな声が漏れる。喜びから一転、アヌエナは不審も露わに相手を見返すが、しかし世界樹の管理者は動じることなく続けてきた。
「私のお願いを聞いてくれませんか? 聞いてくださるなら、このフソウを登る許可をお出します」
「は? どうしてあなたの許可がいるのよ。こんなバカでかい木、誰がどう登ろうと勝手じゃない」
「管理者ですので。勝手に登られては困るんです。それに馬鹿でかいからこそ、登り方があるんですよ」
「登り方?」
「フソウの上層は、空気がものすごく薄くて火が使えません。気球ではまずたどり着けませんし、飛舟でも無理でしょう。たとえ到達できたとしても、普通の人間はまず無事ではすみません」
空を生活の場としているのなら、高高度飛行の危険性はよく理解しているはず。
そう諭すように言われ、アヌエナは押し黙った。睨むように眉根を寄せ、次いで空の森の中央へ目を向ける。そこには天を衝くように長く伸びる樹影と、夕闇をも覆うように広がる雲影があった。
(高度が増せば気温も気圧も下がるし、あの雲も世界樹が見えた時からずっとかかってる。防寒も防水も用意してたけど、実際どこまで上昇すればいいのかは分からない。もし飛舟|《とぶね》で届かなかったら――最後は世界樹の幹を直接登るしかない)
商人としての理性が告げる。
安全に進めるのならばそれに越したことはない、と。
アヌエナはカグヤの目をまっすぐに見据えて応じた。
「分かったわ。わたしも空を渡る民の娘だし。交易を生業にする以上、正当な取引には正当な対価を払うわ」
「ありがとうございます。商談成立、ですね」
とにもかくにも前進だ。背中に負った荷物を一つ降ろした気分になって、湯船の中で大きく体を伸ばす。
「それで取引って、なにが欲しいの。言っとくけど、そんなに高価なものは払えないわよ。……後払いでいい、っていうならまだ何とかなるかもだけど」
「いえ。モノが欲しいのではありません。お願いを聞いてほしいのです」
「そう言えばそうだったわね」
思い返しながらうなづき、目線で続きを促す。すると、自身を人形という管理者はとんでもないことを言い出した。
「ヒタクを一度、フソウの外に連れ出してくれませんか? どこかの近くの土地……帰りの風を考えるならクロロネシアでしょうか。そこへ交易に行く形で、ヤタを案内役に」
「はあ? なんで!?」
お湯をはね上げる勢いでアヌエナは問い返した。だが、返ってきた答えは簡潔だった。
「社会勉強です。あの子もずっと、この森で暮らすわけにはいきませんから」
「いやいや」
「案内料は別に付けますから……ヤタ」
「クァ」
主の呼び掛けに応じるように、朝焼け色のカラスが鳴いた。小さく羽ばたき浴槽へとやってくると、足につかんだ小箱をカグヤの手の中に落とす。柔らかに受け止められた小箱は、そのまま流れるように少女へと開封された。
「こんなのはどうでしょう。普通の島ではまず採れない逸品です」
「え? なにそれなにそれ。初めて見る石なんですけど」
「琥珀です。この森から流れ落ちた樹液が大気の奥深くにたまり、高温高圧の環境に長時間さらされることで鉱物と化したものです」
「ほえー」
月明かりを浴び黄褐色に輝くその小石は、間違いなく宝石の原石だった。まだ年若いアヌエナは取り扱った経験こそないが、先輩商人から宝石に関する基礎知識は学んでいる。この透き通った輝きを加工すれば、極上の逸品に仕上がるのは確実に思えた。
「ヒタクに外を経験させる対価として、これを。交易を終えて、あの子を無事に送り届けてくれた暁にお支払いします」
「これはこれは……」
輝きに引き込まれるように顔を寄せ、じっと原石に見入る少女。その耳元へ、管理者が囁くような調子で語りかける。
「あなたが望むのなら、そのまま取引を継続してもかまいません」
「え? それって、ずっと続けられるってこと? 一回切りじゃなく? 正式な交易ルートと思っていいの?」
「はい」
「おお……はっ!?」
思わぬ好条件に興奮したアヌエナだったが、我に返ると慌てて首を振った。魅力的な話だが、同時に怪しく感じる。身の安全に関わるだけに、ここは慎重にならなければならない。
「いやいやいや。空を渡る間、狭い舟に何日も男と二人っきりってまずいでしょ。もし何かの拍子になにかあったらどうしてくれるのよ」
「その点に関してはご心配なく。不埒な振る舞いをするようには育てていませんから」
「と、言われてもねえ」
「それでも万が一、なにかありそうになった時は――」
なおも渋っていると、彼女はすっと笑みを消した。そのまま、真剣な目で続けてくる。
「空に突き落としてくれて構いません」
それはつまり、あの少年に危険を感じたら大気の底に沈めてもいいということだ。地面に激突する恐れこそないが、だからこそどこまでも落ちて――あの灼熱の赤い空をも越えて――いくのだろう。羽ばたき機さえ封じておけば、まず助かるまい。
(弟の育て方によっぽど自信があるのか、意外に厳しいだけなのか。どっちにしても、取引自体は悪いものじゃないわよ、ね? というかもう、これ以上もの考えるの無理。頭がゆだってきた)
長湯でのぼせてきたこともあり、アヌエナは折れた。火照った顔を冷やすように空を見上げながら答える。
「ま、まあそこまで言うんだったらいいわよ。それに考えてみれば、おもてなしされてるんだからお返しは必要よね」
「ありがとうございます。これでヒタクにも、お友達ができるといいんですけど」
「そーねー。できるといいわねー」
「ふふ……ッ!」
突然、汗一つかいていないカグヤの笑みが強張った。そして次の瞬間、文字通り糸の切れた人形として湯船に沈み込む。
「ちょっと!?」
驚く間もなく、アヌエナは助け起こそうと反射的に身を乗り出した。だが温水の抵抗を受け思うように動けず、先に彼女が何事もなかったかのように起き上がった。
「大丈夫です。少し頭がクラッとしただけで。もう大丈夫です」
「本当?」
「はい」
「だったらいいんだけど……」
前髪から湯を滴らせながら微笑む姿は、つい先ほどまでと変わらない。だがその変わりのなさが、かえって人形を思わせた。今更ながらヒトならざる者と相対している実感が湧いてくる。本当に、彼女は取引相手として信用できるのだろうか。
「クァッ」
「は!」
袋小路に入りかけた思考を、カラスの鋭い鳴き声が断ち切った。我に返って現実を見ると、こちらをのぞき込む瞳と相対する。
「アヌエナさん?」
「あ、あー大丈夫。わたしもちょっと、のぼせてきたみたい」
改めて向き合うと、彼女は人間にしか見えない。少なくとも、こちらを心配しているその表情は本物だ。思い返せば空で遭難したヒタクを保護したのも、この女性だったのではなかったか。
(わたしにとっても命の恩人なのは確かなのよね。あの赤い森から自力で脱出するなんて不可能だもの。なによりも、この機会を逃したら何のためにここまで来たのか分からなくなる――うん)
空を渡る娘は覚悟を決めた。
「もう上がりましょう。無理に人間に合わせたみたいで悪かったわね」
「そんなことないですよ。こうしてお話しできてよかったです」
「そう?」
「はい」
カグヤは安心したように柔らかな笑みを浮かべると、パートナーに呼びかけた。
「それじゃヤタ。明日はお願いね」
「クァ」
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